「集中化の原理は生物学領域でとりわけ重要である。前進的分離はしばしば前進的集中化と結びついており、その現われが主導的部分の時間的進化…である。同時にまた前進的集中化の原理は前進的個体化の原理でもある。『個体(不可分体)』とは集中化されたシステムであると定義できる。厳密にいうならばこれは生物学領域では、個体発生的および系統発生的にそこに近づくことのみできる一つの極限の場合であって、生物体は前進的集中化を通じていっそう統一的で『いっそう分かちがたい』ものに生長していくのである。
…生物学的な観点からは、前進的機械化と集中化を強調したい。初めの状態はシステムのふるまいが等能的な部分の相互作用の結果として生ずるような状態である。それが次第に、優勢な部分の指導下におかれるようになってくる。たとえば発生学では、これらの優勢な部分をオーガナイザーと呼ぶ(Spemann)。中枢神経系でも各部分は最初は下等動物の散在神経系におけるのと同じようにだいたい等能的である。しかし後になると神経系の主導中心に従うようになってくる」66頁→
「このようにして、前進的機械化と同様に前進的集中化の原理が生物学の中に見いだされ、これを象徴するのは、主導部分が時間とともに形成されてゆくこと…である。この見方は、重要だが簡単には定義できない個体の概念に光を当てる。『個体(individual)』とは『分けられぬもの』の意味である。…進化の尺度を登っていくと集中化の増大が見られる。行動は同等な位階(ランク)にある部分的機構が合成されたものではなくなり、神経系の最高中心中枢によって統一支配される…
こうしてみると厳密にいえば生物学的個体性などというものはなくて、ただ進化と発生における前進的個体化のみがあり、これは前進的集中化、すなわち一定の部分が主導的な役割を得て全体のふるまいを決定するということからくるものなのだ。かくして前進的集中化の原理は<前進的個体化>をも含んでいる。個体とは一つの集中システムとして定義されるべきものであり、これは実は発生と進化の中で生物体が次第に統一的な『不可分』なも[ママ]になっていく道程の一つの極限である。…同じことは社会学の領域にもあてはまる。ただの群衆の集まりには『個体性』がない。一つの社会構造が他と区別されるためには、一定の個体のまわりでのグループ形成が必要である」66-7頁
「前進的機械化と前進的集中化の原理を無視することからしばしばにせの問題がたてられてきた。それは、独立で総和的な要素という極限の場合か、さもなければ等価な要素の完全な相互作用しか認めず、生物学的に重要な中間の状態を無視してしまうからである。このことは『遺伝子』と『神経中枢』の問題と関連して重要である。古典遺伝学は(近代遺伝学はいざしらず)遺伝物質を個々の形質や器官を決定する微粒子単位の総和と考える傾向があった。巨大分子の総和では生物体の有機化された全体性を作りだせないという反対は当然である。正しい答は全体してのゲノムが全体としての生物体を作りだし、しかもなお一定の遺伝子が一定の形質の発達の方向を決定すること——いいかえれば『主導部分』として働くことである。このことは、どの一個の遺伝形質も多くの遺伝子、おそらくすべての遺伝子の協同の働きで決まる、そうしてどの一個の遺伝子も単一の形質ではなく多くの形質、おそらく生物体全体に影響を与えるという洞察の中に表現される(形質の多遺伝子性(polygeny)および遺伝子の多表現性(polypheny))」68頁
「純粋に形式的な『システム』の定義から、いろいろな科学分野でよく知られた法則に一部分表現されていたり、また一部分はこれまで擬人的だとか生気論的だとかされてきた概念に関する多くの性質が導きだされてくる。したがって、いろいろな分野での一般的概念の並行性やさらに特殊法則の並行性さえも、これらが『システム』に関連しているということと、ある種の一般原理はどんな性質のシステムにもその本性の如何にかかわらず適用できるということからくる当然の結果であることになる。かくして全体性と総和、機械化、階層的秩序、定常状態への接近、等結果性などの原理がまったく異なった分野に現われる場合がある。異なった領域に見いだされる同形性は、一般的なシステムの諸原理の存在、多少とも十分に発達した『一般システム理論』の存在にもとづくものである」77-8頁
