救いはある、というのがブランキの考え。
なぜなら、反復には分岐が伴うから。
今この牢獄で『天体による永遠』を書いている私はといえば、王政、帝政、共和制、私が生きたすべての政治体制下で危険人物と見なされ、犯罪者として投獄され、敗北に次ぐ敗北を重ねながら、あいかわらず同じことを繰り返している。何もかもが俗悪きわまる再版、無益な繰り返しなのだ。 けれども嘆く必要はない。なぜならば、この永続と反復にはつねに枝分かれが伴い、この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所でそうなっているのであり、すでに別の時空では別の私が革命を成功させているにちがいないのだから。
私は常に獄中に回帰してくるのではない。
反復は分岐を伴う。すなわち、獄外への分岐を。何人もの、いや、無数の私が、たえず獄外へ脱出しつづけている。回帰とは希望なのだ。
そのような無数の分岐の先には、もちろん上海も含まれる。
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ブランキ『天体による永遠』のエピローグ
《私は決して自分自身の楽しみを求めたのではなかった。私は真理を求めたのだ。ここにあるのは啓示でも予言でもない。単にスペクトル分析とラプラスの宇宙生成論から演繹された結論にすぎない。上記二つの発見が我々を永遠にしたのである。それは思わぬ授かり物だろうか? それなら、それを利用しようではないか。それはまやかしだろうか? それならあきらめるほかはない。》――浜本正文訳『天体による永遠』
それは授かり物か?
ブランキはこの書を、幽閉されたトーロー要塞の一室で綴った。
すでに老齢の60代半ば、イギリス海峡に望む岩礁に築かれた古い要塞で人生を終えることも覚悟しただろうブランキにとって、この書を仕上げたことは「思わぬ授かり物」であった。
ならば、それを利用しようではないか。ここに示したものは啓示でも予言でもない、私はついに真理を究めたのである。すなわちこれを我が思想の到達点とし、遺著としよう。ただし、現実のブランキはさらに10年ほど生き延びた。
それはまやかしか?
永遠は妄想の産物。ならば、あきらめるしかない。
たとえば、さっきまで俺がほっつき歩いてた、楊樹浦のユダヤ人街だ。白ペンキばかりがけばけばしいバラック建ての間から、ふいに、およそ辺りの様子とは不似合いな、甘ったるい花の香りが漂ってきたりする。つまり、この町の春にはそんなところがあるんだ。うっかりしていると、ぼんやり同じところに半日も佇んでいたりする、人のこころを空っぽにする何かが、春になるとこの町をすっぽり包みこむ。そんな町に、懐に入れたピストルのちょっと手ごたえのある重さ……俺は嫌いじゃない。
『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』から、繃帯の台詞。繃帯は顔の半分を汚れた繃帯で巻いた男。道端で拾ったピストルで頭の上の虻を撃ったところ。
虻を撃ったのは、紙弾頭のおもちゃの弾丸だ。実弾は……またどこかで拾えるだろうか?
小部屋。牢獄のような。
ト、寝台で繃帯と少女が裸で抱き合い、眠っている。春日の姿はない。
別のひとり……老人。鞄。燭台をもち部屋の中を興味ぶかそうに、仔細に観察している。
老人「何もかもそっくりだ。花崗岩の壁……不規則な凸凹だ。それぞれがそれぞれの形と色と持続……そして、生命をもった結晶をつくっている。ピラミッド形、円錐形、十二面体」
『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』は全31章、上はその中盤「14 窓」冒頭のト書きと台詞。
老人はブランキ。部屋を見回して、自分がとじこめられていたトーロー要塞の牢獄を思い出し、酷似の様相を数え上げる。やがて鞄から天体望遠鏡を取り出し、組み立ててのぞきはじめるが、見えているのは部屋の壁だけらしい。
寝台から繃帯が起き上がり、服を着はじめる。老人は振り向くが、たがいに相手の存在を気にするふうではない。
少女が目をさます。繃帯はテーブル上のピストルを取り上げ、止める少女を押しのけて部屋を出ていく。
老人が望遠鏡から目を離してつぶやく。「そうか……窓が違う。こんなに大きくて、それに格子もはまっていない」
「ブランキ版」の次の章は「15 プレリュード」。なにゆえ今さらの前奏なのか。
硝子屋が「ムッシュウ・プランタン」と伯爵に呼びかける。
伯爵の返事は、「忘れたな、何もかも忘れちまった」
ブランキが率いた革命組織「四季協会」は4つの大隊から成り、プランタン=春はその一つ。硝子屋の呼びかけに伯爵は「忘れた」とは答えたが、自分が「プランタン」であることは否定しない。ここ上海で「伯爵」と呼ばれている人物は、かつてブランキの指揮下にいた「ムッシュウ・プランタン」、すなわち「春大隊」の長が回帰してきて、かりに伯爵と名乗っているのだろう。
とすれば、伯爵の前身を知る硝子屋も、かつてブランキの周辺にいた何者かであって、それがここ上海に回帰してきたに違いない。
なぜ、今さらのプレリュードか。この章あたりから登場人物たちの正体=前身が見えてくるからではないか。
自説の永劫回帰をブランキが信じ切っていたわけではないこと。
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佐藤信『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』を再読。いちおう枠組みは把握できたとする。
登場人物は全員、19世紀のパリから20世紀の上海へ回帰してきた者たち――という理解でいいだろう。彼らのうちの一部はかつてのブランキ本人、一部は配下、その他周辺の者たち、ごく一部はブランキの敵対者。
最終章「終曲」の春日の台詞。
「いまこの瞬間、無数のぼくたちが、無数の橋の上で、無数の死体を前に途方にくれているんです。ぼくたちは間違っている。無数のぼくたちはみんな間違っています……」
ブランキがパリでやりそこなった革命は、ここ上海でも実らなかった。ぼくたちは間違っている……
宿題、なぜ上海か。
なぜ彼らは上海に回帰してきたか。言い換えれば、作者はなぜ上海を選んだか。
ブランキ版の最後の台詞も春日が言う、誰にともなく。
「ねえ、ここは上海ですか?」
この問の意味もわからない。
作者はドラマの場を上海に設定し、登場人物たちも上海租界を歩き回ったのだから、ここは上海のはずなのだが。あるいは、「いや、ここは東京」、そんな答えを期待してるのだろうか。
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