読書人の編集者たちも栗原がなにを言っているのかわかってないまま載せてる可能性のほうが高い、と私は思ってますよ。となると当然、水上さんのも森山さんのもなにが書かれているのかわかってない。単に持ち込みがあったから載せただけ、依頼したから載せてるだけ。なにがどう批判されてるのかも理解してない。だから社としての反応もできないし、そのくせ持ち込みがあったら載せちゃうから形だけは「両論併記」みたいになってしまう。少なくとも、そう考えたほうが納得がいくんですよね。
たとえば私のバイト先のチェーン本屋、東浩紀が何者かを知っているのは従業員約10名中よくて3名だと思いますよ。私と店長ともうひとりくらい。学生バイトとパートの人たちは「東浩紀の新刊ありますか?」と訊かれたらまずパソコンに向かう=在庫検索するでしょう。でも漢字がわからないかもしれない。
逆に、かれらは売れてるコミックのこととかは私よりも知っている。呪術廻戦の最新号が何巻でどこにどれくらい置いてあるか、とかはすぐにわかる。これは単に興味の向かう方向が異なるというだけの話であり、どっちが偉いみたいな話ではない。ただ、現実として、本屋の多くは文字通り「なにもわかってないまま本を置いている/置かざるを得ない」ということ。
社会に対して丁寧にアンテナを張り巡らせてる編集者なんて本当にひと握りしかいない。だから人文系の本の帯に安易に東浩紀とかを起用できちゃうし、本屋は本屋で東の新刊が出たら考えなしに平積みしちゃえる(最近出た『訂正可能性の哲学』『訂正する力』なんか典型的で、ふだんの振る舞いを批判的に見ていればどの口でそれ言ってんの?ってなる)。
こういうのは、だいたい本気で「なにが起きているのかわかってない/知らない」んですよ。単に「○○さんだから(きっと良いこと言ってるんだろう)」という判断材料でしかない。