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(承前)「こうして私たちは還元主義と対照的な一つの概念、すなわち遠近法主義(perspectivism)とでも呼ぶべきものに達する。生物的、行動的、社会的レベルのものを最低次のレベルである物理学の構成と法則のレベルに還元することはできない。けれども個々のレベル内での構成と可能な法則を見いだすことはできる。世界はオルダス・ハクスリーがかつて指摘したように、ナポリ風アイスクリーム[三色アイス]のようなもので、チョコレート、イチゴ、バニラの層がそれぞれ、物理的、生物的、社会的および精神的レベルを現わしている。イチゴはチョコレートに還元できない——私たちがせいぜい言えることは、せんじつめていくとたぶんすべてはバニラであること、すべては心あるいは精神であるということだろう[😅]。統一原理は、私たちがすべてのレベルにオーガニゼーションを見いだすことである。…世界を大きなオーガニゼーションとみるモデルは、おそらく、最近数十年の血なまぐさい人類史のなかでほとんど見失われてしまった生命への尊敬の気持を回復するのに役立つことだろう」😅 45-6頁

「ある要素の総和的特性とは、複合体の内にあっても外にあっても同じであるような特性であるともいうことができる。したがってそれらはばらばらにしたとき知られる個々の要素の特性とふるまいを全部たし合わせることによって得られる。構成的特性とは、複合体内部での特定の関係に依存するようなものである。したがってそういう特性を理解するためには、部分だけでなく関係も知らなければならない」50頁

「いくぶん神秘的な表現で『全体は部分の総和以上のものだ』などというがその意味は要するに、構成的特性は、それゆえ、要素のそれと比べると『新しい』ものもしくは『創発的な』もののようにみえる。…総和というものは次第次第に作られていくものと考えることができるけれども、相互関係を有する部分の総体としてのシステムはいちどきに作られるものとしてみなければならないのだと。
 物理学などでは、こんなことをいってもはじまらないと思われるかもしれないが、生物学や心理学や社会学ではこれが問題となりうるし、概念の混乱をひきおこしてもいるのだ。それというのもまさしく機械論的な考え方、すなわち現象を独立の要素と因果連鎖に分解して相互関係は省みない傾向のもつ誤まりのゆえである」51頁

「システムとは相互に作用する要素の複合体と規定できる。相互作用とは要素pが関係Rにおいて存在すること、したがってRの中での一つの要素pのふるまいが別の関係R’の中でのそのふるまいと異なることを意味する。もしRとR’の中でのふるまいにちがいがなければ相互作用はなく、その要素は関係RおよびR’に関して独立にふるまう」51頁

「ヴォルテラの方程式で興味ある結果は、同一資源をめぐる二種の生物の競争のほうが、ある意味では捕食者ー被食者関係(食う食われるの関係)——つまり他方の種による一方の種の部分的滅亡——よりもずっと致命的である点だ。競争は最終的には、生長能力が小さいほうの種の絶滅をもたらす。食う食われるの関係ならば、ただ関係する種の個体数が平均値を中心として周期的に振動するだけである。こうした関係は生物共同体のシステムについて述べたものだけれども、社会学的な意味も充分持つといえるのではなかろうか」60-1頁

「『システム』といえば『全体』とか『統一体』を意味する。そうすると、全体に関してその部分間の競争というような概念を導入することは矛盾するように思われる。けれども実際には、この明らかに相反する命題はともにシステムの本質に根ざしている。あらゆる全体はその要素の競争を基礎としてその上になりたっており、『部分間の競争』(Roux)を前提としている。部分間の競争ということは、単純な物理ー化学システムにも生物や社会的単位にも見られるオーガニゼーションの一般原理であり、結局それは実在が示す<反対物の一致>の一表現なのである」61頁

「総和性を定義すれば最初ばらばらな要素を次々につけ加えることによって複合体を作り上げることができるようなもの、といえよう。逆に、この複合体の特性はばらばらの要素のそれへと完全に分析できるようなものだといって定義できよう。…しかしドイツ語で『ゲシュタルト』と呼ばれるようなシステムには当てはまらない」62頁

「ラッセル卿の本…には『有機体の概念』の拒否を示すやや驚くべき言明を見いだす。…『どんな場合にでも作業仮説としては機械論的見解を採用するのが賢明であって、それに明らかに反するような証拠があるときにのみそれを棄てるのがよい。生物学的な現象についていえば、そのような証拠は、これまでのところまったくない』…
…だがまさしく基本的で第一義的な生物現象に関しては、ラッセルのいっていることは根底から誤っている。胚の発生、代謝、生長、神経系の働き、生物共同体など、どの生物現象の領域でもよいからとりあげてみれば、つねに見いだされるのは、システムの中にあるときと切り離されたときでは要素のふるまいが異なっていることだ。全体のふるまいをばらばらの部分からたし合わせて作ることはできないし、部分のふるまいを理解するにはいろいろな下位システムと上位にあるシステムの関係を考慮に入れなければならない。分析と人為的隔離は生物学的実験と推論の方法として有用である。しかしけっして十分ではない」62-3頁

