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「体制の一般原理
 生物体にみられる段階構造は、生物学だけでなくひろく心理学や社会学の領域にもわたる一つのパターンの一斑なのである。それは<階層的秩序>と呼んでよい」40頁

「多細胞生物の<空間的階層性>…多細胞生物は、諸部分の段階構造からなっていて、各段階はいつでも、もっと高次の秩序をもつ体型へとまとめあげられてゆくのである。ここでW’は全生物体で表わされ、Mは生体の部分である。ある成分がもっと高い水準にある成分にたいしてもつところの体制関係がR(s)である」41頁

「2つの説が対立して、一方は細胞だけが生きており…物質は細胞の死んだ分泌物だと考えた。もう一つの説によると、生きている原形質が改造されて基礎物質になるという。この説は《生命質》なる言葉をもちだしたが、その中には細胞だけでなく基礎物質も含まれているのである。有機体論の見地からフォン・ベルタランフィは次のように指摘した(1930)。第1に、細胞間物質の生長と形態形成とは、それらの物質が自立して《生きている》というには十分でないこと、第2に、いうまでもないが、細胞間物質の生成は個々の細胞の仕事を寄せ集めたものではなくて、全体——しばしば合一された原形質から生ずる(共形質的symprasmatisch)組織であるが——の単一な働きだということ。第3に、生命質のかわりに、システムという見方で考えるべきだということ。階層的秩序をもって組み立てられた生物体という条件の中では、なによりまず細胞が、次には組織が《生きて》いる。組織という枠の中で細胞間物質の演ずる役割は、細胞の枠の中で細胞膜や繊維が果たしているものと同様にみてよい。膜も繊維も、それ自体で《生きて》はいないが、全体としては生きている細胞システムに属するものである」42頁

「<遺伝学的階層性>…関係R(g)が意味するところは《直接の子孫であること》だ。両性生殖では遺伝学的階層性は説くまでもなく複雑なシステムのほんの一部にすぎない。受精卵は両方の親に対してR(g)の関係にあるために、システムは網状構造の性格を持つ」44頁

「生物は形態学的な<部分の階層性>だけでなく、生理学的な<過程の階層性>をもあわせ示している。もっと正確にいいかえるならば生物体は形態学ですべてをつくせるような単一の階層性を示してはいない。それは幾重にも入りまじり、重なりあった諸階層性のシステムである。…
 過程の階層性は形態学上の編成よりもずっと移りかわりやすい。ある過程が形態学的な一成分と関係していれば、過程の階層性と形態学上の編成が一致することもある。しかし一致せねばならぬわけではない」45頁

「さらにまた階層的秩序の重要な型として<階層的分岐>といわれるものがある。…階層的秩序の概念を使うと、事象Wはここでは原初の統一された胚であって、これに続く準位面に対応するのは、分岐していく第1・第2級・・・・の部分システムである。重要なのは分岐が、分裂の階層性内での細胞的編成とは、一致しないことだ。…別個の各部分の運命をきめる要因は、発生しつつある卵が分岐によって細胞成分へと細分されたことにあるのではない。むしろそうした要因というのは、一群の細胞の集まりから一定の成分ができてくるように決定する動的先行経歴(Prius)である。…
 生物学的階層性でもそうだが、心理学的および社会学的階層性でも、分岐という性格がとりわけ目だつ。…生物学の領域では、全体がまず始め[ママ]で、これが部分システムへと分岐する。…しかし系統発生でも、生物体の分化が進むことは、生命機能が分岐することを表わす」46-7頁

「生物の段階を高く登れば登るだけ、関係しあっている全体のうちの各部分それぞれのふるまいかたは多様にはなってくるが、生物体全体の働きに比べると貧弱にもなってくる。…
 多様になること、つまり部分の<分化>が増すことは…漸進する統一化と結びついている。これはまた同時に、比喩的に《分業》といわれるところの特異化をも意味している。…
 分化が増していくことは、同時に《機械化》が増すことである。つまり、はじめ統一されていた行動が個々の別々の行動の集合体に分かれ、それとともに調節能力を失う。ある部分が、多少とも一つの機能ばかりを担当すれば必要の際に他の機能を代行する調節能力は退化する。その部分が失われると補いのつかぬ損傷になる。…特異化(専門化)によってはじめて行動をもっと高次にすることができる。専門家は一方ではかけがえのないものだが、他方またふだんの環境以外のところでは原始人よりもずっと始末におえないものだ[😅]。…個々の生物体や生物の部分についても、また外界に対して適応するときにも、分化と特殊化によってはじめて高次の発展がなしとげられる。生物体が機械化し、その部分が単一の機能にだけ結びつけられ、したがって攪乱に対する可塑性を失うという損失を代償に、はじめて高次の発展をあがなうことがてきる」48-9頁→

(承前)「さらにまた分化すると、体の一定の部分が他に対し優越性を得る。だから分化の増大は<集中化>の増大とむすびついている。そこで高次に発展した階層性では、階層の序列と部分の服従の原則(A. ミュラー)がみられる。…もちろん生物体は、軍隊のように単純な梯子上の階層ではない。幾重にもなり相互に働きあうよく編成された全体である。…
 階層秩序と《主導部分》の原理もまた、形態学的な編成を超えた普遍的性格のものである。…
 集中化の原理はこのように生物学的個体性の問題と密接につながっている」49-50頁

「われわれは自然科学的には、個体性について次のようなことしかいえない。系統発生的・個体発生的に統一化が増していき、その間個々の部分はたえず分化し続け、自立性を失ってゆくということだ。極言すると、生物学的個体性などというものはなくて、系統発生的・個体発生的に前進してゆく個体化があるにすぎない。この個体化はもとをたどれば前進的集中化に始まっている。つまりある部分が、他の部分に対して指導的役割をえて、全体の動きもの部分によって定まるのである。個体性とは一つの限界であって、発生においても進化においてもこの限界に近づきはするが、そこに到達することはない」52-3頁→

