「<幻想2——インド・ヨーロッパ父系制>…
最初は父系制であったとする仮説は、家族構造が複合的なものから単純なものへと進化するという仮説と容易に組み合わされる。メインはインド・ヨーロッパ語族が過去において父系制であったと想像した時に、彼は北部インドの〈ジョイント・ファミリー〉を念頭に置いている。彼はそれを古代的(アルカイック)なものと考えたが、これはその時代のヨーロッパのすべての学者たちが、核家族とは近代の獲得物であると想像していたのと同じ考え方に他ならない。…インド・ヨーロッパ語族という幻想は、歴史社会学の〔父系制という〕この常識に調和的に統合されていたのである。
父系制の仮説それ自体は、本来的には母系制の幻想と矛盾するものではない。ギリシャ人は文明化された家父長制という理想が、家母長制の後に現われたと想像していた。この両概念の両立が難しくなったのは、インド・ヨーロッパ語族という仮説が付け加えられたからである。なぜならそれによって、父系制ははるか以前の過去のものとなってしまい、〔起源的過去のものとされていた〕母系制の幻想が処理不可能になってしまうからである」510頁
「ギリシャは多数の都市国家に細分化されていたために、アテネの勢力伸長以前の、女性のステータスの高さの痕跡を観察することができる。…スパルタの女性のステータスは、古典時代には文化的常識であり、スパルタが古代的(アルカイック)であることの印と解釈されていた。アテネあるいはローマの父系制を、インド・ヨーロッパ語族全体に共通した古代的(アルカイック)状態の残滓として提示するというのは、実のところ、歴史的な良識がかなり欠けているところを曝け出すことなのだ。なぜならアテネとローマは、まずは類型に収まらない都市国家であり、その後、歴史的成功を収め、伝統の保守よりもむしろ革新[父系革新?]の場となったのだからである」511頁
「長子相続制度は、最後はドイツ語圏を支配することになり、イングランドにも影響を及ぼしたが、生まれたのはフランスにおいてである。この革新はカペー朝初期に、パリ盆地のフランス貴族もしくはフランス・ノルマン貴族のもとで始まった。…本書の全篇を通じて一貫するテーマの1つは、人類学においては、ある概念とその反対概念とは相対的に近接しているということである。例えば、父系制と母系制については、そのそれぞれが未分化性に対して持つ距離よりも、互いの間の距離の方が近いのである。家族生活に関しては、権威と自由、あるいは平等と不平等についても同じことが言える。権威と自由の2つはともに、世代間の実践的相互作用が不明確な状況というものに対立する。平等と不平等は両方とも、個人を互いにランク付けすることに対する無関心というものと区別されるのである。分析がここまで来ると、未分化性の概念を以下のように一般化することができる。すなわちこの概念は、父方親族と母方親族、自由と権威、平等と不平等の間に打ち立てられる区別がいずれも存在しないということを含む、と」520頁
「絶対核家族——もっとも平等主義核家族もだが——は、いかなる人類学的・社会的実体もない空虚の中で、それだけがひとりでに機能することができると思い込むのは、大きな誤りであろう。絶対核家族は、起源的家族を囲い込んでいた双方的親族集団を脱ぎ捨てて、一時的同居および末子による高齢の両親の世話という実用的慣行を捨て去って——いずれにせよイングランド中心部では——、純粋なものとなったわけだが、これらの要素に代わる代替メカニズムに頼る必要が生じる。ケンブリッジ学派はもちろん、家族の超個人主義によって生み出された具体的な困難が、いかにして管理され得たかということを、思料した。…現地の共同体の機能の仕方…その重要性は、広範な親族関係の役割が減少するにつれて増大するのである。16世紀から19世紀までのイングランドの特徴の1つはまさしく、小教区の扶助と拘束の役割が、国家に依拠しつつ、早期に制度化されたことである。これはおそらくヨーロッパでも唯一無比の事例である」549頁