「私たちは、実在のいろいろに異なったレベルあるいは層に対して科学法則をうちたてることは、たしかにできる。そうしてここに私たちは、『形式的様態』(Carnap)でいうならば、科学の統一性ということがあるとしたときの、異なった分野における法則と概念図式との対応もしくは同形性を見るのである。『実体的な』」言語でいえば、これは世界(すなわち、観察することができる現象の総体)が構造の一様性を示していて、いろいろに異なるレベルや領域において秩序の同形的な痕跡によって自らを顕現している、ということを意味する。
実在は、近来のとらえ方では、オーガナイズされた実体の巨大な階層的秩序とみられるのであって、その結果、物理学的および化学的システムから生物学的および社会学的システムにわたる複数のレベルが重なりあうことになる。『科学の統一性』が当然とされるのは、あらゆる科学が物理学および化学へとユートピア的に還元されることによるのではなく、実在の異なったレベルが構造の一様性をもつことによるのである」81頁
「物理学的現象を実在の唯一の標準と考える態度は、人間を機械化し、高次の諸価値を正当に評価しない結果を導いた。…機械論的見解を投げすてた後には、私たちは『生物学主義』にすべりこまないように、つまり心的、社会的、文化的現象をただ生物学的立場からのみ考えることのないように用心しなければならない。…有機体論の考え方は、生物学〔主義〕的考えの一方的な優位を意味するものではない。異なるいろいろのレベルに一般的な構造の同形性があると強調するとき、それは同時に、レベルごとに自律があり特異的な法則をもつことをも主張しているのだ。
私たちは、一般システム理論の将来の展開が科学の一体化をめざす大きなステップとなると信じている。それは将来の科学において、アリストテレスの論理学が古代の科学で果たしたのと似た役割を果たすことになることもあろう。…現代の科学では、動的な交互作用が実在のあらゆる分野で中心課題になっているようにみえる。その一般原理は、システム理論によって定義されるべきはずのものである」82頁
「40年ほど前、私が科学者としての生活を始めたとき、生物学は機械論ー生気論論争のさなかにあった。…こういう状況の中で、私その他の人々はいわゆる有機体論の見方に導かれていった。一個の短い文章でいうならば、それは生物体はオーガナイズされたものであって、私たちは生物学者として、それがどんなことであるのか発見しなければならない、ということである。…この方向の一ステップがいわゆる開放システムと定常状態の理論で、これは本質的には在来の物理化学、反応速度論および熱力学の拡張である。けれども一度とった道を途中で止まることはできないように思われたので、私はさらに広い一般化まで導かれることになり、これを私は『一般システム理論』と呼んだ。この考えはかなり以前にさかのぼる。それを最初に提出したのは1937年、シカゴ大学で行なわれたチャールズ・モリスの哲学セミナーにおいてである。けれどもその当時、理論なるものの評判は生物学では悪かった。…それで私は草稿を引出しにしまいこみ、この問題に関する私の最初の出版はようやく戦後のことであった」88-9頁
「生物を観察すれば、驚くべき秩序、オーガニゼーション、連続変化の中での維持、調節、また見かけ上の合目的性が認められる。同様に人間の行動の中にも目標指向性と合目的性を見すごすことはできないのであって、たとえ厳格に行動主義的な立場を受容するにしてもそういえるのだ。けれどもオーガニゼーションとか目標指向性とか合目的性とかの概念はまさしく古典科学の体系には現われないものなのだ。実際問題として、古典物理学に基礎をおいたいわゆる機械論的世界観の中では、それらは架空のものか形而上学的なものと考えられた。このことは、たとえば生物学者にとっては、生きた自然のまさに特徴をなす諸問題が科学の正当な分野を越えたところにあるように思われることを意味する。多変量間の相互作用、オーガニゼーション、自己維持、目標指向性等々の側面を表現できるモデル——概念的な、またある場合には物質的でさえあるモデル——の出現は、科学的思考と研究の中へ<新しいカテゴリーを導入すること>を暗に意味する。… …現代物理学と生物学では、<オーガナイズされた複雑性の問題>、すなわち多数ではあるが無限数ではない変数間の相互作用がいたるところに顔をだし、新しい概念道具を要求している」91-2頁