(承前)「個体化とともに死ということが生命の世界に現われる。経験の示すところによれば、原始的《分割体》である下等動物とちがって、高等動物として現われてくる複雑な統一的システムは、分裂によっては増殖できない。こういうシステムはいつまでも生存しつづけられず、自然損耗して老齢や死に陥る。個体を死によって定義することは、当をえないことではないだろう。統一のシステム、そのうちでも特に中枢神経系の集中化傾向と、生殖器官の解体的傾向との間には、対極的な対立ができあがる(A. ミュラー)。完全な個体化すなわち集中化は、増殖を逆に不可能にすることになる。増殖とはまさに、年とった生物体の一部分から新生物体を作りあげることを前提としているのであるから。他方、指導的中枢系である脳と心臓とは自然の老化過程で最初に破綻し、それゆえとりもなおさず死の器官なのである。
 このように個体の概念は生物学的には、限界概念としてでなければ定義しようがない。実際この概念の規準は、自然科学や客観的観察とはちがうところにある」52-3頁

「超個体的体制の世界
 生物体は空間的にかぎられた個々の存在として私たちの前に現われる。だが彼ら自身はもっと高次な単位の項(部分)であって、その単位体とは時間に関していえば<種>である。おのおのの生物体は増殖によって他のものから派生したり、また新生物体の源流になったりしながら超個体的結びつきのそれぞれ一員となっているが、同様に空間的にも生命の段階構造は生物個体のところで終るのではなく、個体を越えてさらに高次の単位がある。
 空間的高次単位に属するのはまず同種の個体の社会で、これは動物集団とか動物国家とかになって現われている。…専門化した動物個体の動きは、全社会を保ってゆくために協調し整頓されている。ちょうど細胞や器官の働きが生物体〔全体〕に対するのとかわらない。たとえばミツバチの結婚飛行・巣わかれ・新しい女王たちの哺育の場合のように、各動物の行動は全体によって規定される。各動物個体の予見によるとはとても考えられない驚くべき《目的性》が示される。…最高度に発達した昆虫国家にいたる道は、高度に体制化された生物個体に達する系統発生的道程と似ていて、系統発生上でもはじめはゆるい連絡だったものが、だんだん緊密な体制に固まってゆくのが見られる」53-4頁

「生物共同体は《動的平衡を保っている生物群落システム》だといえる(レスウェイ)。
 最高の生命統一体を形成するのはいうまでもなく地球上の全生命である。もしもある生物群がとり除かれると、平衡は破れるからさらに新しい平衡状態に移ってゆかねばならない。…あらゆる生物群の中を物質がどんどん動いて、これではじめて生命の流れは保たれる。…
 生物社会とは相互作用をしている成分のシステムである。その成分は相互依存・自己調整・攪乱のさいの適応・平衡状態への性向など特性的なシステムの特徴を表わすけれども、その統一性の度合が生物個体にくらべてひどく小さいことはもちろんである。生物共同体とはつまり集中化していないゆるい統一体であり、生物個体が自分自身の中にある条件で発展するのに対して、生物共同体の発展は外的条件によって定められる。だから生物共同体をシステムだというのは正しいが、よくやるように《高次段階の有機体〔生物体〕》だというのはよろしくない」55-6頁

「人間が手をいれない自然では動植物が生物学的平衡にしたがって、生物共同体を保っている。すなわちどの種も自分の自然の敵〔天敵〕をもっているから無制限には殖えられず、だからといって遺伝資質や外的条件が一変せぬかぎりは、死にたえることもない」56頁

「生物共同体を単一性あるいはシステムとしてみてよいものだろうか? 各項はたえずたがいに滅ぼし滅ぼされあって闘っているのではあるまいか? その答えからは次のような洞察が導きだせる。各部分の不断の闘いは、ルーの表現にならえば、生物共同体であれ、生物個体であれあらゆる生物学的システムの中に存在している。…生物個体も、超個体的生物統一体も、すべて生物学的システムにおいては統一体が部分の間で相争っていることがわかる。統一体をこういうふうに考えることは、ヘラクレイトス、ニコラウス・クザヌスまでさかのぼるあの深い形而上学的洞見の反映である。すなわち世界も世界の各個物も、それ自身対立物の統一(coincidentia oppositorum)であって、たがいに反抗し闘争しながら、しかもより大きな全体を構成し保ってゆくということである。この生物学的問題から、弁神論と世界悪という永劫の問題を見る展望がひらける。これは、たがいに相争う部分が個体化する(不可分化してしまう)ことからおこるのであって、各個体に対しては滅亡を、しかしながら全体にとっては前進する実現化を意味するところの闘いである」58頁

ギヨエテ1812年の日記「叡智ある人々のあらゆる頭脳から機械論的・原子論的な考えかたは逐いだされ、ものの現われすべてが力学と見え化学と見えるように、いつかはなり、その時にこそ、生命ある自然の神々しさがさらにいっそう目の前に展けてくることであろう」59頁

「発生能力つまり《ポテンシャル》は、実最に正常の発生で行われるところよりも一般にはるかに大きくて、発生初期の胚はある範囲では《等ポテンシャル・システム》[等能体系]である。つまり各部分それぞれが何でもできるし、同じことができる。すなわち完全な生物体を作りだせるのである。
 さて次にその時々のポテンシャルは、何によって決まるのかという問題がおこるが、ドリーシュの設定した原理がこの疑問に答えてくれる。発生過程で、ある細胞が行うことは、発生系全体の中で細胞がその時占めている場所によって決まる。…
…発生はまえもって原基に割当てられているのではない。胚の各部分は全体との関係でしだいに一定の発生方向にきまってくるのだ。そこで発生はたとえ見かけは前成的でも、原理的には後成的である。
 これで第1案、つまり前成説か後成説かということには答が与えられた。発生は独立の原基や発生機構の作用ではなく、全体に支配されるのである」61-3頁→

(承前)「さてここで<第2の選言命題>、あれかこれかがくる。《全体》とは、胚の物質系につけ加わる要因なのか、またはこの物質系の配置に内在するものなのかということである。第1案は生気論、第2案は自然科学的な全体性説である。
 ドリーシュが、自分の実験からどんなふうにして生気論に行きついたかは、前に…説明したとおりである。このことに関連しておもしろいのは、生気論に対する認識論的・方法論的な反対ではなくて、これが経験的に打破されたことだ。
 決定が依存している《全体》とは、将来到達されるべき特有の最終産物ではないことは、多くの経験から明らかである。全体とは自己発展するシステムの総合状態であって、その時その場に応じて、具体的に示すことができる。もちろん決定がまだおこらぬかぎり等結果性(等終局性…)がなりたつのであって、始めの状態は違っていても、到達した結果は同じになる。けれども発生の経過は、決して《目標めざして》進むものではない。《目標めざす》とは、その目標を予見してエンテレキーが働きでもしているように、できるかぎり有意味・典型的な結果が生みだされるということである。なにがおきるか、調節が行われるかどうか、そしていつどのように行われるかは、その時の条件によって一義的に決まることだ」63-4頁

