「3つの変種(双処居住、父方居住、母方居住)に分かれる<一時的同居を伴う核家族>というものは、本質的に重要である。それに対して、親族の核家族が現地集団の中に集まっているという近接居住の概念は、一時的同居を伴う核家族の3つの変種というものに付け加わる新たな類型の定義につながるとしてはならない。一時的同居は、その後に親族家族の近くに居を構えるということ〔近接居住〕があまりにもしばしば起こるのであるから、新たなカテゴリーの追加は、大抵の場合、二重化と混同を引き起こすだろう。…一時的同居を伴う核家族と近接居住を伴う核家族は、1つの類型の中の2つの微妙な違い(ニュアンス)をなすにすぎない。
それに対して、囲い地の中に<統合された核家族>は、一時的同居より以上のものを表象している。物質的限界による形式化は、より緊密な夫婦単位間の協力を含意する。したがって囲い地への統合…は、まさに一時的同居を伴う核家族から共同体家族へと仲介する中間的カテゴリーを作り出すのである」96頁
「<別居と凝縮> しばらくの間、狩猟採集民の原初的社会形態、ということはすなわち人類の原初的社会形態は、双方的な親族の絆によって組織編成された現地バンドの中に組み込まれた、一時的同居を伴う核家族であった、としておこう。このシステムは、個人がそれに加わる際に選択の余地をたくさん残してくれる、かなり緩やかなものである。これなら、分化〔差異化〕によって、他の家族形態につながる先験的なモデルを容易に構築することができるだろう。というのも、このような原初の類型は、母細胞のように、すべての潜在性を内包しているからである。それは、人類学の古典的な次元のどれにおいても、『分化』していない。それは、複数の夫婦の別居が増大し、一時的同居が消滅することによって、核家族的方向へと特殊化することができる。逆に、双方的か父方居住か母方居住かの、安定した隣接関係の方へと進化し、やがては直系家族ないし共同体家族型の最終的な同居へと進化することもできる。別居は、基本的な動態的要素となり得る。それから機械的に生み出される効果の一つとは、複数家族が別居するか、安定的近接居住もしくは決定的同居によって稠密化するかの選択が、突きつけられるということである」97-8頁
「定住化は、農耕への移行と同じとすることはできない。中東の歴史の研究者は、今や定住化が植物の馴致に先行したことを認めている。それは、共通紀元前1万年のナトゥフ文化の最終局面の検討が証明しているところである。日本では、定住していたと思われる海産物採集者は、列島に農耕が出現する7000年以上前に土器を発明していた。…それらの家族形態の中には、それでもまだ核家族の隣接原則の痕跡が感じられる。
逆に言うなら、農耕は決定的な定住化を意味するものではない。焼畑の技術は、数年間土地を開墾したのちに、集団が居住地を移転することを前提とする。より集約的な、しかし拡大的でもある農耕は、新たな開拓へと行き着き、諸家族の一部の拡散を助長する」98頁
「完璧に一貫性ある類型体系を先験的に定義するのは、不可能でもあれば無用でもあるのだ。なぜ今になって、人間精神の力の中に世界の現実性を探し求めるピタゴラス派ないしデカルト主義者の呪術的宇宙へと退行しなければならないのか。実を言えば、類型体系とは、図面なり図式のような具合に、データを展示する便宜を提供するにしても、それ自体ではいかなる科学的有用性も持たないものである。それにとって外部的な、1つないし複数の他の変数との関係の中に置かれるのでなければ、興味を引くものではないのだ。例えば『新ヨーロッパ大全』の4区分の類型体系が興味深いものであったのは、それがもたらす優れてイデオロギー的な判断基準が、農民の家族形態の多様性と近現代イデオロギーの多様性を、地理的分布の上で一致の状態に置くことを可能にしたからに他ならない。同様にして、15のカテゴリーの類型体系が興味を引くのは、地球上で観察可能な家族形態が互いにどのような割合を占めるのか、それを他の変数との対応関係に置くことができる形で記述することを可能にするからに他ならないのである」108頁
「アラン・トレヴィシック…『結婚していると考えられる6億3500万人の地球上の男性人口のうちの確率は以下の通りである。一妻多夫的婚姻の者は1.1%、一夫多妻婚姻の者は3.8%、排他的同性愛者は4%、そして単婚の者は93%』…さまざまな婚姻様態の相対的比重が同じでないということは、先験的な価値判断に依拠するまでもなく了解できる。婚姻類型の統計的分布を見るなら、人類が単婚への傾向を持っているという穏当な結論に行き着くことになるのである。この断定は、一妻多夫婚を、いわんや一夫多妻婚を、いささかも異常な類型とするものではないが、全総体の中へのこの両者の取り組みを副次的なものにするようなデータ分析の戦略を示唆するものである」118-9頁
