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「すでに中国のケースを検討した時から、父方居住で外婚制の共同体家族というものが、どれほど自然なものではなく、個人にとって拘束的なシステムであったかを、私は強調している。私の解釈では、この家族の出現には特別な条件が必要であった。中国では、まず定住民の間で父方居住直系家族が出現し、次いで北方の遊牧民に萌芽状態の父系原則が伝達され、この原則がステップにおいて対称化され、最後にそれが中国を征服することによって帰還を果たすという複雑な過程があった。ステップのクランの父系制的対称性が、中国の父方居住の直系家族の上に上塗りされることによって、父方居住の共同体家族の出現が可能となったというわけである。このモデルを私はインド北部に適用することができた」500-1頁

「共同体家族の2つの変異体を区別すべきではなかろうか。1つは縦軸によって支配されたもので、もう1つは横軸によって支配されたものである。家族構造によってイデオロギーが決定されることを論じた私のこれまでの著作の問題系を再び取り上げるならば、縦型の傾向が見られる共同体家族と横型の傾向が見られる共同体家族を区別することによって、セルビアならびにイタリアの共産主義とロシアの共産主義との間に存在する重要な差異を理解することができるはずであると、認めなければならない。ロシアのボリシェヴィズムの厳格さとイタリアおよびユーゴスラヴィアの共産主義の柔軟性との間の対比は、第3インターナショナルの歴史の決まり文句であった」。おそらくこれはグラムシ…の柔軟性とユーゴスラヴィアの自主管理の起源に他ならないのである」503-4頁

「<幻想1——起源的母系制>
…母系制の罠は、ギリシャ人の民族誌学者によって仕掛けられたものである。彼らは女性のステータスを著しく低下させた父系世界の出身で、女性の自立性を示すいかなる印をも系統的に母系制の証拠あるいは痕跡と解釈した。ギリシャ語の専門用語を用いるなら、〈家母長制〉(matriarcat)とか〈婦人覇権〉(gynécocratie)ということになるが、ここでは母系制とのみ言っておこう。…この罠は人文科学の歴史の最大の誤りの1つ、意味を持たない文書を大量に生産する、まさに精神の墓場となっていった。…
 1861年に出版されたバッハオーフェンの大著『母権制(Das Mutterrechit)』は、あらゆる誤りの生みの親とみなすことができる。…中国の民族誌学者たちはギリシャの民族誌学者と全く同じように父系制的精神を持っており、したがってわれわれにチベットとインド北部に存在する女性国家の存在と歴史に関する『証言』を残している。バーゼルのエリートたるバッハオーフェンは、ギリシャ人と中国人のように、父系制は文明のより進んだ局面として家母長制の後に出現した、と明らかに信じていた」504-5頁

「現在の母系制社会と未分化社会の現実を観察した者にとってはまったく単純なある事実…女性のステータスは、実際は母系制社会よりも未分化社会の親族システムにおける方が高いのである。この真理は、母系制システム…が、征服的な父系制に対する反動にすぎないことを理解すれば、より容易に認められるようになる。女性がステータスと財産の継承の主体になったとしても、女性が未分化システムにおけるよりも支配的であるということにはならない。未分化状態では女性は単に男性と同じように自由に配偶者を選ぶことができる。母系制の下では、女性のステータスは、父系の組織編成におけるよりも当然高くなる。しかし女性はもはやシステムの中の1つの要素に過ぎないのであるから、そのステータスは、未分化の世界の中で占めていた位置と比べれば、自立性が減少したものとなるのである。母系制システムでの女性の中心性というものには、夫が平均して妻より10歳年上であるというような、きわめて大きな夫婦間の年齢差が伴う場合がある。要するに、未分化システムの特徴たる夫婦間の年齢の相対的同等性というものとは、大分異なるのである」505-6頁

「母系制は北アメリカのすべてのインディアン住民の特徴というけではまったくなかった。北アメリカには多数の家族システムの変種が共存していたのである。しかし親族名称分析によって、実際に人類学の歴史に革新をもたらした重要人物であるモーガンが母系制を主張したとなると、もう取り返しがつかなかった。…この理論はいまや成熟し、中国人類学に影響を与えることになる。中国人類学の方は、婦人覇権的幻想を語る己自身の古典的著作を再発見することになるのである。円環は閉じられた。ギリシャ民族誌学者と中国のマルクス主義者は、同じ父系制の社会の出身であり、時間的・空間的に遠く離れているにもかかわらず、容易に意見の一致点を見いだすことができたわけである。過去において、母系制、母方居住、家母長制、等々が支配していたという一致点を」506-7頁

「<幻想2——インド・ヨーロッパ父系制>…
 最初は父系制であったとする仮説は、家族構造が複合的なものから単純なものへと進化するという仮説と容易に組み合わされる。メインはインド・ヨーロッパ語族が過去において父系制であったと想像した時に、彼は北部インドの〈ジョイント・ファミリー〉を念頭に置いている。彼はそれを古代的(アルカイック)なものと考えたが、これはその時代のヨーロッパのすべての学者たちが、核家族とは近代の獲得物であると想像していたのと同じ考え方に他ならない。…インド・ヨーロッパ語族という幻想は、歴史社会学の〔父系制という〕この常識に調和的に統合されていたのである。
 父系制の仮説それ自体は、本来的には母系制の幻想と矛盾するものではない。ギリシャ人は文明化された家父長制という理想が、家母長制の後に現われたと想像していた。この両概念の両立が難しくなったのは、インド・ヨーロッパ語族という仮説が付け加えられたからである。なぜならそれによって、父系制ははるか以前の過去のものとなってしまい、〔起源的過去のものとされていた〕母系制の幻想が処理不可能になってしまうからである」510頁