「発生の過程は《必然性の無情な勤勉さ》でおきるのであって、結果が良くても悪くても、目的に合っても合わなくても、また元来目的などにはおかまいない。エンテレキーのほうとしては典型的な結果を目ざしているのだが、使える材料が不十分なためにに[ママ]、その目標が妨げられる、などということではけっしてない。…使える道具がすくないので、エンテレキーの威力が制限されているのではなく、むしろ現象は物質系の条件によって必然的にきめられるのだ。それ自体としてはおこることが可能な過程を《留保》するということが、ドリーシュにとってはエンテレキーの主要課題であったことを思いだせば、過剰再生に関する議論はとくに決定的なものである。ドリーシュの言い分によれば、正常な発生の場合にも、調節的発生のばあいにも、留保によって過程のうちのあるものが止められてできるだけ完全な全体ができあがるようになるのであ。過剰再生体や、その他の奇形体は、エンテレキーがまるで無力なことを示している」64-5頁→

(承前)「胚の物質系につけ加わって、それが到達すべき典型的な最終生成物の形を導きだすような原理を仮定することは、いま述べたように第2の選言命題から排除しなければならない。つまり発生過程に現われてくる《全体性》は内在的なのである。胚はヴァイスマン説と生気論がともに基盤としたように、はじめから発生機構や原基の集合ではなくて、統一したシステムであることを示している。生気論ではこの統一化のための仕組みを操るものは、ただ外部のエンテレキーだけであると信じたのであった」65頁→

(承前)「さてここで<第3の選言命題>が現われる。胚の全体性を説明するのに、無生物界で知られている原理や法則性でまにあうだろうか? あるいはまた全体性とは生物に特殊なものであるか?
 第1の、物理法則性でよいという案のあらすじを、はじめて大成したのはゴルトシュミットであった。彼によると、発生の本質というのは触媒類似の化学作用が遺伝子からでてきて、胚の原形質や胚の細胞区分を分化させることである。このさい物理=化学的平衡過程にもとづいて、ちがった種類の現形質が局在して《化学的分化》によって器官形成区域が現われるようになる。基本的の[ママ]化学分化が確立しないうちは、胚は単一な物理=化学的システムである。だから調節胚ならば攪乱のあとでも平衡状態が回復され、調節がおきるのであって、エンテレキー概念など考えだすことはない。…
 発生の化学要因についても、平衡状態という仮定についても、まだとても精細に定義できるところまではきていない。けれどその後の新しい研究によってゴルトシュミットの見解の正しさが証明された」65-6頁

「発生はひどく神秘めいた過程で、物理=化学的分化とは別もののようにも思われる。…
…発生のとき物理=化学的過程がおきていることは必要ではあるが、胚の体制化や形態形成の問題はこれによっても解ききれないのである。
 胚発生の問題を物理=化学的に説明しようとする要求は、もっと一般的な見地から提出することもできる。すなわち個々の過程を具体的に説明するのではなく、物理学・化学で知られている《物質的ゲシュタルト》…の原理に還元できるという原理上の可能性だけを、望もうとするのである。ゲシュタルトとは、一定の平衡状態に達していて物質的全体性を示すシステムをいうものである。だが、ここでも特殊な難点にぶつかる」67-8頁→

(承前)「胚がほとんど未分化の細胞の状態から高度に体制化された多細胞の形に移ってゆくことは、システムが内在する原因によって、次第に高い体制段階に移ってゆくことを意味する。このような動きは、物理学的には一見、逆理のように思われる。物理学的なシステムは、自分から秩序を増してゆくわけにはいかない。むしろ第2法則はどんな物理学的閉鎖系についても、現象が秩序の程度を減少させるような方向に進むことを強要している。実際、自己分解するのに任された屍体はそのようにふるまう。だが生きた胚については、その条件は充たされてはいない。生きた胚が前提としているのは第1に、<より>高次の秩序段階へと導くべき順路として、特異的な体制が存在しているということである。第2に、胚は閉鎖系として行動はしていない。胚は秩序を高めるために、いつでもエントロピー原理によって一部分ずつ消尽されていくエネルギーを補充している。このような体制は…前成的・静止構造的にではなく、動的なものとしてのみ把握できる。エネルギー的にみれば発生とは仕事をすることで、この仕事は胚中の貯蔵物質(卵黄)の酸化によってまかなわれる」68-9頁→

(承前)「第2の要素は有機体システムの歴史性によるものだ…この要素とは個体発生で順次あらわれてくる傾向が系統発生的に蓄積していくという問題だ。こうした意味の歴史的要素というものも、生きていないシステムでは珍しいものである。
 さて、第3の二者択一案から生ずる結論はつぎのようになる。胚発生を説明するには、無生物界に知られているゲシュタルト原理をただ適用してもだめである。むしろ…《生物に内在する特別なゲシュタルト原理》を予想せねばならない…この見方は生気論的なものではない。なぜならこの見地は、生命の世界に浸透している超越的な因子を考えるのではなく、逆にそんなものを排除しているからだ。この見方はむしろ有機体論的なものである。すなわち、生物システムに内在的である有機体制が特異的なものとみなされ、このゆえに生物体に独自の法則性があると主張するのだから」69頁

「ポテンシャルの概念は具体的な意味をもっていない点を、ここではっきりさせておかねばならない。この概念の底にあるのはアリストテレス流の静的二元論つまり形而上学だ。石塊の中にも<潜在的には>いろんな形像がひそんでいて、石工がそのうち一つを明るみにつれだすというのと同じ言いかたで、有機物質も《ポテンシャル》で充ち満ちているといえるだろう。まどろむ潜在力のうちには《ゆりおこされ》るものも《抑えられ》るものもある。だがこんな考え方を前提としてしまえば、天才職人にも擬すべきエンテレキーがこのゆりおこしをやったということ以上には、ほとんど一歩もでられない。…ポテンシャルという考えかたの性格は生物を本質的に活動のないものと見ている。この説は胚の基質の実体をも、単に死んだ物質とみなすものだから、当然物質を形どおりに仕上げる細工人として、外からのエンテレキーが入用になってくる」70頁→