「工業化以前の社会保障も、世帯の純粋な核家族的構造も、平等主義的核家族のケースで、支配的ではあるが排他的ではないものとしてわれわれが出会った、大規模農業経営がなかったなら、考えられなかっただろう。確かに核家族は他の形で機能することもあるだろうが、次のようなことは確実である。すなわち、農業賃金労働は、昔の農村の枠内では、一般的に小さな家と、庭と、多少の家畜、それに共同体の土地での入会地放牧権と落ち穂拾いの権利の所有を随伴するが、ここの賃金労働は両親と子供の分離を可能にするということである。賃金労働が老人を助けることがあるとしても、それは副次的なことにすぎない。一方、賃金労働のおかげで、若者は使用人として働くことで資産を蓄積することができ、次いで両親から独立して収入を得ることができるようになる。イングランドでは大農民の息子たちも他の大農民の家に使用人として送り出されていた。こうしたセンディング・アウト〔送り出し〕の慣行は、純粋に経済的な面ではまったく正当化されるものではなかったが、これなくしては農村上流階級における絶対核家族の作動は、考えられないのである」550頁→
(承前)「したがって平等主義核家族地帯と同じく絶対核家族地帯において、家族の核家族としての完璧性と農地の集中との間の連合が見出されるのは、意外なことではない。とはいえ大規模農業経営と核家族との相互補完性を強調するからといって、経済的決定の観念に賛同していることには、いささかもならない。農地の集中はたいていの場合、経済的近代化の過程の結果として出現するのではなく、ひじょうに古いかもしれず、もしかしたら社会が成立したとき以来であるかもしれない歴史に由来する構造的要素として姿を見せるのである。このことは、カウツキーが気付いたことであったが、マルクスはそれに気付かなかった。私は『新ヨーロッパ大全』で、中世の大領地と近代の大規模経営との間に存在する連続性を分析した。…
…イングランドのケースでは、17、18世紀のエンクロージャーの動きが、貧しい農民が持つ共同体内の権利を清算することによって、それまでにすでに二極化していた農村の形態を完成させた。しかしエンクロージャーの分布図それ自体、中世の大領地の分布図と合致していたのである」550-1頁
「〈ル・プレイの類型以外の類型〉
これまでに記述された3つの家族類型(平等主義核家族、直系家族、絶対核家族)は、共通して高レベルの形式化に達している。これらの家族類型を構造化しているのは、核家族性か同居か、平等か不平等か、それとも遺言を行なう絶対的自由か、といった規則である。ル・プレイは、これらの規範を特定することによって、自分の類型体系を築き上げることができた。しかしまぎれもない周縁部的な古代的形態(アルカイズム)の保存庫にほかならないヨーロッパは、ル・プレイによってリストアップされていない形態を観察することもまた可能にしてくれる。…昔のシステムの残滓を見いだすのは、周縁地域の保守性という分析観点からすればまったく正常なことなのである」553-4頁
「ノルマン人の拡大によって、長子相続制は海を越えて各地へと伝播することになったが、とはいえそうして伝播した国々で、長子相続は元々の形態のままで生き残ることは、決してなかった。典型的な例がイングランドで、1066年という、やがて有名になる年に行なわれたノルマン人による最初の征服によって征服されたこの国がどうなったかは、周知の通りである。
ノルマンディでは、中世において貴族の直系家族の最も見事な具体化の1つが、総領制(parage)の理論によって形を整えることになった。総領制とは、宗主に対する封建的義務について長男を弟たち全員の分まで責任を負う者と指名する。弟たちは、土地と城館を保持したが、それでも跡取りに指名された息子の権威から逃れることはできなかった。このようなシステムは、長子相続の厳格性と柔軟な血統の横への拡大とを組み合わせるものであった」605頁
「ジョージ・ホーマンズ…は、13世紀のイングランド農民に関するその古典的な著作の中で、遺産相続慣習を研究している。彼は長子相続地帯と末子相続地帯を系統的に分けようとはしないで、まずこの2つの遺産相続様式は、微細なレベルで混ざり合っていると示唆する。…
これとは逆に、土地の分割可能性地域は、ホーマンズによって同質的で、それゆえに周縁部的な地帯として明快に定義されている。…