「件数と、結果の明瞭さとに鑑みるなら、双処居住にして核家族という家族構造は、周縁部的であり、それゆえに古代的(アルカイック)・保守的であるのは、確実なこととして提示することができる。<地図2-3>は、ユーラシアの人類史について何やら根本的なことを伝えているのだ。周縁部の核的かつ双処居住の家族モデルは、おそらくもともとは、大西洋と太平洋の間に位置したすべての住民集団の特徴であったシステムの残滓に他ならない、ということである。ブルターニュとフィリピンの間、ポルトガルとベーリング海峡の間、ラップランドとアンダマン諸島の間に居を構えた住民集団の身体的外見がひじょうに多様であるということは、この類型が、ユーラシアの人類が互いに異なるいくつもの表現型〔身体的外見〕に分化する多様性をもたらすことになった集団の拡散よりも、時代的に古いものであることを、示唆しているのである。本書第II巻で行なわれる、アフリカ、アメリカ、オセアニアについての家族に関するデータの分析は、身体的外見の差異の出現よりも時間的に先立つ起源的な家族原型についてのこの印象を、確証してくれることだろう」132頁
「〈直系家族の出現の背景としての稠密な農業〉
…出発点としては、狩猟採集民と最初の農耕民の特徴である、より幅広い双方的親族集団の中に組み込まれた、一時的双処同居を伴う核家族…農耕の進化と家族の進化の間には必然的に機能的関係がある…
フレイザーが指摘していたように、最近結婚したばかりの子どもが両親の許に留まり、やがて次の者が交替する〈サイクルα〉は、流動的住民集団および拡張的生産システムと高度に両立する…しかし〈サイクルα〉は、移動農耕と全く同じように拡張的定住農耕とも両立する…実際には、初期の農耕民にとって、出発を促す力はきわめて強い。新しい土地は古い土地よりも肥沃だからである。古い土地の再生は、古い共同体にとって早くも問題となる可能性がある。フレイザーが記したように、『新石器時代の経済は拡張的である』…
…領土拡張のこの農業システムにおいて、土地の分割は可能であるが必須ではない。明確な遺産相続規則の定義は、無用であろう。したがって、平等原則も不平等原則もないのである。この局面においては、父方居住の実践も規範も想定させるものは何もない。とはいえ私は、一種末子相続制のごときものを想定する…非父系的で、遺産の最後の分け前を、両親の面倒を見る男子もしくは女子の子どもに与える、というだけのもの」189-91→
(承前)「しかし最後には、この拡張農業文明の中心部では土地は希少になり、ピエール・ショーニュの表現を借りるなら、『満員の世界の時代』が徐々に腰を据える。移住することは容易でなくなった。生産の増大は集約化の形態をとらなくてはならない。…こうした初めて、さまざまな子どもの遺産相続への権利についての理論的な問題が提起されることになる。可処分の財の量が、拡張可能な総体ではなく、有限の総体として知覚されたからである。ヨーロッパについて研究した多くの歴史家たちに続いて、私も、直系家族の仕組みが発明されたのは、どの土地にも持ち主がいるというこの閉ざされた世界の中においてであると思う。不可分性の規則は、地所の一体性を保証する。地所すなわち、社会的階層の上の者にとっては封土であり、下の者にとっては農場である。はるか後になって長子相続制が出現したヨーロッパのケースにおいては、その発明は社会構造の最高水準、すなわち王に由来する…」191-2頁→
(承前)「私は、必然的な因果過程を喚起しているわけではない。閉ざされた空間内で稠密化した定住農耕は、ここでは単に直系家族の出現に好ましいコンテクストとして記述されているにすぎない。直系家族は定住農耕の中につねに現われると、言っているのではない。…また、一たび発明された直系家族のメカニズムは、この元々のコンテクストから独立して広まることはできないと、言っているわけでもない。…
この非常に慎ましいモデルは、なぜ不分割はたいていの場合父系的であるのかを述べることはできない。…歴史の中で観察される家族的シークエンスは、人間という種の心理的作動〔動き方〕について、何事かを明らかにしてくれると考えたいものである」192頁