(承前)「しかし実際の胚の発生は、やすみない動的現象である。各区域や細胞のいわゆる《ポテンシャル》は、次のように考えられる。反応速度調和の原理どおりに、どの区域や細胞の中でも、いろいろとちがった反応連鎖が並行してすすむ。いつでも欠けることのない主軸に沿った勾配は別とすれば、どの区域でも始めからはっきり優越性を獲ている反応連鎖などはない。…この状態ではシステムは、いま述べた軸方向の相違だけはあるにしても《等ポテンシャル》である。システムは等結果的仮平衡…といういちじるしい条件をもった状態にあるから、なにか攪乱が加えられてもすぐもとに戻る。…
 ある反応連鎖が決定的に優位を占めるようになると、もはや状況が変わってもこの連鎖を変えるわけにはゆかない。決定がおきたのである。各部分は一定の働きだけに縛られて、もう取消しはできない。…
 等ポテンシャルと早期の未決定状態、それにともなって分割・融合・移植を行なったときみられる調節力、漸進的な決定、多少とも特異的な刺激によって形成体が動きだすこと、自立的な部分発生系に分解すること——発生とおなじこれらの諸原理は再生作用にもあてはまる。…
…発生とは神秘めいた《潜在力》が醒めたり眠りこんだりすることではなくて、諸過程の動的な相互作用なのである。」71-3頁

「幸運にもメンデルが研究した形質の原基(遺伝子)は、[エンドウマメの7本の染色体のうちの]めいめい別々の染色体上に局在していた。同一染色体に乗っているために連れだって遺伝されるような形質を、彼が研究に用いていたら、メンデルは遺伝の過程がみつからず、したがっていまでは古典的となった遺伝法則の設定はできなかったろう」76頁

「完成した動物体はけっしてあれこれの形や色の眼・翅・剛毛がただ集まっただけのものではない。動物は一定の体制をもっている。その体制に対応するどんな排列[ママ]をも、遺伝子システムには見いだされない。したがって《遺伝子》ないし《遺伝原基》の概念にどんな意味があるのかということは、教科書では通常避けられていることであるけれども、根本的な疑問のたねになる。
 まったく、遺伝の分野でも有機体論の立場は欠くことのできぬものであって、遺伝学はこのところ有機体論の方向へと発展してきている。ここでもまた静的な解釈から動的な解釈へ移らねばならない。つまり、遺伝というのは遺伝原基と一定の形質とが機械的なやりかたで結びつているところの仕組みではなく、むしろ生理学的な現象であって、これに遺伝子が一定のやり方で干渉していると考える立場が必要なのである」😅 78-9頁

「形質の発現がさまざまな因子の影響を蒙るということも、遺伝現象の性格が動的である結果の一つの現われだ。…
…遺伝子として確認できるのは、ある色、ある形をした眼・翅・剛毛などの一定の形質や器官を自分の力だけでつくりだすような単位だの原基だのではなく、むしろ全体としては対応しあうゲノムの間での差異の表現である。染色体の一定の座にある巨大分子すなわち遺伝子の性質に応じて、度合はいろいろであるにもせよ、ゲノム<全体>が生物体<全体>をうみだすのである。…ゲノムは、めいめい別々に働く独立的原基の集合体とかはめこみ細工とかいうものではない。ゲノムは全体として完全な生物体をつくりだす一個体のシステムであり、このシステムの一定部分——いわゆる遺伝子たち——の性質が変わるにつれ、生物体のつくりも変わるということなのだろう」79-81頁

「すくなくともかなりな数の遺伝子の作用は《速度遺伝子》の影響をうけるが、速度遺伝子とは、一定反応連鎖の速度に影響する因子である[何だこれ😅]。…ある遺伝子が突然変異すると、その遺伝子に制御されていた反応の速度が変わり、またそれにつれて発生しつつある生物体に多少とも深刻な変化がおきる。これは《反応速度調和の原理》(ゴルトシュミット)…
 生長速度の相違が一定遺伝子の量的な相違に原因していて、この遺伝子の分量に比例するということは、しばしば証明されたり確実らしく思われたりしている。…
 遺伝子を調和した諸反応速度のシステムであると考えることは、系統発生的にも深い意義がある」81-4頁

「遺伝子とは何か?…遺伝子が線形に排列[ママ]されたものとしての染色体は《無周期性結晶》…と呼んでよい。…
…遺伝子とは大局では一致している核型のなかの小さな違いを表現したものである。遺伝子はけっして個々の器官形成のための原基ではない。…
…ゴルトシュミットによると、近年の遺伝学研究は、次のような急進的な問さえ必要になるほどの点にむかって発展している。その問とはすなわち、遺伝子を別々に存在する遺伝単位として考える立場が、まだ許されてもいいものかどうかというのである。…《遺伝子》の概念を借りて遺伝学の事実を記述はできる。しかし生長を制御するほんとうの遺伝単位は、染色体と生殖質なのである」85-8頁

「《種の起原》は進化最大の問題ではなく問題の一つにすぎぬのであるが、ダーウィンの主著の標題ではこの点がいささかぼやけてしまっている。進化についてはざっと4つの主要な問題があげられる。第1に、品種とか種とか属とかいう、ある定まった体制設計、また構造設計の内部における多様性の起源。第2に、この構造設計自体、すなわち高次な体制単位の起源。第3に、一定環境に対する生態学的適応の起源。第4に、生体内部における全体としての形態学・生理学的な協同作業の起源であるが、これらの問の間にきっぱりと境界線を引くわけにはゆかない。問題の1と2は生物形態の多様性に、3と4はともに生物の《合目的性》の起源に関係している。…近代淘汰説が問題1と3や、したがってまた小進化を説明することはほとんど議論の余地がない。今日ではもう一組の問題、2と4、つまり大進化がむしろ議論されている」90-1頁

「突然変異・淘汰・隔離という機構は実験的に確かめられている。けれども倍数性による2、3のばあいを別にすれば、私たちの経験するかぎり《大進化》はさておき、<新種>ができた例はまずない。つまり淘汰説は一つの外挿法なのであるが、基礎概念が印象的なので、このような大胆なやり方も行われるのである。…私たちは実験遺伝学をいまから50年とさかのぼらぬ間、しかも数ダースの対象についてやってきたにすぎず、それらの対象の突然変異は、種の境界を踏みこえはしなかったのだから、《アメーバから人間までの》進化のいく十億年にも同じことしか起きなかったとの結論は、あまりに大胆すぎる。そこでこの種類の議論をするにあたっては、経験事実による判断だけではなく、思考上の可能性がやはり問題となる」91-2頁→

