中国人のような異常な人生とは――
不自然に活発で、不自然に健康で、不自然に冷淡で、花や岩や木のように生き、自然と戦いながら同時に自然とともに生きる、そんな生き方。
中国人を不審がったり、けなしたりしているのではない。逆である。ミラーは人としての生き方の理想を中国に見ており、ドゥルーズらの『千のプラトー』もそれを引き継いだ。中国人なら壁抜けができるとの『千のプラトー』の論が『南回帰線』のこのあたりに拠っていることは、著者らが認めている。再掲すると、

《壁を通り抜けること、たぶん中国人ならできる。しかしどんなふうに。動物になること、花または岩になること、さらにまた、不思議な知覚しえぬものになること、愛することと一体の硬質になることによって。 》

私はある偽名を使って詐欺をはじめた。
香港では書籍販売人として身分登録し、教養をつけたがっている中国人宅を一軒残らず訪れた。財布の中はメキシコ・ドルでいっぱい、ホテルではハイボールでも注文するみたいに女を注文したが、中国人を騙すのはやさしすぎて面白くなくなり、マニラに移って同じ商売をつづけた。――

などと、ミラーの『南回帰線』にある。ただし、フィクションのはず。
中国や中国人に人の生き方の理想を見るようなことを述べる一方、20世紀前半の現実世界で出会う中国人や、出会う可能性のある中国人については、ミラーは賛美していない。
同じ『南回帰線』に、少年時代のニューヨークでのこととして、次のようなスケッチがある。

女の子のような年上の男の子がいた。私たちはその子を地面に引き倒して服をはぎ取ったりした。ゲイボーイがどんなものか私たちは知らないまま、なんとなく反感を持っていた。
私たちは中国人にも反感を持った。
街はずれの洗濯屋に中国人が一人いた。
教科書にのっている苦力(クーリー)の写真にそっくりの顔で、弁髪をうしろに垂らし、両腕を服の中に入れたまま、妙に気取った女性的な歩き方をした。彼は悪口にも無関心で、侮辱に気づかないほど無知のようにも見えた。ところが――

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ある日、皆でクリーニングの仕上がりを取りに店を訪れた私たちは、その中国人にひどく驚かさせることになった。彼は私たちに仕上がり品を渡すと、帳場の下からレイシの実をたくさんつかんで、笑いながらドアから出てきた。
そして笑ったまま、いきなり一人の耳を引っ張った。さらにつぎつぎに私たちをつかまえては、にやにやしながら耳を引っ張ったかと思うと、急に残忍な表情を浮かべ、帳場に飛び込むや長い不格好なナイフを取り出してきて、切っ先を私たちにむけて振り回した。
私たちはわれさきに店を飛び出した。街角まできて振り返ると、彼はアイロンを手に何事もなかったような顔で入り口に立っていた。

ミラーが同じ『南回帰線』の中で、「中国人のような異常な人生」とか、「不自然に活発で、不自然に健康で、不自然に冷淡」などと中国人の属性を述べるとき、そこには賛嘆の気持がこめられているのだが、このクリーニング店員の振る舞いとどうかかわっているのだろう。

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