遺産相続規則についての彼の議論は、基本的には、各地域に定着した住民集団の民族的起源に関する、その当時めぐらされた思弁を採用したものである。…しかしもし、イングランドにおける長子相続地帯と分割可能性地帯の分布を、民族的起源に関するあらゆる予断を忘れて、全体的に眺めてみると、長子相続が中心部に位置し、分割可能性が東と西の周縁部に分布していることを見て取ることができる。長子相続制の規則が理論上の中心から発して周囲に押し付けられていったことが想像できる…中世イングランドの周縁部の検討は、長子相続の押し付けの試み以前のイングランド全域の姿を蘇らせることになるかもしれないのである」606-8頁
「〈直系家族概念の成功と挫折 農地制度による説明〉
…なぜヨーロッパ大陸の特定の地域で、ついには直系家族という概念が農民層に広がり、貴族のものよりもさらに厳格に農民の家族生活を構造化するに至ったのか…自ら望んでか、強制的であるかにかかわらず、農民たちによる長子相続の採用は、より稠密な家族形態をもたらすことになるのである。ただ1つの農地について、ただ1人の子供への分割なき移譲は、世代間の緊密な同居へと向かう可能性がある。…
…長子相続という理想の導入以前に、複数のはっきり異なった農地システムが存在していた…農地の経営で家族経営が多数派であったところでは、直系家族システムは調整に便利で、問題が起こった場合の解決策として提出されていた。中規模農地からなる、住民が充満した世界では、子供たちの転出の可能性が底をつけば、長子への不分割相続が横行する可能性があった。領主の大荘園が耕作空間の大部分を占めていたところでは、不分割のメカニズムは農村部のきわめて少数の上層カテゴリーにとってしか意味かなかった」609頁
「〈純粋な核家族システムの出現〉
イングランド(あるいはデンマークもしくはオランダ)の絶対核家族、ならびにフランス(あるいはカスティーリャもしくは南イタリア)の平等主義核家族は、ユーラシアという塊の周縁部に位置し、核家族性および親族システムの未分化という基本的な古代的(アルカイック)特徴を保存してはいるが、歴史的変遷の結果として単純化され練り上げられた形態である。われわれは中世から始めて、これらの核家族の出現を理解しなければならない。この時代に関しては…未分化の親族集団の中に包含された、近接居住もしくは同居を伴う核家族という仮説を受け入れることができる。農地制度の構造が基本的な説明要因となる」614-5頁
「〈平等主義核家族の再浮上 ローマの痕跡〉
平等主義核家族がまるまるかつてのローマ帝国の空間の中にすっぽりと収まる…
後期ローマ帝国の家族はそれ自体が、都市部では平等主義核家族の言わば原型であった。ローマ帝国のかつての版図には、平等主義的価値の文化的持続を想定しなければならない。それは都市システムの名残、大荘園、ブドウ栽培などに付着して、各地に拡散していた。…
貨幣経済への回帰、都市の再生、大規模農業経営——ならびにそれに対応する労働者——の再確立が、ローマの平等主義の残滓と組み合わされて、平等主義核家族の台頭を担保した。それは時とともに系統的に強化されていったと考えることができる。
長子相続制という徹底的な不平等主義概念が社会の上層階層に定着したことは、その反動で、住民の中の被支配的部分に平等という反対概念が明確化するのを促進することにもなり得た。…
とはいえ…あまりにも静態的な、言ってみれば構造主義的な見方を導くことになってはならない。…フランス革命以前には、個人主義的・平等主義的な家族は、模倣に値する上流階級に担われた威信あるモデルではなかった。したがって平等主義核家族が占める空間の増大の可能性は、農民共同体とその拡大というレベルで探求しなければならないのである」616-7頁
「〈イングランド的家族の創出〉… 遺言の自由な行使は、親族のいかなる統制からも解放するがゆえに絶対核家族の根本的要素であるが、とはいえこれの起源は、いつともしれぬ太古の昔に遡るわけではない。…中世の終わり頃には、家族というものが己の法的自由を回復しようと努力していたことが感知される。ヘンリー8世…から、遺言の自由が肯定されるようになる。1540年には、『従軍』義務が課せられている農地(封土)の3分の2とそれ以外の土地全部を自由に処分することが可能になる。革命下にあって、従軍義務のある保有地は明らかに時代遅れのものとなり、長期議会は1645年に遺言の完全な自由を確立する。…したがって遺言の自由は、比較的近年の歴史の生産物なのである」619頁