(承前)「生体には、なんの役にも立っていないようにみえる形質が無数にある。かなりの範囲で、分類学者が決定的だと考えるような形質は、実は機能的にはどうでもよければこそ、恒常的な特徴を保っているのだ。…分類学の骨組みをなすこれら形態学上の特殊性は、すべてそれ自体では別に有用というわけでもないが、さまざまな生命の状態に適応しうる《型》をたしかに示しているようである。…《自然の芸術品》で、その幻想的で多様な形態には、はっきりした有用さはなにもない。淘汰論者は、こういう点にもすこしも困難はないと考える。淘汰の圧力が小さい、均一な媒質中のばあい、無意義な構造でも、そのままつづいてゆくことができる。そうしたものはシーウォル・ライトの原理[浮動]にしたがって、小個体間に分割された種の中で機会的に生ずることもある。またそれ自身は無益な性質であっても、淘汰に属する性質——おそらくは単に生活力の違いかもしれないが——とむすびつくことによって、続いてきた場合もあったろう」92-3頁→

(承前)「次の基本命題は、生物界に広くゆきわたっているようにみえる。すなわち、《複雑でもよいのなら、ではなぜ単純なのか?》および《ああでもいいのに、こうもなる》といった類の現象が多い。ずっと簡単にしかも危険を冒しもせずに、ゆきつくことのできる目的に対して、驚くほどな回り道がしばしばとられている。…同じ生存競争をもちこたえるためにも——と淘汰論者は答える——いろんな手段があり、これらの形態が生き残っているのは、それが有用ななによりの証拠ではないか。
…ルトヴィッヒは…有害な性質に対して淘汰主義は14ないし20ばかりも説明を与えうると主張した。…14ないし20という説明には、次のようなものがある。一、今日では無意味か有害な形質も以前は役に立つことかできたのだろう。一、無意味な形質はたぶん多表現ということによって、淘汰価値あるものと結びついていたのであろう…一、無用な形質は性的淘汰によってはぐくまれる。一、種間的には安全に生存している種に、種内的淘汰がおきた結果として、ついに種自身にとってさえ危険な無用有害の発達がもたらされた、等々である」93-5頁

「小進化と大進化、つまりある《型》の内部における形態の多様さの起源とこの型自体の起源が原理的に同じ性質だということも、上述の論争と同じ強情さで拒否されたり弁護されたりしている。…大進化論者のいう《型》の起源は、小さな変化がしだいに積み重なってきたことによって生じたのではない。発生初期の段階に、広範な《作り変え》を左右する《大突然変異》がおきた結果だ。このことは、進化に2つの相が認められるという古生物学上の見解によって支持される。まず、新しい型が突然にできて、でると[ママ]すぐ爆発的に主要な形態の多様性へと分散する。次に、既製の形態の枠内でゆっくりと前進的に種が形成され、いろんな生命領域への適応がおきる。この問題にも淘汰論者は答があって、《型》とよばるべきものは一義的に確定できないから、《大進化》と《小進化》の境界線は引けないという。…いろんな《型》の中間段階が稀であったり、ほとんど欠けていることも簡単に説明できる。新しい型は先祖へと根を張ることが浅いので、それに応じて保存される化石もごくわずかなのだ。…かくして、小進化と大進化の間に原理的な差別があるとか、遺伝資質の変化の法則は過去ではいまとちがっていた、という仮定にはなんら科学的根拠はないのだという」96頁→

(承前)「進化的発達は《有用性》によっては理解できないとしばしば説かれる。高次の体制が淘汰価値を示すなら、高等生物は下等のものを駆逐してしまったはずだ。しかし任意の自然の断面ではすべて、単細胞から脊椎動物におよぶすべての生物のいろんな体制段階のものが、どれもみな生きながらえている。いや生きているどころか、生物共同体の成立にとって必要でさえある。…
…外挿や、《有用性》のゆえに進化的変化ができてきたという主張に対しては、実証したり論駁したりする可能性がない。ある形態が生きのびてさらに発展したならば、その時は変化は有用だったか、有用なものに結びついていたか、害にはならなかったか、そのいずれかに違いない。でなかったらその形態は死に絶えたはずだ。それにしても、いつでも<事後の予見>〔場合によれば牽強付会〕(vaticinatio post eventum)であって、チベットの折り臼とおなじく進化論も、あくことを知らずくり返し念仏を唱えている——《万事有用》と。だが実際なにがおこったか、本当はどの道が採られたのか、進化論はそれについてはなにも言わない。進化は《偶然》の産物で、《法則》にしたがうものではないからだ。けれども、それではたしていいだろうか?」97-8頁

グールドを先取りしたようなことを言ってる

「進化は外部要因によってだけ方向をきめられるところの無法則的現象だろうか。つまり偶然な突然変異と偶然な外作用とが、さまざまな生命条件や条件から生ずる生存競争とかの形において生みだした偶然の産物なのであり、これに、やはり偶然な隔離と、それに続く種形成の影響がつけ加わるだけのことだろうか。あるいは進化とは生物自身の内にある合目的性によって決定されたり、助けられたりするのだろうか。…
 数学的解析の示すとおり、淘汰の圧力は突然変異の圧力よりもはるかに強く、優勢なものである。…
 いま述べたことと、突然変異の《無方向性》とから、淘汰主義は次の結論をひきだした。進化現象の方向は外部要因によってだけ、きめられると。しかしこの結論は前提からでてきたのではない。淘汰が一般に進化の<必要>条件を示すとしても、だからそれが<十分>条件をも与えるということにはならない。
…この説は淘汰圧がない例外の場合は別にすれば、あらゆる進化過程においては、関与する生物体に対する《利益》が増大するという限定条件を定めている。だが個々の場合になにかがおこるかどうか、またなにがおこるかは、淘汰原理からは訊きだせない。…淘汰原理ですべてがいいあらわせるという生物学上の主張は、いまでは時代遅れの《エネルギー主義》とでも比ぶべきもの」99-100頁

