畠中恵『アイスクリン強し』は、“時が時代を連れ去って、『江戸』が『明治』という名に改まった。”という一文で始まります。
「江戸」は時代区分もしくは地名です。「明治」は時代区分もしくは元号です。ので、「江戸」から「明治」に変わったと表される時、「江戸」「明治」が示すのは時代区分です。
時代区分は、後世の人間が便宜上名付けたものです。江戸時代の人間は自分が「江戸時代」に生きているとは思わないし、明治時代の人間は自分が「明治時代」に生きているとは思っていなかったはずです。
不勉強なので「江戸時代」「明治時代」という用語がいつから使われて定着したのかは不明なのですが、「江戸」から「明治」に変わったと表現して違和感がないのは、維新から百年後、百五十年後の昭和、平成の視点でしょう。
少し読み進めていくと、“そして明治も二十三年のある晴れた日”とあるので、どうやらこの小説の語りの視点は明治の中頃のようです。その同時代の視点で「江戸」から「明治」に変わったと表現するのは、わたしは違和感を覚えます。
明治の人間は、いつぐらいから江戸時代を「江戸時代」として認識していたんでしょうか。
ゼリーなんかゼリーの単語ひとつだけで済まされてしまって。明治期の冷蔵庫の仕様や普及率を考えると、単語だけで済まされるものじゃないと思うのです。
お菓子の出てくるお話ならば、わたしはそのお話でそのお菓子を食べたいんですよ。でもこのお話、言葉を並べてるだけで、全然味がしないんですよ。
オーブンから漂う小麦と砂糖の香り、取り出したばかりのクッキーの熱さ、バターの重たさ、焼き上げたスポンジ生地の質感、クリームを泡立てる時の腕の怠さ、液体がだんだんとアイスに変わっていく喜び、果物を煮る時の甘酸っぱい香りetc. そういったものが、わたしは欲しかったんです。
噛んでも噛んでも味のしない話で、侘しかったです。