「〈直系家族と国家の誕生〉
ル・プレイの家族システム(平等主義核家族、絶対核家族、直系家族)は、歴史によって伝統的に認められた政治的空間の中で、形をとった。パリ盆地、カスティーリャ、中部ポルトガルという平等主義核家族地域の中心部では、国家が発展した。これには南イタリアも加えることができる。イタリア半島の中でただ1つ、中世に重要な領域国家、ナポリ王国が出現した地域である。さらにまた、イングランド、デンマーク、そしてオランダでも、絶対核家族は、単一の民族国家というものの歴史の枠内に収まるのである。ドイツあるいはイベリア半島・オクシタニアにおける直系家族は、これよりやや複雑である。この場合に成立する対応関係とは、早熟で、しかも流産した国家の歴史との対応関係である。つまり、中世の頃から始まって、やがて統一化的国家の台頭へと至るということがなく、小サイズの諸国家が存続するままにしたという意味で、流産した歴史なのである」620-1頁
ナポリ王国はヴァイキングが侵略して建設したもののはずだが…
「ヨーロッパ諸国家の誕生と直系家族の結びつき…長子相続は10世紀末に、国家の不分割の道具として台頭した。そして国家はますます民族と合致しなければならなくなる。直系家族は権威と不平等を組み合わせたものだが、この2つの価値は本質的官僚的な価値であり、また連続性という直系家族の理想は、近代国家へと向かう通路の1つであった。時として直系家族は農民層の中に定着し、そのようにして人類学的基底を構成するものになったのである。そこで歴史が示唆しているのは、直系家族が民衆の間であまりにも成功したところ、つまりドイツやイベリア半島・オクシタニア空間においては、国家は領土の面では拡大することを止めた、まるで不分割原則が小国家の非集合原則によって補完されたかのように、ということである。ところで農民の直系家族が、たいていの場合に表明している理想とは、複数の農園は集められて1つになってはならず、長男は跡取りの長女と決して結婚してはならない、というものである。その後、国家の開花は、まずはイングランドおよび北フランスを手始めとして、核家族の空間内で起こった。しかし絶対核家族と平等主義核家族は、部分的には、当初は国家の誕生に貢献していた直系家族に対する反動として誕生したのである」621頁
観念的な議論で感心せぬなあ…
「本書で提案されている家族システムの分析と説明は、フレデリック・ル・プレイにによって練り上げられた類型体系を著しく相対化している。しかし逆説的に、彼の好む類型である直系家族の、西および中央ヨーロッパの歴史の中における重要性を増大させることになってしまう。純粋な核家族類型の出現は、最終的な分析では、直系家族の出現に結びついたものとして姿を現わすからである。絶対核家族は部分的には、同居と不分割という直系家族的原則に対する反動であり、平等主義核家族は同居と不平等という直系家族的原則に対する反動であった。もちろん純粋な核家族類型が否定によって形成されて行くメカニズムという仮説を拒否することもできる。しかしその場合であっても、平等主義核家族と絶対核家族という家族類型によって最終的に占められる空間は、中世においては、上流社会階層の中での長子相続と直系家族という一般的な問題系によって表面が覆われていたことを認めなければならない。直系家族、平等主義核家族、絶対核家族が全部合わさって、直系家族的概念空間とも呼ぶことができるものを形作るのである」622頁