「進化説は莫大な事実を材料にして、動植物の世界が地質学的時間の経過につれて単純で原始的なものから複雑で高度に体制化したものへ発展してきたことを立証した。…けれども、実際は現存生物や化石生物の世界の内に継続する移行過程は見いだせず、見いだされるのは別個にはっきり区別できる<種>だけである。<種>の内部に多少豊富な突然変異や品種があるにしても、連続的な移行過程がもしあるとすれば出会うはずの、種から種への中間段階がみつからないという事実に変わりはない。生きた生物の世界も化石のそれも、一つの連続体ではなく不連続体である。
 たぶん個々の遺伝子だけでなく核型にも安定条件があてはまることが、種の不連続の理由なのだろう。…《種》とは、その中に安定した《遺伝子平衡》ができている状態であると。つまり種の中では、発生が調和して発展できるように、遺伝子が相互につりあっている。…ある種から他種へと移りかけている形態は、はなはだ不安定であって、とくに淘汰の攻撃にさらされやすい。それだからこそ、淘汰は速くすぎ去ってしまわぬわけにはゆかないのである[😅]。つまり一つの形態がもしも中間期間に死にたえないでいれば、やがて新しい遺伝子平衡に達し、形態はふたたび長い間安定していられるのだが、それまでは静止的になることは少ないのである」102

「小さな突然変異や淘汰によって連続的な作りかえをおこすには、地質学的時間で足りることを証拠だてるのがそれまで常套の方法だったが、このやり方は当をえていないとシンデヴォルフが強調しているのは、おそらく正しい。人は進化の出発点と終点だけに目をむけて、その中間の時間を、等分された小さな変形で埋めてしまう。しかしほんとうは、形態はにわかに多様性を現わす。種の系列のなかでは、ある種が現われてから、次の種を世にだすために、たえず作りかえをやっているのではない。何十万年かの間そのままでいて、それから、急に次の種を世に送る。型の内部では、すでにはじめから大きな綱は存在している。…こういう現象こそが、シンデヴォルフの先発生説(プロテロゲネシス)を根拠づけるものの一つだった。この説では個体発生初期の飛躍的な造りかえが、そのまま新しい型の起源になるというのである。…動植物界の基本型がかなり少ないことを考えると、進化の大きな一またぎに相応するのは比較的稀に現われる遺伝変異であることがわかる」103-4頁

断続平衡説ですなあ😅

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「刺激を与えることは状態を定常状態から<ずらす>ことを意味しており、生物は平衡状態にもどろうとする。…生物の定常状態はゆっくりと確立しては、ゆるやかに変化していくのである」139-40頁

「システムとしての生物体——精密生物学の基盤
…開放系の説は、将来の<生体エネルギー論>の基盤にならねばならぬ。…生物を作りあげている化合物のふくむ化学エネルギーも、もし化合物たちが化学平衡にあれば、転用できない。けれども生物体は定常状態にあるシステムであって、その中では真の平衡にむかってたえず反応が進みつつある。…
…生物体が定常状態にあるシステムとすると、真の平衡との間隔を保ってゆくために、たえずエネルギーを補給する必要が生ずる。したがって生物体は筋や腺・運動その他の多様な活動をするためばかりでなく、定常状態を維持するためにも、エネルギーが必要ということになる。細胞や生物体が行なっているこの<仕事維持>の問題は、生物エネルギー論にとって基本的問題である。開放系の理論は、この問題に必要な原理を与えてくれる…
 生物の代謝の基本問題はその<自己調節>である。生きている生物体では全反応が、結果としてシステムを維持するようにおこっている。これが、生きている生物体と崩れゆく屍体との根本的な区別だ。…自己調節の主要特徴は開放系の一般特性から生ずる結果なのである」140-1頁

「長いこと、生物学は2つの大分野に分かれてきた。一つは生物の形態・構造の理論である。…いま一つは代謝・行動・形態形成の中において生命の特性的過程を研究する生理学。この2分野への分裂は、技術的方法論にも思考上の方法論にも関係があり、必然的なものだった。だが形態学と生理学はそれ自体としては単一な対象を研究するための違った、そして補足しあう二道なのである。
 <構造>と<機能>、<形態学>と<生理学>を対置することは、生物を静止的に把握するところからくる。…しかし生きている生物に対して既製の構造と、この結果としておこる過程とを分離するのは間違っている。生物はたえずつづく過程の表現であり、この過程はその基礎をなす構造や組織化された形態によって支えられている。形態学が、形態ならびに構造として確認するものは、実は時空的な現象の流れの一横断面なのだ。
 構造とは、私たち人間の尺度で測って長期にわたる緩慢な過程の波である。機能とは、これに対して短く急激な過程の波である。…
 生物体の姿は秩序ある現象の流れの中で維持されている。このばあい、いつでもすぐ下のシステムが交代する中で、より高次のシステムは固定しているように見える」142-3頁

「生物体の構造は静止的ではありえず、むしろ動的だと判断されねばならない。…
 生物体の巨視的構造に対しても、原理的には同じことである。巨視的構造のうちで最後までのこるのは、静止している構造ではなく、定常的過程の法則のほうだ。
 生物体を現象の流れの現われとして見ることから生まれる結論は、まことに深いものがある。それは《動的形態学》(フォン・ベルタランフィ)に導く。動的形態学とは、定常的法則によって支配される力の働きから、生物の形態を導きだそうというもので、このゆきかたによれば、代謝・生長および形態形成の領域を連合させうる。
 生物の根本の謎の一つは生長であり、生長できるという能力の中にこそ、人は生命の中心的な秘密をみてきた。…開放系として生物体を扱うというやりかたを使えば、正確な<生物生長の理論>を発展できるし、この理論は、生物の生長という基本現象に、説明と法則性を与えてくれる」144-5頁

「ドリーシュが生気論の証明とみなしたあの実験にもう一度たち帰れば、彼のウニの実験の注目すべき結果は、等結果性(Äquifinalität)の概念で説明される。エクウス(aequus)は等しいこと、フィニス(finis)は結果である。等結果的な現象とは違った初期条件・道すじを通って同じ最終目標に到着することである。ある種の例外を別とすれば、物理現象には等結果性はみられない。…等結果性は、生きているものの中でおこる現象の重要な基本特徴をなす。…
 開放系の行動を解析すると…閉鎖系は等結果的にふるまえないことがわかる。なぜ等結果性が無機の世界一般にみいだせないかの理由はここにある。これに対し、周囲と物質交代をする開放系では、システムが定常状態に達しているかぎり、この状態は初期条件と無関係、つまり等結果的である。等結果性は、定常状態に向いている開放系においては、現象の必然的、合法則的な帰結である。開放系の中では、止まることのない流入と流出、構成と崩壊がおきている。…最終の状態は初めの条件によるのではなく、いまいった関係を支配するシステムの条件によるだけなのである」150-1頁