「物理学的システムではあまりないことだが生物学的、心理学的、社会学的システムでは普通でかつ基本的なもののようにみえる場合がある。それは要素間の相互作用が時間とともに減少していく場合である。…
 この場合にはシステムが全体性をもった状態から各要素が相互に独立の状態へ移ってゆく。最初の状態は統一的なシステムのそれだがこれが次第にたがいに独立な因果連鎖に分裂してゆく。<前進的分離>と呼んでよいであろう。
 原則として、原子とか分子とか結晶とかの物理学的全体のオーガニゼーションは、以前から存在した要素の結合の結果としてできあがる。これに対して生物学的全体のオーガニゼーションは、もとの全体の分化によって作りあげられ、全体が部分に分裂していく。…
 生物界で分離化が優位を占めている理由は、下位の部分システムの分裂化がシステムの複雑性を増すことになるからであるようにみえる。そのようないっそう高度の秩序への移行にはエネルギーの供給が前提となり、エネルキーがシステムへとたえず渡されるのはそれが開放システムであってエネルギーを環境からとりこむときに限る」63-4頁

「全体性を保った状態にあるときには、システムが攪乱をうけると新しい平衡状態が作られることになる。けれども、もしシステムが個々の因果連鎖に分割されていると、それらは他と独立に動いていくだろう。機械化の増加が意味するところは、要素が次第に自分自身にだけ依存して働くようになることで、その結果、全体としてのシステムでならば相互関係の存在にもとづいてひきつづき存在していたはずの調節能力が失なわれていく。相互作用係数が小さくなるほど、各Qi項が無視できるようになり、システムはより『機械に似た』もの——つまり相互に独立な部分の総和に似たものになる。
 この事実は『前進的機械化』と名づけてもよいと思うが、生物学で重要な役割を演ずる。最初のものは、システム内部の相互作用から生じるふるまいであろう。第二に、各要素はそれらのみに依存する作用に限定されてきて、全体としてのふるまいから総和的ふるまいへの移行がおこる」64頁

「けれども機械化は生物学的領域ではけっして完全なところまでは進まない。生物体は部分的には機械化されていても、それはまだやはり統一的な単位体としてのシステムなのだ。これが調節の基礎であり、環境の変化する要求と相互作用しあうことの基礎である。同様なことは社会的構造についてもいえる。原始社会ではどの構成員もめいめい、全体との関連で期待されることをほとんどなんでもやることができる。ところが高度に分化した社会になると、それぞれの構成員は特定の仕事もしくは仕事群をするように定められている。極端なのはある種の昆虫の社会の場合で、そこでの個体は、いわば特定の仕事のために決定された機械に変わりはてている」64頁

この辺り、どうも論理が混濁しているように思われますが

「生物学的、心理学的および社会学的進化での悲劇的緊張はいずれも、全体性と総和性とのこの対照のなかにある。進歩はただ、未分化の全体性の状態から部分の分化へと移行することによってのみ可能である。けれどもこのことは、部分がある一定の作用に固定されることを意味する。したがって前進的分離はまた前進的機械化をも意味する。ところが前進的機械化とは調節能力を失うことを意味する。システムが単位的な全体である限りは、ちょっとした攪乱があってもシステム内の相互作用によってふたたび新たな定常状態に達するであろう。システムは自己調節的なのだ。けれども、もしシステムが独立な因果連鎖に分割されてしまうと、調節能力は消失する。各部分の過程はたがいに無関係に進むことになる。これがたとえば胚発生のうちに見いだされるふるまいであって、決定は調節能力の減少と伴いあって進んでいく」64-5頁

「進歩はただ、初め一つの全体的単位的であった作用をいくつかの特殊部分の作用に小さく分割することによってのみ可能である。けれどもこのことは同時に未決定状態でも力の弱まり、機能の喪失がありうることを意味する。より多数の部分が一定の仕方で特殊化されるほど、それらは交換不可能になって、部分の損耗がシステム全体の崩壊を導くことがある。アリストテレス流の言葉でいうと、あらゆる進化はいくつかの可能性を開くことによって他の多くの可能性の芽を摘みとってしまう。私たちはこのことを胚発生にも系統発生での特殊化にも科学や日常生活の専門化のなかでも見いだすことができよう。
 全体としてのふるまいと総和的なふるまい、全体的な考えと要素主義的な考えはふつう対立するものとみなされている。しかしそれらの間に対立がなく、全体としてのふるまいから総和的なふるまいへ次第に移行するようなことがしばしばある」65頁