「ギリシャは多数の都市国家に細分化されていたために、アテネの勢力伸長以前の、女性のステータスの高さの痕跡を観察することができる。…スパルタの女性のステータスは、古典時代には文化的常識であり、スパルタが古代的(アルカイック)であることの印と解釈されていた。アテネあるいはローマの父系制を、インド・ヨーロッパ語族全体に共通した古代的(アルカイック)状態の残滓として提示するというのは、実のところ、歴史的な良識がかなり欠けているところを曝け出すことなのだ。なぜならアテネとローマは、まずは類型に収まらない都市国家であり、その後、歴史的成功を収め、伝統の保守よりもむしろ革新[父系革新?]の場となったのだからである」511頁

「長子相続制度は、最後はドイツ語圏を支配することになり、イングランドにも影響を及ぼしたが、生まれたのはフランスにおいてである。この革新はカペー朝初期に、パリ盆地のフランス貴族もしくはフランス・ノルマン貴族のもとで始まった。…本書の全篇を通じて一貫するテーマの1つは、人類学においては、ある概念とその反対概念とは相対的に近接しているということである。例えば、父系制と母系制については、そのそれぞれが未分化性に対して持つ距離よりも、互いの間の距離の方が近いのである。家族生活に関しては、権威と自由、あるいは平等と不平等についても同じことが言える。権威と自由の2つはともに、世代間の実践的相互作用が不明確な状況というものに対立する。平等と不平等は両方とも、個人を互いにランク付けすることに対する無関心というものと区別されるのである。分析がここまで来ると、未分化性の概念を以下のように一般化することができる。すなわちこの概念は、父方親族と母方親族、自由と権威、平等と不平等の間に打ち立てられる区別がいずれも存在しないということを含む、と」520頁

「ルッツ・バークナーが行なったオーストリアやドイツの直系家族に関する研究は、ラスレットによって開始された、工業化以前のヨーロッパでの核家族の遍在の可能性をめぐる論争の中で重要な役割を果たした。ラスレットは、直系家族地域で複数組の夫婦を含む世帯がそれほど多くないために、〔核家族が遍在するとする〕誤りに引きずり込まれたのである。バークナーは、家庭集団の直系家族型発展サイクルでは、3世代世帯はある種の局面で姿を見せるにすぎず、住民リストの中に、ラスレットの用語に従って言うところの〈複式〉世帯の比率がひじょうに高く出ることを期待してはならない、ということを立証した」534頁

「〈直系家族 スカンディナヴィア〉
…19世紀初頭のスウェーデンの法律は、相続は子供の間で分割するように定めていたが、女子は男子の半分の権利しかなかった。これはコーランの定める規則と類似している。このことは、ヨーロッパ諸国の社会の中でも女性に最も有利な社会の1つたるスウェーデンとしては意外であるが、同時に、コーランの教えがどれほど反女権主義的とみなされ得ないかを示してもいる」537頁

「〈絶対核家族 イングランド〉
…イングランドの絶対核家族は、考え得る、そして観察し得るすべての家族システムの中で、その単純性によって極限をなしている…絶対核家族は平等主義核家族に近いが、実践においては世代間の相互の独立性をさらに確実に保証する。なぜなら、平等主義核家族には、すでに与えられた財産の〈持ち戻し〉の手続きがあり、このために子供たちは父親や母親が死亡した時に、遺産を細心綿密に分割するために集まらなければならないわけだが、絶対核家族にはこの手続きはないからである」548-9頁

「絶対核家族——もっとも平等主義核家族もだが——は、いかなる人類学的・社会的実体もない空虚の中で、それだけがひとりでに機能することができると思い込むのは、大きな誤りであろう。絶対核家族は、起源的家族を囲い込んでいた双方的親族集団を脱ぎ捨てて、一時的同居および末子による高齢の両親の世話という実用的慣行を捨て去って——いずれにせよイングランド中心部では——、純粋なものとなったわけだが、これらの要素に代わる代替メカニズムに頼る必要が生じる。ケンブリッジ学派はもちろん、家族の超個人主義によって生み出された具体的な困難が、いかにして管理され得たかということを、思料した。…現地の共同体の機能の仕方…その重要性は、広範な親族関係の役割が減少するにつれて増大するのである。16世紀から19世紀までのイングランドの特徴の1つはまさしく、小教区の扶助と拘束の役割が、国家に依拠しつつ、早期に制度化されたことである。これはおそらくヨーロッパでも唯一無比の事例である」549頁

「工業化以前の社会保障も、世帯の純粋な核家族的構造も、平等主義的核家族のケースで、支配的ではあるが排他的ではないものとしてわれわれが出会った、大規模農業経営がなかったなら、考えられなかっただろう。確かに核家族は他の形で機能することもあるだろうが、次のようなことは確実である。すなわち、農業賃金労働は、昔の農村の枠内では、一般的に小さな家と、庭と、多少の家畜、それに共同体の土地での入会地放牧権と落ち穂拾いの権利の所有を随伴するが、ここの賃金労働は両親と子供の分離を可能にするということである。賃金労働が老人を助けることがあるとしても、それは副次的なことにすぎない。一方、賃金労働のおかげで、若者は使用人として働くことで資産を蓄積することができ、次いで両親から独立して収入を得ることができるようになる。イングランドでは大農民の息子たちも他の大農民の家に使用人として送り出されていた。こうしたセンディング・アウト〔送り出し〕の慣行は、純粋に経済的な面ではまったく正当化されるものではなかったが、これなくしては農村上流階級における絶対核家族の作動は、考えられないのである」550頁→

