畠中恵の『アイスクリン強し』、のっけの一文目からつまづいてしまって、とても不安になっている。
まだ一文目だし、読んでみたら作者の罠かもしれないんだけど、いややっぱこの文はおかしいよ。

畠中恵『アイスクリン強し』は、“時が時代を連れ去って、『江戸』が『明治』という名に改まった。”という一文で始まります。

「江戸」は時代区分もしくは地名です。「明治」は時代区分もしくは元号です。ので、「江戸」から「明治」に変わったと表される時、「江戸」「明治」が示すのは時代区分です。
時代区分は、後世の人間が便宜上名付けたものです。江戸時代の人間は自分が「江戸時代」に生きているとは思わないし、明治時代の人間は自分が「明治時代」に生きているとは思っていなかったはずです。
不勉強なので「江戸時代」「明治時代」という用語がいつから使われて定着したのかは不明なのですが、「江戸」から「明治」に変わったと表現して違和感がないのは、維新から百年後、百五十年後の昭和、平成の視点でしょう。

少し読み進めていくと、“そして明治も二十三年のある晴れた日”とあるので、どうやらこの小説の語りの視点は明治の中頃のようです。その同時代の視点で「江戸」から「明治」に変わったと表現するのは、わたしは違和感を覚えます。
明治の人間は、いつぐらいから江戸時代を「江戸時代」として認識していたんでしょうか。

もう一度原文に立ち戻ってみると、“時が時代を連れ去って、『江戸』が『明治』という名に改まった。”と書いてあります。
「江戸」は土地の名前です。「明治」は天皇の諡号です。ので、“名が改まった”と書くのは、今現在の視点からしてもおかしいんですよ。おかしいと思うんですよ。

小説の最初の一文って、とても大事じゃないですか。
なんでこんな文を一番初めに置いちゃったの?という困惑が大きくて。
“『江戸』が『東京』という名に改まった。”という文章だったら、つまずかずにいられたんですけれど。

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畠中恵『アイスクリン強し』読了。
キャラ立てと筋立てが巧みで、サクサクツルツル読める。

以下、長い不満になります。
このお話の舞台は明治の晩年で、明治時代背景の説明があるのですが、その説明が歴史の資料集の引き写し的で、物語の背景の説明になり切れていない感じがします。
作中、貧民窟が登場するのですが、その描写が露店に売り物が少ないことと、玄関口に戸板がないこと、南京虫がいることぐらいしか描写がなくて、そこに暮らしている人の景色が見えてきません。
「残飯を食べてる」という台詞はあるのですが、台詞だけで、どこでどういう残飯をどう確保して、どう食べてるのかとかは、分からない。

ゼリーなんかゼリーの単語ひとつだけで済まされてしまって。明治期の冷蔵庫の仕様や普及率を考えると、単語だけで済まされるものじゃないと思うのです。
お菓子の出てくるお話ならば、わたしはそのお話でそのお菓子を食べたいんですよ。でもこのお話、言葉を並べてるだけで、全然味がしないんですよ。
オーブンから漂う小麦と砂糖の香り、取り出したばかりのクッキーの熱さ、バターの重たさ、焼き上げたスポンジ生地の質感、クリームを泡立てる時の腕の怠さ、液体がだんだんとアイスに変わっていく喜び、果物を煮る時の甘酸っぱい香りetc. そういったものが、わたしは欲しかったんです。
噛んでも噛んでも味のしない話で、侘しかったです。

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