「科学を拡張して、物理学の中では置きざりにされ、生物、行動ならびに社会科学的現象の特徴的な性質には関係しているような側面を扱うことが必要とされていると思われる。これが、導入されるべき<新しい概念モデル>にほかならない。
…これらの拡張され一般化された理論的な構造あるいはモデルは、学際的なものである——すなわち科学の在来の区分を越えたものであり、いろいろちがう分野の現象に応用できるものである。その結果、いろいろの分野に現われるモデルと一般原理と、特殊法則さえにも同形性が見られることになる。
要約すると、生物、行動および社会の諸科学と現代工学との内容は、科学における基本概念の一般化を必須のものとしている。これは伝統的物理学でのカテゴリーと対比しての新しい科学思想のカテゴリーを意味している。またそのような目的で導入されたモデルは、学際的な性質を帯びている。
…『全体性』と『オーガニゼーション』の一個の理論へと向かう現在のさまざまなアプローチは統合され統一されることになるかもしれない。じっさい、たとえば不可逆熱力学と情報理論のあいだでのいっそうの総合化というようなことは、ゆっくりと発展しはじめているのだ」92-3頁
「要するに私たちの見解は『ホメオスタシス原理を越えて』とでも定義できよう。 (1) S-R図式は遊びとか探検活動とか創造性、自己認識、等々の領域を見のがす。 (2) 経済的な図式はまさに人間特有の達成——漠然と『人間的文化』といわれるものの大部分——を見のがす。 (3) 平衡原理は、心理的および行動的な活動は緊張の緩和以上のものであるという事実を見のがす。緊張の緩和は最適状態どころか、たとえば知覚をうばう実験の場合などは精神病に近い攪乱を招くこともあるのだ。 S-R モデルや精神分析モデルは人間の本性の実際と非常にかけ離れた像であり、したがって、かなり危険なもののように思われる。私たちが人類特有の達成と考えるまさしくそのようなものは、功用主義[ママ]、ホメオスタシス、また刺激ー反応の図式のもとには、ほとんどもちきたすことができないものなのだ。…もしホメオスタシス的維持の原理が行動の黄金律だとしたら、最終的な目標はいわゆるうまく順応した個人、つまり最適な生物学的、心理学的、社会学的ホメオスタシスに自らを維持するよく油のきいたロボットということになろう」106頁
「『合理性の原理』は大部分の人間的行為よりもむしろ動物の『合理性のない』行動にこそ当てはまる。動物や一般に生物体は『擬合理的(ratiomorphic)』に機能して、維持、満足、生存、等々のような価値を最大にする。一般に彼らは、自分にとって生物学的に良いものを選び、有用さ(たとえば食物)の少ないほうより多いほうをとる。
これに対して人間の行動は、合理性の原理からだけではとても説明しきれない。人間において合理的行動の占める範囲がいかに小さいかを示すには、フロイトを引くまでもない。…すべての可能性と帰結をひとわたり調べるという合理的選択などしていない。…私たちの社会では、選択を不合理に<させる>のが、有力な一群の専門家たち——宣伝屋、動機研究家、等々——の仕事になっているが…これは本質的には、生物学的諸因子——条件反射、無意識衝動——をシンボル的な価値と結びつけることによってなされるのである」114頁