「目的指向性は生命のきわだった特徴で、その本質は生気論的にしか説明できないと思われていたが、これも生物の特有なシステム状態からでてきた必然的な結果だ…つまり、開放系としての特性が生んだ結果なのである。
…見かけ上物理的法則性に反するため《生気論の論拠》とされてきた要素も、開放系の理論の中では、あざやかにでてくることが、ことに注目すべき点である。ドリーシュの《生気論の第1の論拠》であった等結果性は、開放系の現象として当然の結果なのである。代謝の自己調整や、無数の反応の相互作用で細胞が維持されたえず更新されることは、エンテレキー因子の導きだとばかり思いこまされてきた…のであったが…原理的には開放系の原理から了解できる。…シュレディンガーのいうごとく、生物体は、無秩序の原理から統計的に生ずるところの熱力学的法則性できまるシステムではありえない。…けれどシュレディンガーは、生物が《仕組み》だとか《時計仕掛け》だとか考えるだけでは不十分だということを、じつはよく感づいて[ママ]いた…ので、《原子の運動を監督する》『私』というものを持出すほかなかったのである」152頁

「エントロピー命題によると、現象は秩序の度合が下がるほうへと向かってゆくのであるが、生きているものの中では、より高度の秩序へと移行が行なわれている。そこでヴォルテレックは《非空間的な内的生命》の《指導衝動》をもちだす。これに対して開放系は、まったく新しい観点を提唱する。この種のシステムではエントロピーも無秩序性もともに極大になる必要はおこらず、熱力学的平衡によって過程が停止する必要もまたない。自発的な秩序、さらに秩序の高まりさえ、現われてよいのである。もう一つの要素としては、遺伝子や染色体が分割しながらも《そっくりもとのまま》でいるという、同型複写が問題となる。ドリーシュはこれが《第2の生気論の論拠》だと考えた。だがこの現象も、定常状態にあるシステムとしての生体の特性からみれば、もっともなことにすぎない。しまいに、ドリーシュの《第3の生気論の論拠》は《行動》と《反応の歴史的な基礎》にもとづいている。これも、神経系の活動を動的に解釈する…ことと結びつくところの、記憶のシステム理論…をもってすれば説明できそうである」153-4頁

「《全体は部分の総和以上である》、全体は部分に対して《新しい》特性と関係とを示すとの命題。存在の高次の段階は低次のものへ《還元され》うるかという問。これが《全体性的(synholistisch)》理論すべての核心をなす」155頁

「高次段階の特性と作用は、<分離して得た>成分の特性と作用をいくら寄せ集めても、説明できない。だが別々の成分の<総体>を知り、<成分の間になりたつ関係>を知れば、高次段階はその成分から導きだせる。
…個々の部分の条件をきめ、全システムの境界条件を規定すれば、全システム中の分配が《部分から》導きだせるのである。
…システムを知るには《部分》同様、部分の間になりたつ《関係》をも知らねばならぬことや、どのシステムも一つの《全体》であり《ゲシュタルト》…を表わしていることは、わかりきっている。このようなことが生物学分野で問題にもなり、必要な議論の緒にもなるのは、生物学がいわゆる機械論の仮定を誤って適用し、一方的に《部分》ばかりを気にして《部分の間の関係》をなおざりにしたからなのである。…
 いわゆる力学的世界像が物理学と生物学で基礎概念としていたのは、一度つくった一組の法則から自然現象がのこらず導きだせる、ということであった。ラプラスの理念がこれであった。…
…実在論の意味では、つぎのようにいえるのではなかろうか。どのシステムも<潜在的には>より高次の力を潜めているが、システムがもっと高次の構成にはいりこむときまったとき、はじめてこれが作用をおこす」156-8頁

「生物学での《メカニズム》…メカニズムの意味のうちで、はっきりしているのは《非生気論》ということだけだ。つまり自然科学の研究が近づきがたい、擬人的な感情移入でしか説明できない要因を、排除することであるが、この意味てのメカニズムは自然科学と同義だから、自然科学的生物学はどれも《メカニズム的》である。しかし、もっと精密な定義ということになると、考えかたがまちまちである。…
 私たちは正確な理論的定量的生物学の闘士をもって自ら任じていればこそ、《精密》科学の中で《法則》だとされているものが、世界のほんの一かけらにすぎないことを力説したい。…
 この意味で、生物学はけっして物理学に《解消》しない。生物学が《自律的科学》として、物理学と相対する地歩を占めることはいうまでもあるまい。この確言は《生物学的メカニズム》の問題の外側にあることで、メカニズム的考え方〔自体の可否〕を判断することはまったく別である。メカニズムの問題を判断することは、私たちがそれを《法則》の形で言明しうるところの、生きたものの分野における一般的な秩序の特徴に関係するのである」159-62頁→

(承前)「生物学はシステムや体制の法則を確立するという課題を生物の全段階を通じて課されている。これらの法則は二重のやり方で無生物のそれを越えている。
 I 生物的なものの中では無生物に比べて<より高次の秩序と体制の段階>がある。…
 II 生きたものの中の現象はとてもこみいっているのであるから<全体としての生物システムに関係する法則>を扱うには、物理=化学的な個々の過程ではなく、生物学的次元の大きさをもった単位と変数を用いねばならない。…今日の生物学でかなり広く用いられており、ゆくゆくは発達して生物学を正確な理論構造につくりかえるだろうところの…法則は《物理学的》ではない。なぜならこれらの法則は、生物学分野だけに現われる単位に関するものであるから。だが、領域が十分すすめば、論理的に物理学のどの分野とも同じような構造をもった理論システムができあがることになる」162-4頁

「解析的な見方と、全体としての見方とはある種の相補性を示す。私たちは、生体中の個々の過程をつかみだして、これを物理=化学的に定義できるが、こうすると、生体はひどく複雑であるために全体からは遠ざかってしまう。あるいは、別に生物学的なシステム全体に対する法則性をうちたてることもできるが、その時には個別のことを物理=化学的に決定するほうはあきらめねばならない。
 第1のやりかたは、生化学・生物物理学および生理学の常套である。だが経験によるとこのやりかたは、まさに生命独自の《活きた》特徴から遠ざかるように思われる。…物理=化学的現象を調節的因子で補おうとする…生気論がかった見方に対して、むしろ正道な透過性のシステム理論…をとるべきではあるまいか。…解析的なやりかたは、生物システムの全体性からおこる別種の考察方法で補われる必要がいつもある」164-6頁