「ショーとサラーは、きわめて重要な証言を見つけ出した。聖アウグスティヌスが『神の国』の中で次のように述べているのである。すなわち、イトコ同士の婚姻は、法律が認可している場合でも、稀である。このことは、教会がこの問題に興味を抱き、婚姻の禁止をはるか遠くの親等の親族にまで広げる以前にも、同様であった、と。聖アウグスティヌスは、その際ついでに、外婚制についてまことに見事な社会学的正当化を提案している。彼によれば、これは人々の間、集団の間につながりを広げる、というのである。実際、ローマの拡大と征服された民族の同化は、もともと外婚への強い性向がなかったら、想像することができないであろう。家族内婚と外からの妻の獲得を組み合わせることを可能にするのは、一夫多妻制のみであったろう。しかしローマ人は…きわめて明示的に一夫一婦の徒であった」634頁
「内婚は現実に存在したが、統計的には微弱であり、それは己の歴史的特異性を自覚し、外に向かって自らを閉ざした集団によって獲得されたものであるという結論に達する。これはすでに日本のケースですでに[ママ]喚起した結論に他ならない。
東南アジアもさることながら、ヨーロッパには、核家族と、双方制が優越する親族システムと、4つのタイプの本イトコとの婚姻の禁止に対応する外婚制という3つの要素が見出される。交叉イトコ婚は、フィリピンでもそうだが、ヨーロッパには存在しない。ヨーロッパ大陸の中央部および西部における父方居住直系家族形態の出現、東部における父方居住共同体家族の出現は、親族用語にも、外婚制にも何らかの変更を強いることにはならなかったようである。親族用語は、ヨーロッパ中どこでも双方的なままに留まっており、外婚制もやはり双方のままである。父系制のロシア人でさえ、常にこのモデルに従っている。四方外婚の放棄の唯一証明されたケースである古代ギリシャのケースは、父系変動の影響をすでに受けていたシステム、それゆえ起源的基底から遠く離れたシステムに相当している。ギリシャの内婚は、ひとたびヨーロッパから姿を消してしまったのち、他の地[中東]できわめて見事な拡大領土を見出すことになった」637頁
「〈人類学のアラブ問題 父系内婚制〉…
…レヴィ=ストロースは、以下のように述べている。
親族の問題の研究が、民族学研究の中で第一級の地位を占めて間もなく1世紀になろうとしているのは事実であるが(…)それにもかかわらず、われわれの思索と研究のなかには、言わば保留領域、私としてはほとんどタブーと言いたいような領域が存在する。それはまさしくイスラム社会における親族の問題と婚姻の問題からなる領域なのである。[”Entretiens interdisciplinaires sur les sociétés musulmanes,” 1959, p.13.]
レヴィ=ストロースにとって、所謂『アラブ風』婚姻、すなわち父方平行イトコ婚は、彼個人に関わる問題である。この選好婚の存在のみが、そして旧世界の中央部空間へのその伝播普及が、もう1つのイトコ、すなわち母方交叉イトコとの選好婚に固着した彼自身の考察を、相対化してしまうのである」648頁
「家族構造とイデオロギーの関係に関する,以前発表した研究の中で、私はアラブの家族慣習の人格を越えた力と、とり立てて抽象的なイスラムの神との間には、何らかの関係があることを強調した。フロイトその他が提唱する、神は父親の似姿てあるという仮説を受け入れるならば、娘をだれに嫁がせるかを選ぶことができないこのアラブの父親は、永遠なる神というものの明瞭で能動的なイメージをあまり強力に支えるものではないということを、認めなければならない。
それゆえ、内婚制共同体家族を主題とするモノグラフを見ても、この家族は、外婚制共同体家族の特徴たる家内暴力と怨恨を表に現わすことがない。それは、息が詰まる、うっとうしいものとして体験されるようであるが、同時に、しかもとりわけ、温かく安心できるものとして体験されるように思われる。内婚がその周りに組織されている中心的な絆は、父と息子の関係の縦型の絆ではもはやなく、兄弟の連帯の横の絆なのである。ある意味では、兄弟間の関係の優位は、父親と息子の絆以上に、十全に発展した1つの父系制イデオロギーを前提とする」669頁
「家族形態の転換については、より古い年代を想定せざるを得なくなる。それはやはり西セム系集団の侵入と結合して起こったはずであり、共通紀元前2250年頃には、直系家族の不完全な父系制が対称化された父系イデオロギーへと変わる変換は、おそらくすでに実現していた、ということになる。この変換は、サルゴン王によるメソポタミア統一のほぼ直前に、アッカドで実行されていたと想像することすらできるのである」751頁