(承前)「したがって平等主義核家族地帯と同じく絶対核家族地帯において、家族の核家族としての完璧性と農地の集中との間の連合が見出されるのは、意外なことではない。とはいえ大規模農業経営と核家族との相互補完性を強調するからといって、経済的決定の観念に賛同していることには、いささかもならない。農地の集中はたいていの場合、経済的近代化の過程の結果として出現するのではなく、ひじょうに古いかもしれず、もしかしたら社会が成立したとき以来であるかもしれない歴史に由来する構造的要素として姿を見せるのである。このことは、カウツキーが気付いたことであったが、マルクスはそれに気付かなかった。私は『新ヨーロッパ大全』で、中世の大領地と近代の大規模経営との間に存在する連続性を分析した。…
 …イングランドのケースでは、17、18世紀のエンクロージャーの動きが、貧しい農民が持つ共同体内の権利を清算することによって、それまでにすでに二極化していた農村の形態を完成させた。しかしエンクロージャーの分布図それ自体、中世の大領地の分布図と合致していたのである」550-1頁

「〈ル・プレイの類型以外の類型〉
 これまでに記述された3つの家族類型(平等主義核家族、直系家族、絶対核家族)は、共通して高レベルの形式化に達している。これらの家族類型を構造化しているのは、核家族性か同居か、平等か不平等か、それとも遺言を行なう絶対的自由か、といった規則である。ル・プレイは、これらの規範を特定することによって、自分の類型体系を築き上げることができた。しかしまぎれもない周縁部的な古代的形態(アルカイズム)の保存庫にほかならないヨーロッパは、ル・プレイによってリストアップされていない形態を観察することもまた可能にしてくれる。…昔のシステムの残滓を見いだすのは、周縁地域の保守性という分析観点からすればまったく正常なことなのである」553-4頁

「〈フランス西部の謎〉
 家族システムを研究して40年になる現在、フランスの西部は私にとって、結局はいくつもの大きな誤りと不断の当惑の場所であったということになるだろうと、私は思っている。誤りの方はどちらかと言えばブルトン語使用のブルターニュに関わり、当惑の方は西部内陸部ならびに昔のポワトゥー州、つまりヴァンデ県を含むポワトゥー州に関わるものであった」566頁

「<3. ポワトゥー州とヴァンデ県>
 …彼[アラン・ガベ]はこの曖昧な様態に名称を与えるために、私が東南アジアならびにアンデス山脈のインディオ・システムを記述するために『第三惑星』で利用していた類型体系を継承して、『アノミー的家族』と呼んでいる。
 『アノミー的』という用語は、デュルケム以来、存在していたとされる諸規則の消滅を喚起していた。私としては今では、この規則の不在は、むしろより古い家族形態の残滓であると考えることになろう。
 …その地の支配的家族類型は核家族であったが、それにもかかわらず、一時的同居という現象と曖昧な遺産相続実践が排除されることはなかった」574頁

「一時的同居あるいは未分化の親族集団内に組み込まれた核家族が検出できる地域を枚挙してみて驚くのは、そのリストには歴史的、民族的あるいは言語的に古典的な何らかの集団への参照を必要とするものは含まれていないということである。ヨーロッパの中のケルト部分、ゲルマン部分、ラテン部分、スラヴ部分に属する実例が仲良く混じり合い、それにラップ人やタヴァスティア州のフィンランド人といった、非インド・ヨーロッパ語系民族も顔を出す。これが人類の古い昔の共通の基底から出自する諸形態の残滓であるとする仮説を受け入れるならば、このことに驚く理由はいささかもないのである」576頁

「いずれにせよ、子供をあまり登録しない社会では、世帯の平均サイズというものには、実質的に意味はないのである。そこから西欧全体で家族は核家族であったという命題を演繹することはできない。だからといって、ある特定の地域で、核家族仮説がこのきわめて古い時代に関して妥当であることを認めないとしたら、今度は逆に不条理である」582頁

「最も古い人類学的基底に関しては、データに現われる痕跡を検討するなら、相続慣行を通して、広大な親族集団を観察することもできるし、時には核家族的形態に到達することもできる。ただしいかなる地域についても完全な一覧表を手に入れることができるわけではない。確実なことは、ヨーロッパ大陸の西部の最も遠い過去を探っても、長子相続を伴う直系家族システムなり、共同体家族システムなりの痕跡をどこにも見つけることはできないということである。現存する稀少な情報源は、核家族で未分化の共通の基底という仮説をさらに強固なものにしてくれる」583頁

「ノルマン人の拡大によって、長子相続制は海を越えて各地へと伝播することになったが、とはいえそうして伝播した国々で、長子相続は元々の形態のままで生き残ることは、決してなかった。典型的な例がイングランドで、1066年という、やがて有名になる年に行なわれたノルマン人による最初の征服によって征服されたこの国がどうなったかは、周知の通りである。
 ノルマンディでは、中世において貴族の直系家族の最も見事な具体化の1つが、総領制(parage)の理論によって形を整えることになった。総領制とは、宗主に対する封建的義務について長男を弟たち全員の分まで責任を負う者と指名する。弟たちは、土地と城館を保持したが、それでも跡取りに指名された息子の権威から逃れることはできなかった。このようなシステムは、長子相続の厳格性と柔軟な血統の横への拡大とを組み合わせるものであった」605頁

