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お題:人権は法か、倫理か?

私の意見は「人権は法(国際法)でもあり、倫理でもある」。ただし、その背後にはやや複雑な文脈がある。

哲学研究者レザ・モサイェビは、『カントと人権』の序章で「人権は政治的構想か、道徳的理論か」と論じている。

「人権は政治的構想である」という観点では、人権は国家主権より上位にある国際法である(つまり国際人権法と国連システム)。ただし、この構想は「強制力がない」という一点において否定、嘲笑される(柄谷による要約では、ヘーゲルはこの観点でカントを批判した。そしてイラク戦争やガザ虐殺時のアメリカは国連を嘲笑した)。

「人権は道徳的理論」という観点では、人権は世界共通の/グローバルな倫理的リンガ・フランカ(共通言語)である。グローバルサウスを含めて、世界中に人権を重視する人々が存在することは重要だ。

この2つの理論は相容れないとする考え方もある。「法」や「権力」は道徳と混ぜてはいけないと考える立場だ。

一方、私の立場では、人権は法(政治的構想)であり、倫理(道徳的理論)でもある、と言い切りたい。
(続く

ヒントは、アマルティア・センの言葉「人権は法だけでは守れない」。センは、法のレイヤーによる保護も大事だが、同時に倫理・規範のレイヤーも大事だと言っている。

世界中の人々が人権のアイデアを共有し、不完全義務として人権擁護を実行する。これにより法と行政の網をすり抜けた人権侵害を防ぐ。

なお、ここで「不完全義務」はカント哲学の用語で、「完全義務」=「必ず果たされなければならない義務」と対になる「なるべく果たした方がよい義務」を指す言葉。私はざっくりと「完全義務は法、不完全義務は倫理に対応する」と考えています。

日本でよく聞く「人権意識を高める」という言い回しがある。厳密かつ実効性を持たせる上では「不完全義務としての人権のアイデアを、わたしたち全員で共有しよう」と言い換えてみると分かりやすいと思う。

国際機関や政府機関による人権の保護はもちろん必要だが、(そして国際機関や政府機関の人権保護機能の実効性を高める努力も必要だが)、それだけでなく、個人のレベルでも「できることをしよう」と考えるのである。

@AkioHoshi 倫理や社会規範が法を創ると認識しております。前者が先、後者が後くらいの意味合いで。相互補完というところもありそうですが。

@Rano_Zy コメントありがとうございます。

いただいたヒントをもとに、当方の考えを言語化してみると、こんな感じです。

大きく2つの対立する考え方があります。

(1) 人の尊厳と権利は不可侵である(生得権、自然権の考え方)。したがって国家権力は人権を守らなければならない。
(カントの考え)

(2) 暴力を支配する国家権力こそが大事である。権威、権力なくして法の支配も人権も意味がない。
(ヘーゲルの考え。アメリカ合衆国のネオ・コンや、日本の右派の考えもこちら側)

私は上の(1)の立場です。「人権擁護が国家権力の正統性の根拠であり、政府機関の役割は人権の擁護である」という考え方で踏ん張るべきです。

その理由は以下のようになります。

(a) 理念=フィクションこそが人間の文明を作っているのであり、自然権、人権の理念には尊重する価値がある。
(b) 最大規模の人権侵害は国家権力が行っているのだから(例えばジェノサイド)、国家権力の行き過ぎを食い止めるための法が求められる。

@AkioHoshi こちらこそご返信ありがとうございます。拝読させていただき、後ほどまた感想などお送りいたします🙇

@AkioHoshi 国家も法律も(あるいは人権も)、個人の尊厳を保つための手段にすぎないわけです。その意味で私も⑴の立場をとります。
最初のご質問に帰れば、人権は個人の尊厳を確保するために倫理や哲学によって編み出された思想の(そういってよろしければフィクションの)ひとつであり、人権を保障するために国家や法律が存在すると私は考えます。つまり、人権は倫理によって創造され、次に法律によって実現されます。こう書きますと、やや倫理のほうに重きがあるとも言えますね。
ともあれ、目的(個人の尊重)と手段(国家)を取り違えないように気をつけたいものです。

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