「全体としての生物体を考えてみると、それは平衡状態にあるシステムと似た特徴を示す… けれども、生物体の中には平衡状態のシステムがあるようにみえても、生物体自体は平衡システムと考えることのできないものであることは、すぐわかることである。 生物体は閉鎖システムでなく、開放システムである。システムに物質が全然出入りしないときそれを『閉じている(閉鎖)』と呼び、物質の出入りがあれば『開いている(開放)』と呼ぶ。 それゆえ化学平衡と代謝を行なっている生物体との間には根本的な対立がある。生物体は、外に対して閉じていて常に一定の成分を含むような静的なシステムではない。それは(準)定常状態にある開放システムであり、成分物質とエネルギーがたえず変化する中でも質量関係が一定に保たれつつ、その中で物質がたえず外の環境から入ったり、また外の環境へ出ていったりしている」118-9頁→
(承前)「定常状態(あるいはむしろ準定常状態)にあるシステムとしての生物体の特性は、そのいちばん大事な区別点の一つである。一般的な仕方で、基本的な生命現象をこのことの諸結果として考えることができる。比較的短い時間範囲で生物について考えてみると、それは成分の交換によって定常状態に保たれている形状(cofigulation)のようにみえる。これは一般生理学の第一の主要分野に対応する——すなわち、化学的、エネルギー論的側面を扱う代謝の生理学である。定常状態の上により小さな過程の波がかさねあわされていて、これは基本的に二種類のものからなる。まず第一にシステム自身の中から由来する、したがって自動的な周期過程がある…第二に、生物体は環境の一時的変化、『刺激』に対して、その定常状態の可逆的なゆらぎをもって反応する。これは外部条件の変化によってひきおこされ、したがって他律的な一群の過程であり、興奮の生理学に含められる。それらは、定常状態が一時的に攪乱されて、そこからまた生物体が『平衡』へ、すなわち定常状態の等しい流れへと復することであると考えられる」119頁
「物質とエネルギーのたえまない流れと交換の中でシステムを維持していくことや、このことを許すような仕方でなされている細胞内あるいは生物体内での無数の物理化学反応のもつ秩序や、いろいろにちがう条件下でも攪乱の後でもちがう大きさのときでもつねに成分の比が一定に保たれていることは、生体代謝の中心問題である。同化と異化における生物システムの表裏二面的な変化…一定状態の維持に向かう傾向、変質(退化)によって生ずる攪乱を補償するような更新(再生)をもたらす。…細胞内、生物体内の物理化学的過程について、私たちは非常に多くの知識を持ってはいる。しかし私たちは、『個々の過程の完全な説明がついた後でさえも、一個の細胞の代謝全体を十分に理解することからはほど遠いところにある』…ことを見すごしてはならない。…再三再四、問題が生気論的な結論…に持っていかれてしまったのも驚くべきことではないのである」121頁
「たえず連続的に仕事ができる能力は、できるだけすみやかに平衡に達してしまおうとする傾向のある閉鎖システムにおいてはありえず、開放システムにおいてだけありうる。生物体に見いだされるみかけ上の『平衡』は仕事のできない真の平衡ではない。それは真の平衡から一定の距離をつねに保っている動的準平衡である。それゆえに仕事をすることはできるが、他方、真の平衡から距離を保つためにエネルギーの流入をたえず必要とする。
『動的平衡』の維持のためには、諸過程の速度が正確に調和がとれていることを必要とする。このようにしてはじめて、一定の成分が壊れて自由エネルギーを放出していく一方で、エネルギーの流入によりシステムが平衡に達するのを妨げることができる。速い反応は、生物体においても、化学平衡に導く…遅い反応は平衡に達せず定常状態に保たれる。したがって、ある化学システムが定常状態に存在するための条件は、反応速度がある程度遅いことである。…生物体で定常状態が維持されるのは、生物体が複雑な炭素化合物からできているという事実による」123頁
F岡S一の元ネタはこのあたりですかね😅