「集中化の原理は生物学領域でとりわけ重要である。前進的分離はしばしば前進的集中化と結びついており、その現われが主導的部分の時間的進化…である。同時にまた前進的集中化の原理は前進的個体化の原理でもある。『個体(不可分体)』とは集中化されたシステムであると定義できる。厳密にいうならばこれは生物学領域では、個体発生的および系統発生的にそこに近づくことのみできる一つの極限の場合であって、生物体は前進的集中化を通じていっそう統一的で『いっそう分かちがたい』ものに生長していくのである。
…生物学的な観点からは、前進的機械化と集中化を強調したい。初めの状態はシステムのふるまいが等能的な部分の相互作用の結果として生ずるような状態である。それが次第に、優勢な部分の指導下におかれるようになってくる。たとえば発生学では、これらの優勢な部分をオーガナイザーと呼ぶ(Spemann)。中枢神経系でも各部分は最初は下等動物の散在神経系におけるのと同じようにだいたい等能的である。しかし後になると神経系の主導中心に従うようになってくる」66頁→

「このようにして、前進的機械化と同様に前進的集中化の原理が生物学の中に見いだされ、これを象徴するのは、主導部分が時間とともに形成されてゆくこと…である。この見方は、重要だが簡単には定義できない個体の概念に光を当てる。『個体(individual)』とは『分けられぬもの』の意味である。…進化の尺度を登っていくと集中化の増大が見られる。行動は同等な位階(ランク)にある部分的機構が合成されたものではなくなり、神経系の最高中心中枢によって統一支配される…
 こうしてみると厳密にいえば生物学的個体性などというものはなくて、ただ進化と発生における前進的個体化のみがあり、これは前進的集中化、すなわち一定の部分が主導的な役割を得て全体のふるまいを決定するということからくるものなのだ。かくして前進的集中化の原理は<前進的個体化>をも含んでいる。個体とは一つの集中システムとして定義されるべきものであり、これは実は発生と進化の中で生物体が次第に統一的な『不可分』なも[ママ]になっていく道程の一つの極限である。…同じことは社会学の領域にもあてはまる。ただの群衆の集まりには『個体性』がない。一つの社会構造が他と区別されるためには、一定の個体のまわりでのグループ形成が必要である」66-7頁

「前進的機械化と前進的集中化の原理を無視することからしばしばにせの問題がたてられてきた。それは、独立で総和的な要素という極限の場合か、さもなければ等価な要素の完全な相互作用しか認めず、生物学的に重要な中間の状態を無視してしまうからである。このことは『遺伝子』と『神経中枢』の問題と関連して重要である。古典遺伝学は(近代遺伝学はいざしらず)遺伝物質を個々の形質や器官を決定する微粒子単位の総和と考える傾向があった。巨大分子の総和では生物体の有機化された全体性を作りだせないという反対は当然である。正しい答は全体してのゲノムが全体としての生物体を作りだし、しかもなお一定の遺伝子が一定の形質の発達の方向を決定すること——いいかえれば『主導部分』として働くことである。このことは、どの一個の遺伝形質も多くの遺伝子、おそらくすべての遺伝子の協同の働きで決まる、そうしてどの一個の遺伝子も単一の形質ではなく多くの形質、おそらく生物体全体に影響を与えるという洞察の中に表現される(形質の多遺伝子性(polygeny)および遺伝子の多表現性(polypheny))」68頁

「生物学者はしばしば、こういう[目的論的な]公式を何かいかがわしいものとみなす。それは隠れた生気論を恐れるせいか、あるいはこういう目的論や目的指向性を生気論の『証拠』と考えるからであった。それというのも無生物的自然ではそうでもないが生物的自然に関しては、目的論的過程と、人間が目標を予見することを私たちは比較しがちなのだ」71頁

「生物的調節には[ホメオスタシスとは]もう一つ別の基礎がある。それは等結果性、すなわち異なった初期条件と異なった仕方から同一の最終状態に達しうるということだ。このことは開放システムならば定常状態に達するものであるかぎり、すべてに見られることである。生物的システムの根本的な調節可能性は等結果性にもとづくもののようである——つまり、あらかじめ決定された構造や機構にもとづくのてはなく、むしろ逆にそういう機構を排除するような、そしてそれがため生気論の論拠となったような調節はすべてそのようにみることができる」73頁

「生物的構造の適応…はおそらくランダムな突然変異と自然淘汰の因果的働きによって説明できよう。けれども、この説明はあのきわめて複雑な生物的機構とフィードバック・システム…の起源に関してはよほど疑わしい。生気論は要するに、生物の目標指向性…を到達点の予見の知恵…によって説明しようとの試みである。これは、方法論として自然科学の枠を越えたところにでてしまい、経験的にも正当化できないものだ。…等結果性やアナモルフォジスのように『生気論の証拠』とされた現象の重要な部分は、開放システムとしての生物体の特徴的な状態からくる当然の結果であって、したがって科学的な解釈と理論で扱えるはずのものである」73-4頁