「〈末子相続は長子相続よりも前か後か〉
不分割の規則こそ、直系家族の作動を可能にするものだが、これにはいくつかの変種があり、主要なものは、長子相続と末子相続である。このうち前者の方が、はるかに頻繁である。…ここで私が関心を向けるのは、不完全な、〈レベル1の父系制〉に対応する父方居住直系家族についてである。…
フレイザーの論理に従うなら、末子相続の方が先とする見方に行き着くだろう。彼は、末子相続制を〈サイクルα〉の『自然な』到達点と考えていた。…このような末子相続は、まだ不分割の規則によって規定されたものとすることはできない。これは何らかの直系家族システムを定義するわけではない。…農耕空間が閉ざされたことと不分割の概念の出現とが、どのように〈サイクルα〉の末子相続を変形するに至るのかを想像するにあたって、フレイザーのモデルは容易に延長することができる。すでに習慣によって家の相続者として指名されている最も若年の息子は、こうなると土地の不分割というものの恩恵に浴することになるだろう。そうなると、末子相続は意味が変わってしまう。拡大することをやめた世界の中で地所の大部分を所有する権利、つまり紛れもない特権となるのだ」193-4頁→
(承前)「これより後の段階になると、空間の完全な閉塞は規則の逆転を引き起こし、末子相続を長子相続へと転換させることになるかも知れない。他所へと移住する可能性を完全に奪われた長子は、最終的には『(成年に)先に着いた者から、先に食事にありつける』〔早い者勝ち〕という規則の効力で継承者として選ばれることだろう。…
このようなシークエンスを暗示することができる事例は、かなりの数に上る。…ヨーロッパでは、実際に相続上の特権を含意するような末子相続を伴う直系家族は、長子相続を伴う直系家族に対して、たいていの場合、周縁部的である。空間内のこのような配置は、直系家族の歴史に2段階がある、すなわち第1段階は末子相続で、第2段階は長子相続であるとの仮説の検証となり得るであろう。
男性末子相続から男性長子相続を引き出そうとするならば、一時的同居を伴う核家族の段階で単系制が出現したと仮定しなければならない。それはつまり、単系制は、当初は平面軸に沿って兄から弟への継承を伴って発展したということになるだろう。革新は、拡張的農耕システムというコンテクストの下で、ことさら生産システムの危機もないところで起こった、ということになる。だとすると、それはいかなる適応の刺激要因もないところで起こった純然たる発明であった」194頁→
(承前)「既知の事実と両立可能な解釈はもう一つある。一時的双処同居を伴う核家族の世界に直接、長子相続を伴う直系家族が出現したと仮定するのである。そうなると、単系制は、兄から弟ではなくむしろ父から息子へと続く縦の継承として、直ちに考案された、ということになろう。然るのちに、直系家族の父系革新は、自律的に、人口密度が低い周辺地域へと伝播・普及したということになり、それによって、それらの地域の一時的双処同居を伴う核家族が父系居住へと方向転換することになった、ということになる。…父系制が外部から到来して、父方居住制と明示的な男性末子相続とを同時に誘導したとする仮説は、一時的双処同居を伴う家族が実際上決して末子相続の規則を含むことがないことを示しているデータの解釈に、ぴったりと適合するのである。…
提示された2番目の解釈によれば、末子相続は、長子相続とともに生まれた父系制の伝播に対する、部分的には分離的な適応反動にすぎない、ということになろう。この仮説の試みもまた、長子相続の周りに分布するという、末子相続の周縁部的配置を実に的確に説明する。それは中国のデータと完璧に両立する」194-5頁
「共同体家族と〈レベル2の父系制〉への移行…
…父方居住共同体家族の構造の定着と、それが女性のステータスに及ぼした長期的帰結を、慎重に区別して考えなくてはならないのである。〔女性の〕根底的な劣等性という観念は、少しずつ定着したにすぎない。ここでは、きわめて長い期間をかけて刻み込まれた心性の変遷を考えなければならないのである。
この漸進的な現象が、中国でいかに進行したか…例えば、纒足は、女性を劣ったものにしようとする欲求と性的ファンタスムが交じり合って複雑に入り組んだコンプレックスをなしているわけだが、これが姿を現わしたのは、〈レベル2の父系制〉への到達のすぐ後というわけではなく、父方居住共同体家族の定着後1000年ほど経った、共通紀元後900年から950年までの間にすぎない」211頁