「ジョージ・ホーマンズ…は、13世紀のイングランド農民に関するその古典的な著作の中で、遺産相続慣習を研究している。彼は長子相続地帯と末子相続地帯を系統的に分けようとはしないで、まずこの2つの遺産相続様式は、微細なレベルで混ざり合っていると示唆する。…
 これとは逆に、土地の分割可能性地域は、ホーマンズによって同質的で、それゆえに周縁部的な地帯として明快に定義されている。…
 遺産相続規則についての彼の議論は、基本的には、各地域に定着した住民集団の民族的起源に関する、その当時めぐらされた思弁を採用したものである。…しかしもし、イングランドにおける長子相続地帯と分割可能性地帯の分布を、民族的起源に関するあらゆる予断を忘れて、全体的に眺めてみると、長子相続が中心部に位置し、分割可能性が東と西の周縁部に分布していることを見て取ることができる。長子相続制の規則が理論上の中心から発して周囲に押し付けられていったことが想像できる…中世イングランドの周縁部の検討は、長子相続の押し付けの試み以前のイングランド全域の姿を蘇らせることになるかもしれないのである」606-8頁

「〈直系家族概念の成功と挫折 農地制度による説明〉
 …なぜヨーロッパ大陸の特定の地域で、ついには直系家族という概念が農民層に広がり、貴族のものよりもさらに厳格に農民の家族生活を構造化するに至ったのか…自ら望んでか、強制的であるかにかかわらず、農民たちによる長子相続の採用は、より稠密な家族形態をもたらすことになるのである。ただ1つの農地について、ただ1人の子供への分割なき移譲は、世代間の緊密な同居へと向かう可能性がある。…
 …長子相続という理想の導入以前に、複数のはっきり異なった農地システムが存在していた…農地の経営で家族経営が多数派であったところでは、直系家族システムは調整に便利で、問題が起こった場合の解決策として提出されていた。中規模農地からなる、住民が充満した世界では、子供たちの転出の可能性が底をつけば、長子への不分割相続が横行する可能性があった。領主の大荘園が耕作空間の大部分を占めていたところでは、不分割のメカニズムは農村部のきわめて少数の上層カテゴリーにとってしか意味かなかった」609頁

「ヨーロッパの直系家族の出現が、比較的最近の局面においてきわめて漸進的に進行した…ディオニジ・アルベラは、アルプス山脈南部では、直系家族が定着し始めるのは17世紀以降に過ぎないとしている。…直系家族の確立は、10世紀末に始まり、ほぼ千年に及ぶわけである。しかし直系家族の革新の重要性は、この革新が定着に成功した領域の範囲を越えている。この革新の適用が社会を征服することに挫折したところにおいて、この適用は、純粋な核家族システムの再浮上もしくは出現を促進させることになったのである」614頁

「〈純粋な核家族システムの出現〉
 イングランド(あるいはデンマークもしくはオランダ)の絶対核家族、ならびにフランス(あるいはカスティーリャもしくは南イタリア)の平等主義核家族は、ユーラシアという塊の周縁部に位置し、核家族性および親族システムの未分化という基本的な古代的(アルカイック)特徴を保存してはいるが、歴史的変遷の結果として単純化され練り上げられた形態である。われわれは中世から始めて、これらの核家族の出現を理解しなければならない。この時代に関しては…未分化の親族集団の中に包含された、近接居住もしくは同居を伴う核家族という仮説を受け入れることができる。農地制度の構造が基本的な説明要因となる」614-5頁

「〈平等主義核家族の再浮上 ローマの痕跡〉
 平等主義核家族がまるまるかつてのローマ帝国の空間の中にすっぽりと収まる…
 後期ローマ帝国の家族はそれ自体が、都市部では平等主義核家族の言わば原型であった。ローマ帝国のかつての版図には、平等主義的価値の文化的持続を想定しなければならない。それは都市システムの名残、大荘園、ブドウ栽培などに付着して、各地に拡散していた。…
 貨幣経済への回帰、都市の再生、大規模農業経営——ならびにそれに対応する労働者——の再確立が、ローマの平等主義の残滓と組み合わされて、平等主義核家族の台頭を担保した。それは時とともに系統的に強化されていったと考えることができる。
 長子相続制という徹底的な不平等主義概念が社会の上層階層に定着したことは、その反動で、住民の中の被支配的部分に平等という反対概念が明確化するのを促進することにもなり得た。…
 とはいえ…あまりにも静態的な、言ってみれば構造主義的な見方を導くことになってはならない。…フランス革命以前には、個人主義的・平等主義的な家族は、模倣に値する上流階級に担われた威信あるモデルではなかった。したがって平等主義核家族が占める空間の増大の可能性は、農民共同体とその拡大というレベルで探求しなければならないのである」616-7頁

「〈イングランド的家族の創出〉…
 遺言の自由な行使は、親族のいかなる統制からも解放するがゆえに絶対核家族の根本的要素であるが、とはいえこれの起源は、いつともしれぬ太古の昔に遡るわけではない。…中世の終わり頃には、家族というものが己の法的自由を回復しようと努力していたことが感知される。ヘンリー8世…から、遺言の自由が肯定されるようになる。1540年には、『従軍』義務が課せられている農地(封土)の3分の2とそれ以外の土地全部を自由に処分することが可能になる。革命下にあって、従軍義務のある保有地は明らかに時代遅れのものとなり、長期議会は1645年に遺言の完全な自由を確立する。…したがって遺言の自由は、比較的近年の歴史の生産物なのである」619頁

「〈直系家族と国家の誕生〉
 ル・プレイの家族システム(平等主義核家族、絶対核家族、直系家族)は、歴史によって伝統的に認められた政治的空間の中で、形をとった。パリ盆地、カスティーリャ、中部ポルトガルという平等主義核家族地域の中心部では、国家が発展した。これには南イタリアも加えることができる。イタリア半島の中でただ1つ、中世に重要な領域国家、ナポリ王国が出現した地域である。さらにまた、イングランド、デンマーク、そしてオランダでも、絶対核家族は、単一の民族国家というものの歴史の枠内に収まるのである。ドイツあるいはイベリア半島・オクシタニアにおける直系家族は、これよりやや複雑である。この場合に成立する対応関係とは、早熟で、しかも流産した国家の歴史との対応関係である。つまり、中世の頃から始まって、やがて統一化的国家の台頭へと至るということがなく、小サイズの諸国家が存続するままにしたという意味で、流産した歴史なのである」620-1頁