「エジプトの最も遠い過去の中に、ピレンヌは、ラスレットとマクファーレンがイングランドのはるかに近い過去の中に見出したものを発見した。すなわち、核家族と個人主義である。彼ら2人と同様に、彼は、大家族から夫婦家族へ、複合性から単純性への変遷を信じようとした伝統的な歴史社会学の不十分さを明らかにした。ピレンヌは自分の発見から理論的な結論を引き出してはいない。彼は、古代王国のエジプト家族はすでに近代的であったと言い、核家族性、双方性、遺書の使用といった近代性の属性を述べるだけに留めている。家族が大家族であったされるさらに遠い過去を、読者に自由に想像させているのである。
しかし、家族構造と全般的社会構造の関係については、彼は一気に、ラスレットとマクファーレンの2人よりも先に進み、[ロジャー]スミスの段階に達するのである。…ピレンヌもまた、家族の核家族性と国家の中央集権化を系統的に結びつけている。…ピレンヌはエジプト史の中に相次いで到来した3つのサイクルを区別するが、それらのサイクルの中で,国家の中央集権化の局面は、個人主義的法と核家族に相当し、国家秩序の解体の中間的な期間には、家族の複合的諸形態の精力伸長が介入してくるのである」759頁→
有賀喜左衛門の、生活防衛的な共同体としての「家」論とも親和的だなあ
「<父系制の誕生と伝播 その概観>
父系制は、ユーラシアの他のどの地よりも早くメソポタミアで出現した。しかし、中東空間の全域をたちまち占拠するに至ったわけではない。ひじょうに遅くまで、双方性の小さな孤立地帯があちこちに存続することになったのである。
男性長子相続制に結びついた〈レベル1〉の不完全な父系制は、おそらく〔共通紀元前〕3千年紀後半にシュメールに出現した。父系制が対称化されて、アッカドにおいて〈レベル2〉に達するのは、2300年から2000年の間か、もしくは1800年頃である。反女性主義の〈レベル3〉は、2千年紀の終わり頃、アッシリアで検出できる。
メソポタミアの中枢部から、父系制は、北東はペルシアへ、北西はフェニキア、ギリシャ、そしてローマへと広がっていったが、ローマでは結局、頓挫することになる。…
イスラムとアラブによる征服の直前まで、エジプトは依然として未分化な親族システムを特徴としていた。
アラブ人による征服は、これらの展開よりも後のことである。それは、中東において、父系原則によるこの地域全体の最終的同質化を実現する重要な役割を演じた。それはとりわけ、エジプトからモロッコにいたる北アフリカ全域に父系制をもたらした」776-7頁
「<アラブ人による父系制の獲得と内婚の発明 1つの仮説>
いわゆる『アラブ風』婚姻は、父系と双方性という2つの側面を含んでいる。その核心部分では、兄弟同士の子供たちの結合を特権化する限りにおいて父系である。また総体としては、いかなる種類のイトコであれ、ともかくイトコ婚に対する選好を表してもいるのであるから、双方的である。…
…内婚というものはつねに、女性は重要であり、商品のように交換することはできず、女性の血もまた生まれ来る子供が何者であるかを定義するのだ、ということを含意する。内婚とはつねに、双方性の証拠もしくは痕跡なのである。
父方平行イトコ婚が中心的であるということは、アラブの四方内婚の中心には父系原則があること、掟への違反としての内婚と父系的特徴の獲得との間に、何らかのつながりを探さなければならないこと、ということを見事に示している」789頁
「遊牧民フン人が父系的特徴を発見したとき、それは直系家族に結合した、あまり徹底的ではない形態で中国から到来したもので、多くの例外を許容していた。この同じ父系原則が、ベドウィン・アラブ人のところに到達した時、それは少なくとも2000年前から存在していたのである。それはすでに、絶対的な力によって、女性を社会の中心部から排除する周辺化を前提とするものであった。…
アラブ人によって発明された内婚は、父系制の最も極端な帰結から逃れ、きわめて暴力的な父系制、過激な反女性主義という環境の中で、双方的なつながりを保持するための1つのやり方だったのではなかろうか?