「生物学の法則は、物理・化学の法則をただあてはめただけのものではなく、ここには独自の法則領域がある。これは、生きたものの中で生気論的な力が活躍しているなどという、二元論ではない。しかし、生物学の法則領域は物理学の法則よりも、さらに高次であるように思われるのであって…またさらに複雑な第3段階としては社会学の領域がある」166頁

「第2の問題は、生物学の法則性が結局は物理学へと《還元され》うるかというのであった。…結局は物理の法則界と生物学の法則界に統一が将来いつか生まれるだろうことは、ほとんど疑う余地もない。なぜなら、以前離れていた分野が総括されるのは、論理的にいっても科学の発展の一般的な特徴だからである。…だが一方基本的にはそうであっても、さしあたり生物学段階の法則性を、それ自体として確立する必要がなくなってしまうわけではない。…
…生物学の本質的な問題の多くは、量的な大きさの問題とはかぎらない《型》であり、《位置》であり、《形態》でもある。
 たとえば生物体の階層構造において…興味をひくのは定量的関係ではなく、上位と下位・集中化等の関係である。…
…問題が定量的性質のものではなくて、秩序関係・位置関係を取り扱っている。
…生物学の《機械論》は物理的自然法則の目録を、はじめから決定版だときめてかかったので、生命現象を説明するさいにも、この目録だけをただ間違いなく適用しなければならなかった。だが、実はそんな目録などありはしないのであって、物理学の概念システムに思考手段のどんな拡張が必要であるか、両分野の総合ができないうちは何ともいえない」166-70頁

「自然についての学説はどれでも、その学説に数学がどのぐらい含まれているかによって真の科学たる程度がわかる、というカントの命題は…正しい。…未来の生物学の法則系が、どんなふうなものかはわからない。そこには今日ぼんやりと予期されはじめたくらいでしかない生物構造の法則も含まれるかもしれない。だが、これらのことがどうあるにもせよ、未来の生物学の法則系は論理的演繹という性格をもちそれゆえ《数学》を含み、したがってまた形式的に物理学と同性質のものであるだろう」171頁

「生体はむろん思いも及ばぬ多数の原子や分子からできていて、その桁は100万の4乗(1兆の1兆倍)に達する。だから物質交代・生長・形態形成・大多数の刺激現象等、生物現象の多くのものには古典物理学の決定論的法則があてはまるのももっともなのである。
 だが、生物現象のうちにはこの例外となるものがある。著者は『物理学における大変革が生物学に対してどんな意義をもつか』について、はじめて疑問を投げかけた一人であった。…1932年には著者は次のように述べている——『生体中では、微視的な物理事象が、システムのさらに広い領域にゆきわたっていく結果、物理的・統計的確率が破られる可能性のあることを心に留めておかねばならない』と。この着想はパスキュアル・ヨルダンの手で《生体の増幅理論》として作りあげられた。遺伝のような調節中心でおきた微視物理的事件は、生体中で増幅されて巨視的な影響を表わすという」174-5頁

「物理的非決定性と意志の自由という、まったく別平面にある問題を並べて置こうとする試みがしばしばあるが、これは警戒されねばならない。…物理的因果性がほっておいた隙間に自由な意志がくい込むというような仮定は、エンテレキーが物質的現象を統御するという生気論の考えかたと軌を一にしている。私たちは、生体の中でエンテレキーなど働いていないことを直接証明してみせて、生気論に反対するわけにはゆかない。そのわけは、生体についてラプラス流の予見をするわけにはゆかないし、また古典決定論を仮定しようにも生体の物理的構成を十分あきらかにはできないから、私たちの知識の間隙に生気論的要因が《侵害》してくる可能性は、たえず残っているからである」177-8頁

「有機体論が実際に目ざすところは消極的であいまいな未来への予言よりはるかに本質的なもの、すなわち、現在のための積極的な研究計画である。いままでやられたことはほとんど生体中の過程の物理=化学的説明ばかりだったが、これでは生体の秩序の法則性を認識する役にはたたない。生体の法則性こそが、生体中の過程を生命の過程たらしめるのであり、これまで《機械論》生物学がほとんど眼中に置かなかった有機体のシステム法則を発見することが、生物学の根本の宿題なのである」179頁

「生物学的なものも含めて世界のあらゆる現象は、物理的最終単位や、それらの間になり立つ自然法則として働く力できまるのだろうか。あるいはまた、生きたものの領域ではその他に、結局は霊魂的な性質の実在要素があって、これが最後の粒子の運動に支配的な影響をおよぼすのだろうかという形而上学の問題がある。この質問に意味を認めることはできない。…《自然法則》とは因果的に働くにせよ、目的的に働くにせよどちらでもいいが、とにかく擬人的な力が支配することではあるまい。ここに擬人的というのは、因果的というばあいには私がある物体に与える衝撃などを範にとるということ、目的的というばあいには私たち自身の目的をめざしての行為を手本にする、ということだ。…形而上学的機械論と生気論の対立は、見かけの問題だ。なぜならばこの対立が仮定する二元論、すなわち形而上学的実在だときめられた生命のない物質と、たえず物質を支配する霊魂との二元論は、今日もはや通用せぬような物理学的世界像に基づいていたのだからである」179-80頁→

(承前)「有機体論は機械論対生気論の問題を解決することにはならない、としばしばいわれる。なるほど有機体論は、ふつういわれる代案と同列に置けるものではないかもしれない。生命現象を物理・化学に還元したがる《機械論者》には、物理=化学を越える法則とかパターンに言及することは話を混乱させるものと映る。《生気論者》の方では、そういう固有法則性は機械論的なものだと考える。なぜなら、その法則性は物理=化学的法則性の仲間であって、形式的にはなんら違わないからである。だが実のところ有機体論の本質は、機械論と生気論の対立をもっと高いところで克服するところにあった[😅]。生命固有の法則性を機械論者はしりぞけ、生気論者はその法則性が自然科学の手には負えないというが、有機体論は、生物に固有な法則性が自然科学的に探求できる問題だという立場をとるのである。
 かくして方法論的に新しい立場が生まれる。有機体論の方法は生物システム全体に対して正確に定式化しうるような法則性をさがすことである」

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