ナポリ王国はヴァイキングが侵略して建設したもののはずだが…

「ヨーロッパ諸国家の誕生と直系家族の結びつき…長子相続は10世紀末に、国家の不分割の道具として台頭した。そして国家はますます民族と合致しなければならなくなる。直系家族は権威と不平等を組み合わせたものだが、この2つの価値は本質的官僚的な価値であり、また連続性という直系家族の理想は、近代国家へと向かう通路の1つであった。時として直系家族は農民層の中に定着し、そのようにして人類学的基底を構成するものになったのである。そこで歴史が示唆しているのは、直系家族が民衆の間であまりにも成功したところ、つまりドイツやイベリア半島・オクシタニア空間においては、国家は領土の面では拡大することを止めた、まるで不分割原則が小国家の非集合原則によって補完されたかのように、ということである。ところで農民の直系家族が、たいていの場合に表明している理想とは、複数の農園は集められて1つになってはならず、長男は跡取りの長女と決して結婚してはならない、というものである。その後、国家の開花は、まずはイングランドおよび北フランスを手始めとして、核家族の空間内で起こった。しかし絶対核家族と平等主義核家族は、部分的には、当初は国家の誕生に貢献していた直系家族に対する反動として誕生したのである」621頁

観念的な議論で感心せぬなあ…

「本書で提案されている家族システムの分析と説明は、フレデリック・ル・プレイにによって練り上げられた類型体系を著しく相対化している。しかし逆説的に、彼の好む類型である直系家族の、西および中央ヨーロッパの歴史の中における重要性を増大させることになってしまう。純粋な核家族類型の出現は、最終的な分析では、直系家族の出現に結びついたものとして姿を現わすからである。絶対核家族は部分的には、同居と不分割という直系家族的原則に対する反動であり、平等主義核家族は同居と不平等という直系家族的原則に対する反動であった。もちろん純粋な核家族類型が否定によって形成されて行くメカニズムという仮説を拒否することもできる。しかしその場合であっても、平等主義核家族と絶対核家族という家族類型によって最終的に占められる空間は、中世においては、上流社会階層の中での長子相続と直系家族という一般的な問題系によって表面が覆われていたことを認めなければならない。直系家族、平等主義核家族、絶対核家族が全部合わさって、直系家族的概念空間とも呼ぶことができるものを形作るのである」622頁

「非ル・プレイ的類型(双処居住共同体家族と一時的同居を伴う核家族)の出現時期…これらの家族類型は、大陸の周縁部と統一化的文明との縁辺に位置するが、そこから、これらが古代的(アルカイック)要素を含んでいるはずであることが明らかになった。…15世紀の資料を検討すると、一時的同居を伴う核家族だけが真に古いものとみなされ得ること、双処居住共同体家族は、その構造にいくつかの古代的(アルカイック)要素があるものの、いずれにせよ時代が下ってからの革新であったということが、示唆されることになるのである」622頁

「中世の秋とは、家族システムが最終的に結晶化する時期ということになるだろう。イングランドの家族は、純化された核家族性に向かうその動きを始める。直系家族は現実的にフランス南西部およびゲルマン空間の特徴となって行き、平等主義核家族はパリ盆地の特徴となって行く。ショックと不安によって、住民は台頭しつつある構造を強調するように仕向けられる。この時期になると、人口圧力という概念はもはや通用しなくなる。人口密度が低下しても、直系型の家族構造が後退することには繋がらない。むしろその逆である」623頁

「〈最も古代的(アルカイック)な形態 一時的同居を伴う核家族〉…
 直系家族の概念に〔直接間接に〕支配される空間の外にある他のすべての地域では、一時的同居を伴う核家族が見出される。これについては、変動の年代を確定しなければならない必要などもはやない。何しろ、それは家族の起源的形態であり、変化があったとしても、それは時として末子相続として形式化されることがあったかどうか、というだけの話だからである」625頁

「20世紀、19世紀ないし18世紀に収集された統計データは、ヨーロッパにおける本イトコ同士の婚姻率は、全般的に1%以下であることを明らかにしている。中国の8から10%、日本の7%よりもはるかに低い」630頁

「東ヨーロッパに戻るなら、ロシアでは、外婚が全く同じように支配的であり、イトコ婚は例外とみなされていることが分かる」631頁

「ローマ人も外婚であった。これは、本来なら一言触れるだけで済む話だったのだが、ジャック・グッディーが、ローマはもともと内婚制だったが、後に教会によって外婚に転換させられたという説を案出したいという欲求にかられてしまったために、ことは厄介になった。…ブレント・ショーとリチャード・サラー…2人は、ローマではイトコ婚は形式的には禁止されていなかったが、滅多に実践されなかったと指摘している。…おそらく外婚制は、レヴィ=ストロースが考えていたのとは逆に、文化的なものというよりも自然的なものであり、それゆえ文言化される必要がないのである」633-4頁

「ショーとサラーは、きわめて重要な証言を見つけ出した。聖アウグスティヌスが『神の国』の中で次のように述べているのである。すなわち、イトコ同士の婚姻は、法律が認可している場合でも、稀である。このことは、教会がこの問題に興味を抱き、婚姻の禁止をはるか遠くの親等の親族にまで広げる以前にも、同様であった、と。聖アウグスティヌスは、その際ついでに、外婚制についてまことに見事な社会学的正当化を提案している。彼によれば、これは人々の間、集団の間につながりを広げる、というのである。実際、ローマの拡大と征服された民族の同化は、もともと外婚への強い性向がなかったら、想像することができないであろう。家族内婚と外からの妻の獲得を組み合わせることを可能にするのは、一夫多妻制のみであったろう。しかしローマ人は…きわめて明示的に一夫一婦の徒であった」634頁