「一般システム理論はさらに科学での重要な調整の道具となるべきものだ。異なる分野に同一の構造をもつ法則が在存[ママ]すれば、複雑な扱いがたい現象に対して、より簡単あるいはよりよくわかっているモデルを使うことが可能になる。したがって一般システム理論は、方法論的にいって、異なる分野間で原理の受け渡しを制御したり促したりするのに重要な手段となるべきものであって、これによってたがいに孤立した各分野で同一の原理の発見を二重にも三重にも繰りかえす必要がもはやなくなるであろう」74頁

「共通の起源から出発して独立に発展していく並行進化の現象の中には興味深い類似性があることを知る——ある場合にはそれは民族の言語の独立の進化であったり、ある場合には哺乳動物の一定の綱の中のグループの独立の進化であったりする」75頁
文化進化論の先駆みたいな…

「純粋に形式的な『システム』の定義から、いろいろな科学分野でよく知られた法則に一部分表現されていたり、また一部分はこれまで擬人的だとか生気論的だとかされてきた概念に関する多くの性質が導きだされてくる。したがって、いろいろな分野での一般的概念の並行性やさらに特殊法則の並行性さえも、これらが『システム』に関連しているということと、ある種の一般原理はどんな性質のシステムにもその本性の如何にかかわらず適用できるということからくる当然の結果であることになる。かくして全体性と総和、機械化、階層的秩序、定常状態への接近、等結果性などの原理がまったく異なった分野に現われる場合がある。異なった領域に見いだされる同形性は、一般的なシステムの諸原理の存在、多少とも十分に発達した『一般システム理論』の存在にもとづくものである」77-8頁

「当面の考究の関心は論理的相同にある。私たちはこれを次のようにいい表わすことができよう。もし対象が一つのシステムであるならば、それは他の点ではどんなものであるにもせよその如何にかかわらず、一定の一般的なシステム特性はもたねばならない。論理的相同は科学における同形性を可能とするだけでなく、概念モデルとして現象の正しい考察と最終的な説明のための道具を与える力をもっている」78頁

「システム特性の相同は、ある領域を他の低次の領域へ還元することを意味するのではない。しかしそれはまた、単なる変形や類推でもない。むしろそれは、『システム』をなしていると見なしうるかぎり、どんな種類の実在の中にも見いだされる形式的な対応なのである」79頁

「一般的なシステム原理の解析によって、これまでしばしば擬人的、形而上学的、あるいは生気論的と考えられてきた多くの概念が厳密な定式化に耐えることが示される。それらはシステムの定義あるいはある種のシステム条件から導きだされてくる結果である」79頁

「私たちは、実在のいろいろに異なったレベルあるいは層に対して科学法則をうちたてることは、たしかにできる。そうしてここに私たちは、『形式的様態』(Carnap)でいうならば、科学の統一性ということがあるとしたときの、異なった分野における法則と概念図式との対応もしくは同形性を見るのである。『実体的な』」言語でいえば、これは世界(すなわち、観察することができる現象の総体)が構造の一様性を示していて、いろいろに異なるレベルや領域において秩序の同形的な痕跡によって自らを顕現している、ということを意味する。
 実在は、近来のとらえ方では、オーガナイズされた実体の巨大な階層的秩序とみられるのであって、その結果、物理学的および化学的システムから生物学的および社会学的システムにわたる複数のレベルが重なりあうことになる。『科学の統一性』が当然とされるのは、あらゆる科学が物理学および化学へとユートピア的に還元されることによるのではなく、実在の異なったレベルが構造の一様性をもつことによるのである」81頁

「とくに自然科学と社会科学、あるいはもっと表現にとんだドイツ語の術語を使えば『自然の学問と精神の学問』(Natur- und Geisteswissenschaften)のギャップは、後者が生物学的概念へ還元されるとの意味ではなしに、構造上の類似性の意味において非常に小さくなる。これが、対応しあう一般見解と考えが両分野どちらにも出現する理由であって、最終的には後者における法則の体系の確立につながっていくかもしれない」81頁

「物理学的現象を実在の唯一の標準と考える態度は、人間を機械化し、高次の諸価値を正当に評価しない結果を導いた。…機械論的見解を投げすてた後には、私たちは『生物学主義』にすべりこまないように、つまり心的、社会的、文化的現象をただ生物学的立場からのみ考えることのないように用心しなければならない。…有機体論の考え方は、生物学〔主義〕的考えの一方的な優位を意味するものではない。異なるいろいろのレベルに一般的な構造の同形性があると強調するとき、それは同時に、レベルごとに自律があり特異的な法則をもつことをも主張しているのだ。
 私たちは、一般システム理論の将来の展開が科学の一体化をめざす大きなステップとなると信じている。それは将来の科学において、アリストテレスの論理学が古代の科学で果たしたのと似た役割を果たすことになることもあろう。…現代の科学では、動的な交互作用が実在のあらゆる分野で中心課題になっているようにみえる。その一般原理は、システム理論によって定義されるべきはずのものである」82頁