「家族類型(一時的同居を伴う核家族、父方居住直系家族、父方居住共同体家族)が姿を現わす順序は、諸価値の発明の一つのシークエンスを定義づけるが、そのシークエンスは、西洋政治学の表象とあまり一致しない。出発点は非定義状況であって、そこでは権威と自由、平等と不平等という近代的な概念は、ただ単に当てはまらないというだけの話である。一時的同居を伴う核家族は権威主義的でも自由主義的でもなく、平等主義的でも不平等主義的でもない。直系家族とともに、権威と不平等の概念が現われるが、それはすでに男性性の概念に結びついている。次の段階になると、共同体家族は権威の概念を受け継ぐが、それに平等の概念を付け加えるという革新を新たに施す。そこで平等の概念は不平等の概念にとって代わることになる。平等の概念はこの段階では男性にのみ関わる。…
これは、平等を最も遠い過去の中に置き、不平等を直近の現在の中に置くルソーのシークエンスとは、正反対である。家族システムの歴史は、不平等の概念が平等の概念の前に発明されたことを示唆している」213-4頁
「縄文時代末期のものと推定される墓穴の中の骸骨の遺伝子分析を用いた最近の研究は、日本の南西部の異なる2つの地域に位置する2つの共同体において、婚姻後の夫婦の居住は双処居住だったことを検証した。その方法はまことに単純で、遺骸の調査によって、女性の骸骨の間と男性の骸骨の間で、遺伝子レベルでの血縁関係の量に差がないことが明らかになったというものである。それは農業の発達と列島の人口の大量増加より前の住民に関することであるが、この結果は、本書の中心的仮説を飛躍的に強化してくれる。歴史を最も遠い過去へと遡ると、そこで観察できるのは、実はわれわれが近代的だと信じているもの、すなわち、婚姻交換において男性と女性に異なる位置を割り当てることのない双方的親族システムに他ならないということである。…
日本は、共通紀元以降、侵略されることなく歴史が続いた稀なケースを提供している。…日本はもちろん、家族形態の伝播・普及の過程から守られて来た[ママ]わけではない。しかし、伝播のベクトルは軍事的形態ではなかったという点には確信を持つことができる。伝播・普及は、日本においては、宗教者や商人や海賊といった、日本文明が海外に派遣した者たちが国外で観察した形態を自発的に模倣した結果であった」227頁
「[日本の]養子縁組は、実際には、母方居住の入り婿婚を形式化したものであった。これによって、娘による遺産の継承が可能になるのである。養子となる者は、親族の中から選ばれるのではあるが、世帯主の親族から選ばれるのが義務ではなく、時として世帯主の妻の親族の中から選ばれた。父系親族しか養子として認めない朝鮮のシステムとは、非常にかけ離れている。…
男性長子相続も、普遍的ではなかった。…日本の南西部では、末子相続や、相続人の自由選定や、稀ではあるが、財産の可分性さえも観察される共同体が少数ながら存在した。北東部では、年長の娘が弟たちに優先する、絶対長子相続制が行なわれるところがあった。この多様性は、ゲルマン的周縁部での末子相続制やバスク地方の絶対長子相続制といった、ヨーロッパにおける等価物を参照するよう仕向けるがゆえに、最も常套的なル・プレイ的ヴィジョンを強化する」229頁
「〈長子相続の台頭〉
現在入手可能な歴史データの示すところでは、男性長子相続が本当に日本に、その貴族層の中に登場したのは、鎌倉時代…後半になってから、すなわち、13世紀末から14世紀初頭までの時期においてであった。…農民層の中に不分割の規則が登場したのは、その頃か少し後のことだったと仮定することができる。家族変動がどのような社会階層の中に起こったのかという問題は、ある意味では言葉の用い方に関わる。というのも、日本の封建時代初期の特徴の一つは、ほとんど貴族である武装大農民と言うか、ほとんど農民である小貴族と言うか、どちらとも決められない中間的階層の登場だったからである。平均的階層を中心にして、その上と下に細かく階層分化したこのような農村的社会形態は、直系家族の古典的な相関者である。ここでは、どちらが原因でどちらが結果なのかは、即断しないでおこう。遺産の不分割の規則は、農村社会の両極化を妨げる。同じ現象がヨーロッパでも、フランスの南西部や南ドイツで観察される」240頁