「データは、もともとは外婚制であったギリシャは、民主制の開花の時代に都市国家内の内婚へと移行したこと、また当該諸都市国家は、アテネのように民主主義を志向するか、スパルタのように寡頭制を志向していたことを、示唆している。このように後天的な内婚制は、東南アジアないしは日本におけるように、王侯ないし上層階級に固着することはなく、むしろ市民集団の中に固着する。しかしまたそれは、ロバート・ローウィが『一門の誇り』と呼んでいたものに支配されることにもなるのである」636頁

「内婚は現実に存在したが、統計的には微弱であり、それは己の歴史的特異性を自覚し、外に向かって自らを閉ざした集団によって獲得されたものであるという結論に達する。これはすでに日本のケースですでに[ママ]喚起した結論に他ならない。
 東南アジアもさることながら、ヨーロッパには、核家族と、双方制が優越する親族システムと、4つのタイプの本イトコとの婚姻の禁止に対応する外婚制という3つの要素が見出される。交叉イトコ婚は、フィリピンでもそうだが、ヨーロッパには存在しない。ヨーロッパ大陸の中央部および西部における父方居住直系家族形態の出現、東部における父方居住共同体家族の出現は、親族用語にも、外婚制にも何らかの変更を強いることにはならなかったようである。親族用語は、ヨーロッパ中どこでも双方的なままに留まっており、外婚制もやはり双方のままである。父系制のロシア人でさえ、常にこのモデルに従っている。四方外婚の放棄の唯一証明されたケースである古代ギリシャのケースは、父系変動の影響をすでに受けていたシステム、それゆえ起源的基底から遠く離れたシステムに相当している。ギリシャの内婚は、ひとたびヨーロッパから姿を消してしまったのち、他の地[中東]できわめて見事な拡大領土を見出すことになった」637頁

フォロー

「〈シュメールの第一局面における女性たち〉
 古バビロニア時代から出発して、3千年紀へ、シュメール・ルネサンスと言われる時代、次いでアッカド帝国の時代へと遡って行き、遂に歴史の曙たる古代王朝にまで達すると、女性のステータスが連続して上昇していくのが観察できることになる。女性の経済的役割は、上層階層においても社会の底辺でも、ますます明白になって行く。最も遠い過去において、女性は単に織物の女工というだけでなく、自由に財産を所有したり売却したりする力を持った取引の主体としても姿を現わしている。…長子相続制規則の存在が証明しているように、当時の家族システムが直系家族型のものであったと仮定するならば、この最初の父系制は残留性の母方居住に順応していた、と言うよりはむしろ、家系の連続性を確保するためにそれを必要としていた」732頁

「ヨーロッパの親族システムの未分化状態、西欧の家族の核家族性、大西洋沿岸の女性のステータスの高さ、これらは、近代化の結果ではなく、そもそも出発点においては全世界に普遍的な、核家族的にして個人主義的、双方的にして男女平等主義的なものであった1つの人類学的形態が、ユーラシアの極限的な周縁部に生き残っている姿だということになる。周縁部に生き残ったものは、必要なだけ奥深く過去の中へ沈潜するなら、中央部にも見出すことができる。現在の南部イラクは、今日地球上で最も強力な父系システムの1つに占められている。しかし、今から5000年以上前、シュメールの初期には、まさにこの場所において、いわゆる近代ヨーロッパのそれにおそらく近い家族形態と親族システムが支配していた」735-6頁

「〈3つの段階 中国からメソポタミアへ〉
 …メソポタミアの家族の発展の3段階を区別することができる。それは中国の歴史の中で私が特定した3段階と同一のものである。
 1 まず出発点において、典拠は不完全であるけれども、夫婦家族の優勢と、女性のステータスが男性と平等であったことを断定することができ、家族システムは…双処居住核家族型であり、さらにそれが、未分化な親族集団に取り囲まれていたと仮定することができる。…実はそれは人類全体に関わっていたのだ。…
 2 第2の局面において、シュメールに長子相続の規則が台頭する。これは父系原理の発展の第1段階である。とはいえ、3世代を含む典型的な直系家族的世帯の存在は、検出されていない。
 3 第3の局面において、兄弟間の平等と家族集団の共同体化が同時に明確になる。…この第2の変動の中心は、もはやシュメールではなく、アッカドである。やや北に移動したとは言え、相変わらず南部メソポタミアの中であることは、変わりない。
 家族はますます稠密化し、そうした家族形態の発展に伴って、女性のステータスも連続して低下して行くが、その動きは共同体家族の出現後も続き、アッシリアを初め各地における、ヴェールの出現が随伴する」744-5頁

「中国の家族の歴史を記述するために私が第3章で練り上げた図式との類似は、驚く他ない。それは、双方制という仮説を出発点にして、長子相続制と直系家族の台頭、そして最後に共同体変動に至るというものであった。この過程の全体に女性のステータスの低下が伴い、ヴェールの着用に至ることはないが、上流階級における纒足の慣行へと行き着くというわけである。中国のケースでは、私はいくつかの年代を転換点として提示した。メソポタミアのケースではそれははるかに難しい。…直系家族の台頭の年代を『2500年から2200年の間』…共同体家族のそれを『2200年から1800年の間』」745頁