「40年ほど前、私が科学者としての生活を始めたとき、生物学は機械論ー生気論論争のさなかにあった。…こういう状況の中で、私その他の人々はいわゆる有機体論の見方に導かれていった。一個の短い文章でいうならば、それは生物体はオーガナイズされたものであって、私たちは生物学者として、それがどんなことであるのか発見しなければならない、ということである。…この方向の一ステップがいわゆる開放システムと定常状態の理論で、これは本質的には在来の物理化学、反応速度論および熱力学の拡張である。けれども一度とった道を途中で止まることはできないように思われたので、私はさらに広い一般化まで導かれることになり、これを私は『一般システム理論』と呼んだ。この考えはかなり以前にさかのぼる。それを最初に提出したのは1937年、シカゴ大学で行なわれたチャールズ・モリスの哲学セミナーにおいてである。けれどもその当時、理論なるものの評判は生物学では悪かった。…それで私は草稿を引出しにしまいこみ、この問題に関する私の最初の出版はようやく戦後のことであった」88-9頁

「狭い意味での一般システム理論(GST)、これは交互に作用する要素の複合体としての『システム』の一般的規定から、相互作用、総和、機械化、集中化、競争、等結果性など、オーガナイズされた全体物の特徴的であるような概念をひきだし、それらを具体的な現象に応用することを試みる。
 広い意味でのシステム理論は基礎科学の性格をもっている一方、応用科学にもその関連物をもっていて、それは時に『システム科学』という一般名の下に包括される」89頁

「物理学それ自体の発展によって、物理学主義的また還元主義的テーゼは問題をはらむようになり、形而上学的偏見のようにさえみえてきた。物理学が語る実体——原子だとか素粒子だとか——は以前に考えられてきたよりもはるかにはっきりしないものであることがわかった。…その一方、生物、行動、社会諸科学がひとりだちのものとなった。一面ではこれらの科学への関心の高まりと、また新しい技術からの要請によって、<科学的概念の一般化>とモデルが必要になり始め、その結果、物理学の伝統的な体系を越えた新しい分野が現われる結果となった」90-1頁

「生物を観察すれば、驚くべき秩序、オーガニゼーション、連続変化の中での維持、調節、また見かけ上の合目的性が認められる。同様に人間の行動の中にも目標指向性と合目的性を見すごすことはできないのであって、たとえ厳格に行動主義的な立場を受容するにしてもそういえるのだ。けれどもオーガニゼーションとか目標指向性とか合目的性とかの概念はまさしく古典科学の体系には現われないものなのだ。実際問題として、古典物理学に基礎をおいたいわゆる機械論的世界観の中では、それらは架空のものか形而上学的なものと考えられた。このことは、たとえば生物学者にとっては、生きた自然のまさに特徴をなす諸問題が科学の正当な分野を越えたところにあるように思われることを意味する。多変量間の相互作用、オーガニゼーション、自己維持、目標指向性等々の側面を表現できるモデル——概念的な、またある場合には物質的でさえあるモデル——の出現は、科学的思考と研究の中へ<新しいカテゴリーを導入すること>を暗に意味する。…
…現代物理学と生物学では、<オーガナイズされた複雑性の問題>、すなわち多数ではあるが無限数ではない変数間の相互作用がいたるところに顔をだし、新しい概念道具を要求している」91-2頁

「科学を拡張して、物理学の中では置きざりにされ、生物、行動ならびに社会科学的現象の特徴的な性質には関係しているような側面を扱うことが必要とされていると思われる。これが、導入されるべき<新しい概念モデル>にほかならない。
…これらの拡張され一般化された理論的な構造あるいはモデルは、学際的なものである——すなわち科学の在来の区分を越えたものであり、いろいろちがう分野の現象に応用できるものである。その結果、いろいろの分野に現われるモデルと一般原理と、特殊法則さえにも同形性が見られることになる。
 要約すると、生物、行動および社会の諸科学と現代工学との内容は、科学における基本概念の一般化を必須のものとしている。これは伝統的物理学でのカテゴリーと対比しての新しい科学思想のカテゴリーを意味している。またそのような目的で導入されたモデルは、学際的な性質を帯びている。
…『全体性』と『オーガニゼーション』の一個の理論へと向かう現在のさまざまなアプローチは統合され統一されることになるかもしれない。じっさい、たとえば不可逆熱力学と情報理論のあいだでのいっそうの総合化というようなことは、ゆっくりと発展しはじめているのだ」92-3頁

「要するに私たちの見解は『ホメオスタシス原理を越えて』とでも定義できよう。
 (1) S-R図式は遊びとか探検活動とか創造性、自己認識、等々の領域を見のがす。
 (2) 経済的な図式はまさに人間特有の達成——漠然と『人間的文化』といわれるものの大部分——を見のがす。
 (3) 平衡原理は、心理的および行動的な活動は緊張の緩和以上のものであるという事実を見のがす。緊張の緩和は最適状態どころか、たとえば知覚をうばう実験の場合などは精神病に近い攪乱を招くこともあるのだ。
 S-R モデルや精神分析モデルは人間の本性の実際と非常にかけ離れた像であり、したがって、かなり危険なもののように思われる。私たちが人類特有の達成と考えるまさしくそのようなものは、功用主義[ママ]、ホメオスタシス、また刺激ー反応の図式のもとには、ほとんどもちきたすことができないものなのだ。…もしホメオスタシス的維持の原理が行動の黄金律だとしたら、最終的な目標はいわゆるうまく順応した個人、つまり最適な生物学的、心理学的、社会学的ホメオスタシスに自らを維持するよく油のきいたロボットということになろう」106頁