「直系家族の台頭は、中国と同様に、日本でも父方居住現象と女性のステータスの低下の始まりを伴っていたわけである。日本は〈レベル1の父系制〉に達するが、その後、これを超えることはないだろう。親族用語は一般的特徴としては双系的なままである。
直系家族の台頭は、農業経済の稠密化と集約化の段階に相当する。11世紀から12世紀の大開拓の後、13世紀半ばに,瀬戸内海沿岸では二毛作が出現する。…そしてまたしても、戦争は稠密化と直系家族を促進した。というのは、封建制日本は16世紀一杯、徳川国家の開設に至るまで、武力抗争の世界であったからである。…
直系家族が台頭する日本は、土地の占有度と農民入植の古さが地域によって異なる異種混交的な国である。…日本型直系家族が抱える、中央部形態と北東の変異体という二元性…この後者は、農業と国家権力の拡大の最後の地域の特徴に他ならない」241-2頁
「〈日本型直系家族の発明〉
日本型直系家族は、朝鮮経由にせよ直接にせよ、単に中国から到来したものであると考えることができないのは、明らかである。この両国の最初の緊密な接触の時代に、中国はすでに共同体家族化されていた。せいぜいのところ、法典と儒教的慣行の中に昔の中国型直系家族の儀式的痕跡が残るのに気付くことができるくらいであった。それだけでも概念的次元では無視できないが、ヨーロッパの封建時代にほんの少し遅いだけの日本の直系家族・封建時代は、中国の直系家族・封建時代の消滅の1000年以上も後に誕生した。平安時代末期の日本の貴族階級の家族システムについて知られていることはきわめてわずかだが、それでも、当時、いかなる直系家族的観念も家族的慣行の中に根付くのに成功しなかったということを明らかに示している」242頁
「直系家族が出現するには,大開拓の終了、国土の中心部における集約農業の出現、昔から人が居住する地帯——本州の西の3分の2、プラス四国島と九州島の人口稠密部分、としておこう——における日本農村社会の稠密化を待たなければならない。長子相続は鎌倉時代に出現した。この時代は、中央部地域の東に位置する〈関東〉の勢力上昇が顕著であり、この地域を発展の震央と考えるのは妥当と思われる。長子相続は、京都の宮廷の権威をはねつけた戦士的貴族たちによって、〈関東〉にもたらされたのである。家族の地理的分布を示す微妙な差が、このような仮説を確証してくれる。直系家族が、最も純粋な形態とは言えないまでも、絶対長子制や末子相続のような逸脱的要素をあまり含まない形で存在するのは、〈関東〉においてである。絶対長子制は、日本の北東部、〈東北〉の特徴であり、末子相続は、西部では数多くの例が見られるわけであるが」242頁
「日本北東部のケースの中に感じられると思われるのは、もともと存在した一時的双処同居を伴う核家族システムの上に、不平等という直系家族的概念が直接的に貼付けられたということである。もともとの兄弟姉妹の夫婦家族を連合する双処居住集団の痕跡さえ知覚することができる。直系家族的な序列原則が兄弟間の関係の上に直接に取り付けられたようなのである。父親は早期に引退する。〈本家・分家〉集団の中では、同じ株から枝分かれした世帯間の付き合いが重要となる。娘が長子である場合、その娘を跡取りとする絶対長子制の規則は、それが存在するのであるなら、もともとの双処居住の痕跡に他ならない。…分離した住居を伴う〈隠居〉は、核家族間の関係を組織していた柔軟なシステムの痕跡である」244-5頁
「ユーラシア大陸の最西端部をなす複雑に入り組んだこの半島[ヨーロッパ]には、古代的(アルカイック)家族形態のかなり見事な見本集を観察することができるのである。しかしながら全般的に言って、この地域に家族の起源的形態を見いだすことはないだろう。内因的な原因によるにせよ、のちに父系原則が到来したことで誘発されたにせよ、ともかく変化が起こることは起こった。しかし、こうした変化は、本書で研究している進行過程の尺度からすれば、近年のこととなる。直系家族の例は特徴的である。中国の場合には、共通紀元前1100年頃に、長子相続の原則が貴族階級の中に出現した、と私は述べている。…これとほぼ同様の男性長子相続がヨーロッパに出現した。…フランク人の貴族階級における長子相続の出現は、10世紀末に遡る。…直系家族という人類学的類型の前進…これは耕作適合地の人口密度の上昇という内因的必然性の結果であると同時に、威信効果による伝播運動の結果でもある。…彼[ディオニジ・アルベラ]の研究によれば、それがアルプス地方に到達したのは16、17世紀のことだという。これよりもさらに時代は下るが、19世紀後半のアイルランドにおいて、1845年から1851年の大飢饉の後に、遺産分割の慣習が放棄され、男性長子相続が定着するようになった」420-1頁