それにしてもアラブ風婚姻とは全く独特のものであり、このことは、父系への変動は容易なことではなかったこと、いくつもの特別な条件、つまり父系性と内婚が組み合わさることのできるような環境が必要となったはずである、ということを含意する。集団が自らの内側に閉じこもるということは、社会を小さな自律的集団へと細分化するベドウィンの生活様式にとって、おそらく現実的な技術的利点を提示しているのである」790頁
「核家族性と未分化性から共同体家族と父系制へという、ユーラシアの全般的な動きは明白である。3段階の父系制(男性長子相続の台頭、父方居住共同体家族、女性のステータスの徹底的な低下)が相次いで起こるのは、中東、中国、北インドで探知し得るシークエンスである。…中東と中国での〔父系共同体家族の〕台頭は、独立に起こった事象である。インドのそれは、おそらく最初からメソポタミアの影響の下で起こったのだろう。直系家族の段階で停止した不完全な進化は、日本と朝鮮、そしてヨーロッパの一部というように、ユーラシアの東と西に左右対称的に分布しているが、そのこと自体が、『周縁部地帯の保守性』効果の、特に明瞭な具体例となっている。ヨーロッパと東南アジアの核家族性は、歴史のさらに古代的(アルカイック)な段階に関するものであると言うことができる」795頁
石崎解説「安定的で不変の家族システムという共時態の土台の上に、トッドの卓見に満ちた歴史の解釈と分析が可能になったわけだが、この共時態は、歴史的推移という通時態を説明するが、それ自体は説明されない。説明されない、つまり理由も原因も持たない、ということは『偶然』という言葉で表現されざるを得ない。現に『第三惑星』のタイトルは『結論』のタイトルは『偶然』であった。
しかし人類の歴史が閲した長い時間の経過を思うなら、少なくとも『安定化』以前に想定される変動について、いつまでも判断停止を続けられるものではない。人類史、少なくとも現在の人類学=民族学の資料が可能にしてくれる限りでの人間の歴史を通しての家族システムの変遷を探求することは、人類学者たるものの責務ではないか。これが、トッドを『家族システムの起源』を求める新たな研究の道へと駆り立てることになったモチベーションであろう」830頁
「中東の家族形態の発展の中で、いくつかの全般的な結論は明快である。
・起源における、夫婦ならびに女性の高いステータスの明白性。
・メソポタミアの歴史の中の本来のシュメール局面における男性長子相続の出現。しかしそれは伝播普及して、ティグリス・ユーフラテス両河の平野全体に広がり、地中海にまで至る現在のシリアの領土にまで及んだ。
・家族システムの対称化。それは世帯の核家族性と父方近接居住を組み合わせた家族形態へとつながる。しかしそれは都市的環境の中で起こった変化であり、まぎれもない共同体家族を喚起する農村での不分割を伴っていた。
・メソポタミアの歴史における遊牧民現象の重要性。これら遊牧民の許で、ベドウィン系部族の家系的慣行を想起させる家系的慣行と、左右、南北といった対称化された概念を用いる部族的組織編成が、ハンムラビによる平等主義的遺産相続規則の法典化の直前の時代に、出現する。このことは、遊牧民の侵入による直系家族の対称化を示唆している。…
・女性のステータスの低下の激化。それには、新アッシリア局面を含む、いくつかの加速期があった。ここメソポタミアでは、父系の進展力は、時とともに自動的に強化されるという観念を含んでいる」752-3頁