「〈1つのモデルとその諸問題〉
 この段階に至れば、私としては、中国シークエンスを驚くほど忠実に複写する進化の図式を提唱することができる。シュメールにおいて、当初は優勢であった核家族は、内因性の進化によって、何らかの直系家族的形態に取って代わられたと考えられる。定住民集団の人口密度の増大が、空間は限られており、人で一杯であるという印象を抱かせたからであるが、都市間の戦争が、男性優位と父系の選好の端緒を容易にする要因であったことも忘れてはならない。対称化と兄弟間の平等を必要とする共同体段階への移行は、中国におけるのと同様に、対称化された遊牧民の家系システムの征服的侵入によって可能となったのであろう。家族の平等主義と統一帝国的考え方の間には機能的連関が存在するがゆえに、バビロン第1王朝を、中国の最初の帝国家系の厳密な等価物とすることができるであろう。時間的前後関係に忠実に従うなら、メソポタミアの歴史は中国のそれに大幅に先行するものであるから、秦の始皇帝はハンムラビ王の意識せざる反復者であったということになるであろう。その逆ではない」750頁

「家族形態の転換については、より古い年代を想定せざるを得なくなる。それはやはり西セム系集団の侵入と結合して起こったはずであり、共通紀元前2250年頃には、直系家族の不完全な父系制が対称化された父系イデオロギーへと変わる変換は、おそらくすでに実現していた、ということになる。この変換は、サルゴン王によるメソポタミア統一のほぼ直前に、アッカドで実行されていたと想像することすらできるのである」751頁

「中東の家族形態の発展の中で、いくつかの全般的な結論は明快である。
・起源における、夫婦ならびに女性の高いステータスの明白性。
・メソポタミアの歴史の中の本来のシュメール局面における男性長子相続の出現。しかしそれは伝播普及して、ティグリス・ユーフラテス両河の平野全体に広がり、地中海にまで至る現在のシリアの領土にまで及んだ。
・家族システムの対称化。それは世帯の核家族性と父方近接居住を組み合わせた家族形態へとつながる。しかしそれは都市的環境の中で起こった変化であり、まぎれもない共同体家族を喚起する農村での不分割を伴っていた。
・メソポタミアの歴史における遊牧民現象の重要性。これら遊牧民の許で、ベドウィン系部族の家系的慣行を想起させる家系的慣行と、左右、南北といった対称化された概念を用いる部族的組織編成が、ハンムラビによる平等主義的遺産相続規則の法典化の直前の時代に、出現する。このことは、遊牧民の侵入による直系家族の対称化を示唆している。…
・女性のステータスの低下の激化。それには、新アッシリア局面を含む、いくつかの加速期があった。ここメソポタミアでは、父系の進展力は、時とともに自動的に強化されるという観念を含んでいる」752-3頁

「〈古王国下の核家族〉
 ジャック・ピレンヌは、古王国の下、特に第3王朝の下にあって、エジプトの特徴は核家族——ピレンヌの用語に従えば〈個人主義〉家族であったことを、示している。…
『…家族は最も限定された形態に帰着する。つまり父、母、子供たちで構成されるのである。…』」757頁

「エジプトの最も遠い過去の中に、ピレンヌは、ラスレットとマクファーレンがイングランドのはるかに近い過去の中に見出したものを発見した。すなわち、核家族と個人主義である。彼ら2人と同様に、彼は、大家族から夫婦家族へ、複合性から単純性への変遷を信じようとした伝統的な歴史社会学の不十分さを明らかにした。ピレンヌは自分の発見から理論的な結論を引き出してはいない。彼は、古代王国のエジプト家族はすでに近代的であったと言い、核家族性、双方性、遺書の使用といった近代性の属性を述べるだけに留めている。家族が大家族であったされるさらに遠い過去を、読者に自由に想像させているのである。
 しかし、家族構造と全般的社会構造の関係については、彼は一気に、ラスレットとマクファーレンの2人よりも先に進み、[ロジャー]スミスの段階に達するのである。…ピレンヌもまた、家族の核家族性と国家の中央集権化を系統的に結びつけている。…ピレンヌはエジプト史の中に相次いで到来した3つのサイクルを区別するが、それらのサイクルの中で,国家の中央集権化の局面は、個人主義的法と核家族に相当し、国家秩序の解体の中間的な期間には、家族の複合的諸形態の精力伸長が介入してくるのである」759頁→

有賀喜左衛門の、生活防衛的な共同体としての「家」論とも親和的だなあ

「数多くの時代に確認されているエジプト女性の法的な行動の自由は、そのステータスが、美しい物品(オブジェ)のステータスではなく、権利において男性と同等な者としてのそれであることを示している。すべての時代を通じて、民衆は一夫一婦制である。それに対して、貴族階級は一夫多妻制を実践した」767頁

「<父系制の誕生と伝播 その概観>
 父系制は、ユーラシアの他のどの地よりも早くメソポタミアで出現した。しかし、中東空間の全域をたちまち占拠するに至ったわけではない。ひじょうに遅くまで、双方性の小さな孤立地帯があちこちに存続することになったのである。
 男性長子相続制に結びついた〈レベル1〉の不完全な父系制は、おそらく〔共通紀元前〕3千年紀後半にシュメールに出現した。父系制が対称化されて、アッカドにおいて〈レベル2〉に達するのは、2300年から2000年の間か、もしくは1800年頃である。反女性主義の〈レベル3〉は、2千年紀の終わり頃、アッシリアで検出できる。
 メソポタミアの中枢部から、父系制は、北東はペルシアへ、北西はフェニキア、ギリシャ、そしてローマへと広がっていったが、ローマでは結局、頓挫することになる。…
 イスラムとアラブによる征服の直前まで、エジプトは依然として未分化な親族システムを特徴としていた。
 アラブ人による征服は、これらの展開よりも後のことである。それは、中東において、父系原則によるこの地域全体の最終的同質化を実現する重要な役割を演じた。それはとりわけ、エジプトからモロッコにいたる北アフリカ全域に父系制をもたらした」776-7頁