「父系制は、4つの異なった軸にそってヨーロッパに作用を及ぼしている。
1 中東の父系制が古典古代の全期間を通じて、地中海の東から西への軸に沿って広がり、ギリシャ、次いでローマに到達した。
2 共通紀元5世紀のフン人の侵入は、ステップの遊牧民の父系原則——おそらく中国起源——の到来をもたらした。この侵入も東西の軸にしたがって行なわれたが、はるかに北方で行なわれた。それに続いて、同様の侵入が数波にわたって行なわれたが、その最後のものは13世紀のモンゴル人の侵入である。
3 アラブの父系制は、ギリシャ人とローマ人のものと同じく中東に由来するが、7世紀から南を経由して、スペインと地中海西部の諸島嶼に達した。
4 トルコ人の侵入は、15世紀から始まり、南東から北西への軸に沿って進んだが、これが父系制の4番目の勢力伸長にほかならない。
全体としてみれば、父系制の勢力伸長は、東からの波動という形で押し寄せ、時には南に中継されている。ヨーロッパの北西部に最も核家族的にして最も女性尊重的な家族システムが存在するのは、理の当然と言えるのである」424-5頁
「父系制の空間に、私は父方居住の直系家族を入れなかった。この選択は逆説的と見えるかもしれない。なぜならの直系家族の父方居住の比率は、全体的に見て一時的父方同居を伴う核家族における比率よりも低いわけではないからである。私は特に…父方居住の直系家族をどうやら父系原則の起源らしいと考えていた。では、何故、ヨーロッパでは、直系家族を共同体的形態、ならびに一時的父方同居を伴う核家族的形態に結びつけないのか。それはごく単純に、父系制が地理的に1つにまとまっており、その原因は、〔直系家族から父系原則へというのとは〕別の切り離された歴史的シークエンスに求められなければならない、という理由からである。…家族形態の地理的分布から分かることは、ヨーロッパの直系家族は内因的生産物であり、それは東および南を通った父系制の伝播のメカニズムとは、その主要部分において、無関係であったということである」432頁
「〈ローマの進化の理論上の重要性〉
…分析を進めると、いくつかの歴史的変動の可逆性が浮き彫りになってくる。父系制の推進力が、微妙な差異に富んだ、時には局地的に偶然的な姿を見せるに至るのである。…父系制が今日でも、中国南部とインド南部において、いわゆる西洋的な近代化の外見を超えて、前進し続けている…日本のケースは、実質的な進化の例を提供してくれた。しかしその進化は、直系家族段階、すなわち息子がいない場合に娘による相続をつねに認める〈レベル1の父系制〉の段階で停止した。東南アジアの最大部分では、父系原則は、家族の母方居住反動、そして時には親族システムの母系反動を生み出したにすぎない。フイリピン人は長い距離と海とに守られて、起源的未分化状態からのいかなる変化をも免れた。
父系制の作用は、全面的か部分的か、反動的か、もしくはゼロであるにしても、いずれにせよ不可逆的であるとこれまで思われてきた。これまでに研究されたケースは、つねに双処居住から単線性へと向かうものであった。ところがローマ帝国については、明瞭な逆行を経験することになるのだ。すなわち、親族に関しては、父系制から双方制へ、家族構造に関しては、複合性から核家族性への逆行である」475頁
「〈帝国期の変動 核家族の新たな類型〉
ローマの家族の歴史の標準的な姿というものは、最近まで、複合性から核家族性への、また権威主義から個人主義への粛々と進む前進という、ラスレット革命以前の家族の世界史の姿を凝縮したものに類似していた。ゲンス〔クラン〕が、ついでファミリア〔家門〕が、姿を消して行き、後期ローマ帝国時代には核家族に席を譲った、というわけである。この図式は、核家族性への逆行という図式と両立し得ることを、指摘しておこう。重要な差異は…伝統的な図式はも、ともに強力な父系制と複合性から出発していたという点である。
この古典的な進化論的ヴィジョンに対して…ローマの家族がより核家族的であると考えるサラーは、不変説へと向かうヴィジョンを対置する」476-7頁
「ヨーロッパにおける直系家族の歴史は、中国に2000年の遅れをとっている…ヨーロッパのケースは日本のケースにかなり似通っているが、遥かに規模が大きい。ヨーロッパの多様性は、日出ずる国のそれより比較にならないほど大きいのである」421頁