「私たちは多くの生物学的、人間的行動は効用とかホメオスタシスとか刺激ー反応とか原理を越えたものであること、そしてそれが実に人間の文化活動に特徴的なものであるという考えにいたるわけである。…
…行動とは単に生物学的衝動を満たし、心理的、社会的平衡を維持することではなく、何かそれ以上のものを含んでいる…心身的な生物体の自発活動性と曖昧に呼んでいる原理は実存主義者がしばしば空虚な言葉を使って言いたいと欲していることを、より現実的に定式化したものである」107頁

「現代のシステム理論の光に照らせば、総体論的か分子論的か、法則定立的か個別記載的かというアプローチの二者択一に厳密な意味を与えることができる。集団〔群衆〕の動きに対してはシステム法則をあてはめることができて、それはもし数学化されうるならば…リチャードソンの用いたような微分方程式の形をとるだろう…これに対して個人の自由選択は、ゲームの理論や決定の理論の定式によって記述できるものであろう」113頁

「『合理性の原理』は大部分の人間的行為よりもむしろ動物の『合理性のない』行動にこそ当てはまる。動物や一般に生物体は『擬合理的(ratiomorphic)』に機能して、維持、満足、生存、等々のような価値を最大にする。一般に彼らは、自分にとって生物学的に良いものを選び、有用さ(たとえば食物)の少ないほうより多いほうをとる。
 これに対して人間の行動は、合理性の原理からだけではとても説明しきれない。人間において合理的行動の占める範囲がいかに小さいかを示すには、フロイトを引くまでもない。…すべての可能性と帰結をひとわたり調べるという合理的選択などしていない。…私たちの社会では、選択を不合理に<させる>のが、有力な一群の専門家たち——宣伝屋、動機研究家、等々——の仕事になっているが…これは本質的には、生物学的諸因子——条件反射、無意識衝動——をシンボル的な価値と結びつけることによってなされるのである」114頁

「文明が『有機体』でないことは生物学者がいちばんよく知っているだろう。生物学でいう有機体(生物体)は、時間と空間のうちにある一つの物質的実体であり統一体であって、別々に分かれた個体から構成されている社会的グループとはちがうものであり、幾世代もの人間と物質的生産物と制度と思想と価値などとから構成されている文明とはなおさら異なるものである」115頁

「製造会社、都市化、労働の分化などのような社会的なものに単純な生長法則が当てはまるという事実は、これらの点では『生物アナロジー』が正しいことを示している。歴史学者たちの抵抗があるにもかかわらず、理論的モデル、特に動力学的な開放および適応システムのモデルを歴史的過程に当てはめることは…たしかに意味のあることである。これは『生物学主義』、つまり社会学的なものを生物学的概念に還元することを意味するのではなく、両方の分野にシステム原理が適用できることを示すものである」116頁

フォロー

「遺伝的調節に関するある種の実験は、遺伝の基礎にそのようなオーガニゼーションが存在することを示している。そうした効果は進化の巨視的な法則においても研究されるべきものであろう…私はそれゆえ現在一般に受けいれられている『進化の総合理論』はせいぜい部分的な真理であって、完全な理論ではないと信じている。さらに生物学的研究を積み重ねること以外に、開放システムの理論やそれの現在の境界線上の問題の中で、物理学的考察がとりいれられなければならない」148頁

「これまで支配的であった自然の機械論的な概念は、物事を線形(一直線)の因果連鎖に分解すること、世界を機械的事象と物理学的またダーウィン的な『サイコロ遊び』(Einstein)の結果と考えること、生物学的過程を無生物的自然から知られた法則に還元することを強調してきた。これに対して開放システムの理論(および一般システム理論としてそれがさらに一般化されたもの)では、多変数相互作用の原理(たとえば不可逆熱力学における反応速度論や流束や力)が浮かびあがってくる。それは過程の動的なオーガニゼーションということであり、また生物学領域の考察のもとで物理学法則を拡張していく可能性があるということである。それゆえこうした展開は、新しい科学的な世界観定立の一部分をなすものである」😅 149頁

「<開放システムと定常状態>
 現代の代謝と生長に関する研究ならばどれも、生物体およびその成分がいわゆる開放システムであること、すなわち環境とたえず物質交換をする中でみずからを維持しているシステムであることを考えに入れなければならない…その本質的な点は開放システムが在来の物理化学の限界を、その二つの主分野である反応速度論と熱力学において越えていることにある。言いかえると在来の反応速度論と熱力学は生物体内の過程の多くのものには適用されない。生物物理学——生物体への物理学の応用——にとって、理論の拡張が必要である」151頁

