登場人物の「アセクシュアル/アロマンティック」「デミセクシュアル/デミロマンティック」などの属性、ズバリのワードで明示しないと伝わらないっぽいことがほんとうに悔しい。
わかるでしょ?の目配せだけだと「異性愛読み」にのみこまれるから明示してほしいという気持ちも、登場人物のセクシュアリティを明示しない(できない)作者の都合もどっちも理解できると思う。そのうえで私は自作の登場人物のセクシュアリティを常に開示する「義務」(とあえて書くよ)はないと思っているし、明示してくれと迫られたらすごくつらい気持ちになってしまう。
このひとこそは…!と期待していたキャラクターが結局は恋愛/性愛/結婚し、そのことに傷つき、傷ついた自分が「未熟」なんだ…と自分を責める、というのをこれまでずーっと繰り返してきて、今でも繰り返しているので、もう中途半端に期待させないでほしい、初めからはっきり示してほしい、これ以上「裏切られた」と思いたくない、という感情は私も持っているつもりなんだけど、ううむ…
ここはほんとうにめちゃくちゃ人によるので絶対に一般化できない、どこまでも「私の場合」でしかない話だけど、私は登場人物のセクシュアリティを詳らかにするよりはまだ「A-specでフィクトセクシュアル(たぶん)の人間が書いている」ということを押し出していくほうがずっと耐えられる、し、今後はそうしていこうかなとも思っている。
何もかも、黙っていると作者も登場人物もすべて「異性愛者」にされてしまう世界のせい…
「勘違いかも」と怯えたり萎縮したりせず、ちょっと親しげな男と女とみれば気軽に「恋愛関係」とみなしてカップリングする世の多くの人たちのように、それらしい関係を見つけ次第「これってアセク/アロマでは?!?!」と軽率にA-spec読みを開陳していけばいいのかも。
A-spec表象、間違いなく少ないんだけど「ズバリの語は出していなくてもA-spec表象なのに、そのように受け取ってもらえない」というのもあると思ってるので。
#AromanticVisibilityDay
#アロマンティック可視化の日
あと孤伏澤つたゐさんの小説も「Aスペクトラムの物語」を求めている人に届いてほしい…三人の女性のゆるやかな連帯を描いた『ゆけ、この広い広い大通りを』では登場人物のセクシュアリティを名指すことなく、しかし明確に読者を裏切らない、曖昧でない描きかたがされていて、稀に出会うことができる、「ここには私を傷つける言葉が一語もない」と感じる小説だった。
『浜辺の村でだれかと暮らせば』も恋愛ではないところで繋がっていく人々と、その営みがていねいに描かれていてとても好きだった。
https://fedibird.com/@tutai_k/112563784016366558 [参照]