まだうまく言語化できないが、この感じは小中高の教室や遊び場における男子の振る舞いのなかにあったような、あのなんとも形容しがたい要素を感じる。これを単にマチズモという一言で理解していいとは思えないが、それを一要素として含むことは確かであるもの。イキることが自己表現になる、と言えばいいのだろうか。そしてそのイキりかたにも、外=他者に攻撃性を向けるものと内=自身に攻撃性を向けるものがあり、それらは別々でありながら混在もする。
自らの存在の主張、その方法を間違えているということ。しかしイーロン的な者たちには、それ以外のやりかたがわからない。ゆえにそれらはすべてSOSだと捉えることが必要なのだとも思う。孤独や不安、何者にもなれないおのれへの絶望、そういったものをどうにかしたいしどうにかしてほしいが、その方法がわからない。そういう状況にある者に「お前は馬鹿だ、クズだ、害悪だ」というようなことを言ったところで改善はしない。そんなことは自分でもわかっているのだから。かれらは「自分はよい人間になることができない」と考えている。ゆえに、そのようなかれらを「変えたい」と思うのであれば、必要なのは罵倒ではなく療養になる。そして、残念ながらかれらにとって批判は罵倒にしか思えないし、「自分はよい人間になることができない」と考えている者は善意から差し出された救いの手すら拒絶することがある。
少なくとも、男子学生として当時を過ごした私にとって、イーロンやイーロンと相性のよい者たち(河野太郎なんかもそうだし、そのほか無名の賛同者たち)の振る舞いには、あの頃自分の視界の中に入ってきていたクラスメイトたちの振る舞いと欲望が、あるいは私のなかにもありながら抑えていた(つもりになっていた)それらを感じてしまう。たぶん、あれは(そしてかつての私は)「見ていて欲しかった」のだと思う。自らの存在の主張。そこに「痛みに強い/痛みを自ら引き受けにいく自分」というアピールポイントが加わると、なおさらよいことのように思えてしまう。