「細胞と生物体はいわゆる定常状態(流動平衡Fliessgleichgewicht, von Bertalanffy)の中でほぼ一定に保たれる。これが生物システムの一つの根本的な神秘である[😅]。代謝、生長、発生、自己調節、増殖、刺激ー反応、自律的な活動などのような他のすべての特徴は結局のところこの基本的な事実からの結果である。生物体が開放システムであることは今や生物システムのもっとも基本的な規準の一つとして、すくなくともドイツの科学に関するかぎり、認められている…
…合衆国の生物物理学や生理学では同じようにいえないのは残念である。私は代表的なアメリカの教科書をのぞいてみたが、『開放システム』とか『定常状態』とか『不可逆熱力学』という言葉さえ見つからずむだであった。これはつまり、生物システムを普通の無機的なそれから根本的に区別するまさにその規準が一般に無視され、もしくはすり抜けられているということである」😅 152-3頁

「閉鎖システムが最後には時間に依存しない化学的、熱力学的平衡に<かならず>到達するのに対して、開放システムは一定条件下では、時間に依存しない定常状態と呼ばれる状態に到達する<ことがある>。20年ほど前に私が導入した言葉を使えば、流動平衡に到達することがある。定常状態では、たえず成分が交代していてもシステムの組成は一定のままである。定常状態あるいは流動平衡は等結果性をもつ…。開放システムを扱うためには拡張と一般化が必要であった。これが<不可逆熱力学>として知られているものである。その結論の一つとして、古い生気論の謎が解明される。…[熱力学の]第二原理に対し、あるいはこれと『激しく対立して』…生物体は自己を思いもよらないほどありえそうにもない(確率の低い)状態に維持し、たえまない不可逆過程にもかかわらずその秩序を保ち、あまつさえ胚発生や進化では、より高度の分化のほうへ進みさえする。この見かけ上の謎は、古典的な第二原理が定義により閉鎖システムにのみかかわると考えることによって消えうせる。高エネルギーに富んだ物質をとりこむ開放システムでは、高度の秩序の維持や高度の秩序への進展さえも、熱理学的に許される」153-4頁→

(承前)「生物システムはその要素の多少ともすみやかな交換、変質と再生、異化と同化の中で維持される。生物体は開放システムの階層的な秩序である。あるレベルでは持久的な構造のように見えるものも、実際には、すぐ下位のレベルの成分がたえまなく交換することによって維持されている。こうして、多細胞生物体は自らを維持するのに細胞の交換によっているし、細胞は細胞内構造の交換によっており、また細胞内構造はそれを形づくる化合物の交換によっている、等である。一般的な規則としては、かかわっている要素が小さいほど代謝回転速度が速い…これは生物体がその中で、またそれによって維持されているヘラクレイトスふうの流れ[😅]を示すよい実例である」154頁

「開放システムの時間的な変化を眺めてみても、いちじるしい特徴がみつかる。そういう変化が生じうるのは、生物システムが初め不安定な状態にあって、それから定常状態に向かうからである。生長や発生の現象は大ざっぱにいえばそうしたものである[😅]。あるいは別の場合としては、定常状態が外部の条件の変化、いわゆる刺激によって攪乱を受けることもある。そうしてこれが——今度も大ざっぱにいってのことだが——適応や、刺激ー反応ということの内容である。ここでもまた閉鎖システムに対して特徴的な違いが出ている。閉鎖システムは一般に漸近的な仕方で平衡状態に向かう。これと対照的に開放システムでは、出足の遅れとす行きすぎもおこる…換言すれば、もし行きすぎや出足の遅れを見たときには——多くの生理現象でよくあるように——これは一定の予測可能な数学的特徴をそなえた開放システム内での過程であろうと予期してもよいのである」154頁

「この国[米国]の生物学は、サイバネティクスの概念の影響を受けて、むしろ細胞や生物体の機械概念に戻ってしまい、したがって開放システムの理論が与える重要な諸原理を無視してきたのである」155頁

「フィードバック・システムと『ホメオスタシス』制御は重要ではあるけれども自己制御システムと適応現象のうちの特別な種類のものであるということを強調するのが、たいせつである。…
…典型的なフィードバック・システムあるいはホメオスタシス現象は、入ってくる情報にかんしては『開いて』いるが物質とエネルギーに関しては『閉じて』いる。ゆえに情報理論の諸概念は——特に情報と負のエントロピーが同等であることから——開放システムの不可逆熱力学よりもむしろ『閉じた』熱力学(熱静力学)に対応する。ところがもしシステムが(生物体のように)『自己組織的』…なものであれば、すなわち高度の分化に向かって進んでいくものであれば、不可逆熱力学が前提とならなければならない」157頁

