イーロンが欲しているのは愚弄・嘲笑・冷笑・厭世などなどをコミュニケーションの基盤に置いた「古き良きインターネット=掲示板」なんだろうし、そこでどれだけおのれを痛めつけられるか、あえて傷を負いにいくような態度こそかっこよさであると思い込むことで自らの生存価値を見出すような、思春期の拗らせに似たなにかが、イーロンの行動原理にはあるように思える。ブロック機能廃止によるデスゲーム化はその象徴的な事例なのでは。
自らの存在の主張、その方法を間違えているということ。しかしイーロン的な者たちには、それ以外のやりかたがわからない。ゆえにそれらはすべてSOSだと捉えることが必要なのだとも思う。孤独や不安、何者にもなれないおのれへの絶望、そういったものをどうにかしたいしどうにかしてほしいが、その方法がわからない。そういう状況にある者に「お前は馬鹿だ、クズだ、害悪だ」というようなことを言ったところで改善はしない。そんなことは自分でもわかっているのだから。かれらは「自分はよい人間になることができない」と考えている。ゆえに、そのようなかれらを「変えたい」と思うのであれば、必要なのは罵倒ではなく療養になる。そして、残念ながらかれらにとって批判は罵倒にしか思えないし、「自分はよい人間になることができない」と考えている者は善意から差し出された救いの手すら拒絶することがある。
まだうまく言語化できないが、この感じは小中高の教室や遊び場における男子の振る舞いのなかにあったような、あのなんとも形容しがたい要素を感じる。これを単にマチズモという一言で理解していいとは思えないが、それを一要素として含むことは確かであるもの。イキることが自己表現になる、と言えばいいのだろうか。そしてそのイキりかたにも、外=他者に攻撃性を向けるものと内=自身に攻撃性を向けるものがあり、それらは別々でありながら混在もする。