「<内婚、および未分化状態の持続>
 …父系居住と内婚は別々に考えることができない…実際、男の方も女の方も、生家を離れて結婚の相手の家族の許に移る必要がなくなるのであるから、その婚姻は出生地居住ということになる。したがって内婚とは、未分化状態の密かな持続に他ならない。つまり、兄〔弟〕が〔姉〕妹と結婚する場合は、男子も女子も同等の位置を占めることになる」785頁

「<アラブ人による父系制の獲得と内婚の発明 1つの仮説>
 いわゆる『アラブ風』婚姻は、父系と双方性という2つの側面を含んでいる。その核心部分では、兄弟同士の子供たちの結合を特権化する限りにおいて父系である。また総体としては、いかなる種類のイトコであれ、ともかくイトコ婚に対する選好を表してもいるのであるから、双方的である。…
 …内婚というものはつねに、女性は重要であり、商品のように交換することはできず、女性の血もまた生まれ来る子供が何者であるかを定義するのだ、ということを含意する。内婚とはつねに、双方性の証拠もしくは痕跡なのである。
 父方平行イトコ婚が中心的であるということは、アラブの四方内婚の中心には父系原則があること、掟への違反としての内婚と父系的特徴の獲得との間に、何らかのつながりを探さなければならないこと、ということを見事に示している」789頁

「遊牧民フン人が父系的特徴を発見したとき、それは直系家族に結合した、あまり徹底的ではない形態で中国から到来したもので、多くの例外を許容していた。この同じ父系原則が、ベドウィン・アラブ人のところに到達した時、それは少なくとも2000年前から存在していたのである。それはすでに、絶対的な力によって、女性を社会の中心部から排除する周辺化を前提とするものであった。…
 アラブ人によって発明された内婚は、父系制の最も極端な帰結から逃れ、きわめて暴力的な父系制、過激な反女性主義という環境の中で、双方的なつながりを保持するための1つのやり方だったのではなかろうか?
 それにしてもアラブ風婚姻とは全く独特のものであり、このことは、父系への変動は容易なことではなかったこと、いくつもの特別な条件、つまり父系性と内婚が組み合わさることのできるような環境が必要となったはずである、ということを含意する。集団が自らの内側に閉じこもるということは、社会を小さな自律的集団へと細分化するベドウィンの生活様式にとって、おそらく現実的な技術的利点を提示しているのである」790頁

「核家族性と未分化性から共同体家族と父系制へという、ユーラシアの全般的な動きは明白である。3段階の父系制(男性長子相続の台頭、父方居住共同体家族、女性のステータスの徹底的な低下)が相次いで起こるのは、中東、中国、北インドで探知し得るシークエンスである。…中東と中国での〔父系共同体家族の〕台頭は、独立に起こった事象である。インドのそれは、おそらく最初からメソポタミアの影響の下で起こったのだろう。直系家族の段階で停止した不完全な進化は、日本と朝鮮、そしてヨーロッパの一部というように、ユーラシアの東と西に左右対称的に分布しているが、そのこと自体が、『周縁部地帯の保守性』効果の、特に明瞭な具体例となっている。ヨーロッパと東南アジアの核家族性は、歴史のさらに古代的(アルカイック)な段階に関するものであると言うことができる」795頁

「レヴィ=ストロースの構造主義における非対称的交換…は、非対称性の最も一般的なケースであるわけではないのである。父系親族との婚姻を特別の禁忌として設定する三方〔内〕婚の方が、われわれのサンプルの中では、より重要である。いわゆる『アラブ風』婚姻は、人類学者にとって理論的重荷に他ならないが、四方内婚の枠内で、父方平行イトコとの婚姻への選好を最上位に置く、反転した非対称性を代表している」800頁

「日本では、最終的都市化の直前にイトコ婚率は7%近くに上っていたが、この内婚は、第二次世界大戦後には急速に姿を消した。この日本の内婚は、その地理的分布からして、太古の基底を喚起するのではなく、むしろ、許容性によってある程度の内婚の台頭が可能になった外婚制というものを喚起していた」801頁

石崎解説「安定的で不変の家族システムという共時態の土台の上に、トッドの卓見に満ちた歴史の解釈と分析が可能になったわけだが、この共時態は、歴史的推移という通時態を説明するが、それ自体は説明されない。説明されない、つまり理由も原因も持たない、ということは『偶然』という言葉で表現されざるを得ない。現に『第三惑星』のタイトルは『結論』のタイトルは『偶然』であった。
 しかし人類の歴史が閲した長い時間の経過を思うなら、少なくとも『安定化』以前に想定される変動について、いつまでも判断停止を続けられるものではない。人類史、少なくとも現在の人類学=民族学の資料が可能にしてくれる限りでの人間の歴史を通しての家族システムの変遷を探求することは、人類学者たるものの責務ではないか。これが、トッドを『家族システムの起源』を求める新たな研究の道へと駆り立てることになったモチベーションであろう」830頁

石崎解説「人類史の大きな流れを考えるとき、かつてその軍事的適性によってユーラシアの大部分を征服し、いくつもの帝国を建設した共同体家族の世界制覇に抗して、ユーラシアの西北の果てにかろうじて生き残った核家族が、あるとき資本主義という新たなシステムへの適性を発揮して、やがて世界全体を己のシステムに組み込むことになる、という2つの原理の対立抗争の歴史としてそれを構想することも、不可能ではない。実際、近代世界システムを主導したのは、いずれも絶対核家族の国(オランダ、イギリス、アメリカ合衆国)であった」832頁

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