「開放システムの動力学とフィードバック機構とは二つの異なったモデル概念であって、それぞれに適した範囲がある。開放システム・モデルは基本的にいって非機械論的であり、伝統的な熱力学を越えるばかりか伝統的な物理学理論で基礎となっている一本道の因果関係をも越えるものである…サイバネテイクス的アプローチは生物体のデカルト的機械モデルと一方向の因果関係と閉鎖システムを保持している。後者で新しいのは伝統物理学を越えた概念を持ちこんだこと、とりわけ情報概念の導入である。結局この一対のものは『過程(機能)』と『構造』という古来の対立物を現代ふうに表現したものだ。…
 生理学的にいえば、フィードバック・モデルは代謝その他の領域でのいわゆる『二次調節』、すなわち神経内分泌制御の例のように、既存の機構と固定した経路を用いての調節を説明する。その機械論的な性格からして特にそれは器官と器官系の生理学に特によく適用できる。その反面、開放システムにおける諸反応の動的な相互作用は、より一般的かつ根本的な開放システム制御が認められる、細胞代謝…のような『一次制御』に適用される」157-8頁

「私自身も、生物学でのそのものの見方からして、生理学的過程の動的な秩序の中に固定して動かないものを予想するにはほど遠い者である。私の生物学に対する見方全体からすると、私はむしろ古いヘラクレイトス流の〔万物流転の〕考えに共鳴しているのであって、永遠なものはただ法則と変化の秩序にだけあると考える。…
…真に不変なものは、一定の関係によって表わされる諸過程のオーガニゼーションである」176-7頁

「開放システム・モデルとフィードバック・モデルはともに生理学における広い範囲の現象に適用されるが、それは物理学の理論の本質的な拡張を示すものである。この二つの概念は明白に区別しなければならない。フィードバック・モデル(ホメオスタシス)のほうは一般の生理学的調節のすべてを網羅したものではない。つまり『システム理論』とこれを同一視してはならない」180頁

「現代の技術革命ほどには喧伝されていないが同程度に将来の可能性が約束されているものとして、生物科学と行動科学の最近の発展にもとづく革命がある。端的に表現するならば、それは<有機体論革命>といってよいであろう。その核心をなすのは<システム>の概念である。…
…いま私たちは根本的に別の世界観をさがし求めつつある——<世界をオーガニゼーションとして>見ようとするのだ」183頁

「生物学的にいうと、生命とは平衡の維持とか回復ではなく、生物開放システムの教義が明らかにしているような、非平衡の維持が本質的なものである。平衡に達したということは死とそれに続く崩壊を意味する。…行動には——またおそらく進化にも——個体の適応とか種の生存といった効用原理には還元できない広い領域がある」187頁

「ストレスは生命にとっての危険であって適応機構によって制御され、中立化されるべきものであると同時に、より高次の生命を生みだすものでもある。もし、生命に外から干渉を加えても、その後簡単にいわゆるホメオスタシス的平衡に戻るのならば、アメーバ以上の進歩はけっしてなかったにちがいない」187頁

「生命とは、前もって定められた筋道どおりに安楽に落ちついていくということではない。生命は、その最高のあり方においては、容赦なくより高次へと追いたてられていく生の躍動(élan vital)なのである」😅😅😅 188頁

「S-R図式に表わされている受動的な生物モデル——行動を欲求の満足や緊張の緩和やホメオスタシス的な平衡の再確立と見る、それを効用主義的、環境主義的に解釈する、等々のモデル——に対して、私たちは、むしろ一次的には能動的なシステムとしての心理物理学的有機体というものを考えるようになってきている。…
…人間は外界からやってくる刺激の受動的な受け手ではなく、きわめて具体的な意味で彼の世界を<創りあげる>ものである」189頁

「ロボット概念をシステム概念に替え、外界に方向づけられた反応性の代わりに内在的な能動性を強調し、動物の行動と比較して人間文化の特異性を認める、このような新しい『人間像』は教育や訓練、心理療法、さらに一般の人間活動における諸問題に根本的な再検討を迫ることになるであろう」190頁

「私の意見ではきわめて確信をもって<社会科学とは社会システムについての科学である>といえる。この理由から、社会科学は一般システム科学のアプローチを用いねばならないことになろう」190頁

「機能主義、特にパーソンズの見解に対する大きな批判点は、それが維持とか平衡、調整、ホメオスタシス、組織構造の安定性、等々を強調しすぎ、その結果、歴史の流れ、社会文化の変化、内面から方向が決まるような発展、等々が脇役となり、せいぜいで否定的な価値づけの含みをもった『異常なもの』とみなされてしまう点である。それゆえこの理論は保守主義と順応主義の一つであって、『システム』(つまりマンフォードの言葉を使えば現代社会の巨大機構(megamachine))を現状のまま弁護する一方で、社会変革を考え方として無視し、それゆえ防止する立場になる。明らかに、本書で提案しているような形の社会システム理論は、維持も変化も、またシステムの保全も内部構想もともに等しく含むので、そのような批判とは無縁のものである」191-2頁

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