「まず第一にそれ[等結果性の一般的な定式化]は、一見形而上学的あるいは生気論的な合目的性の概念に、物理的な定式化を与えうることがわかる。よく知られているとおり、等結果性の現象はドリーシュの生気論のいわゆる『証明』の基礎となっている。第二に、生物の根本的な特性の一つ、すなわち生物が熱力学的平衡状態にある閉じた系でなく(準)定常状態にある開放システムという事実と、もう一つの特性である等結果性とが、密接な関係にあることがわかる。…
…しばしば生気論的あるいは神秘的に考えられてきた生物のシステムの多くの特性が、システム概念といくつかのかなり一般的なシステム方程式から熱力学的、統計力学的考察と結びついた形で導かれる…
…個々の生物学的現象の理論は私たちの一般方程式の特殊例であることがわかるであろう」130-1頁
(承前)「第二に<調節>の問題がある。たしかに現代のオートマトン(自動機械)の理論からして自己修復機械というものは考えられる。勝手な攪乱を与えたのちの調節や修復を考えると問題がでてくる。…攪乱がどこで機械あるいは自動機械としての生物体から去ってくれるのだろうか。よく知られるとおりこうした種類の生物的調節は、生命機械がいわゆるエンテレキーと呼ばれる超物理学的な作用によって制御され修復されている証拠として、生気論者が利用したものである。
以上の二つよりずっと重要なのは第三の疑問である。生きている生物体はたえず成分の交換を続けながら一定に維持されている。代謝は生きているシステムの基本特徴である。いわば、たえず自らを消費しながら自らを維持しつづける燃料からなる機械が、ここにある。そういう機械はこんにちの技術の中にはない。別の言葉でいえば、生物体が機械類似の構造をもつことは生命過程の秩序を究極的に説明する理由とはなりえない。なぜならその機械自身が、秩序づけられた過程の流れの中で維持されているのだから。したがって第一義的に重要な秩序は過程そのものの中にあるのでなければならない」136-7頁
「開放システムは環境とのあいだで物質の交換を行なっていて、入るものと出るものがあり、その物質成分を組みたてたり壊したりしているシステムである。…
単純なものでさえ開放システムはいちじるしく注目すべき特徴を示す。一定の条件下では、開放システムは時間に依存しない状態、いわゆる定常状態(von Bertalanffy, 1942のいう<動的平衡>😅)に達する。定常状態は真の平衡からある距離のところで維持されるもので、したがって仕事をすることができる。生物システムの場合にも見られるとおり、それは平衡状態にあるシステムとは対照をなすものである。たえまなしに不可逆な過程、つまり出たり入ったり、組みたてたり壊されたりが生じているにもかかわらず、システムは構成が一定のままに保たれる。定常状態はいちじるしい調節の特徴を示し、それは等結果性ということにおいて特によく見てとられる。開放システムでは定常状態が達せられると、それは初期条件に依存せず、システムのパラメータ、つまり反応速度や輸送速度によってだけ決定される。これが多くの生物過程、たとえば生長の場合に…見いだされる<等結果性>と呼ばれるものである」137-8頁→
「生物学的にいうと、生命とは平衡の維持とか回復ではなく、生物開放システムの教義が明らかにしているような、非平衡の維持が本質的なものである。平衡に達したということは死とそれに続く崩壊を意味する。…行動には——またおそらく進化にも——個体の適応とか種の生存といった効用原理には還元できない広い領域がある」187頁
「機能主義、特にパーソンズの見解に対する大きな批判点は、それが維持とか平衡、調整、ホメオスタシス、組織構造の安定性、等々を強調しすぎ、その結果、歴史の流れ、社会文化の変化、内面から方向が決まるような発展、等々が脇役となり、せいぜいで否定的な価値づけの含みをもった『異常なもの』とみなされてしまう点である。それゆえこの理論は保守主義と順応主義の一つであって、『システム』(つまりマンフォードの言葉を使えば現代社会の巨大機構(megamachine))を現状のまま弁護する一方で、社会変革を考え方として無視し、それゆえ防止する立場になる。明らかに、本書で提案しているような形の社会システム理論は、維持も変化も、またシステムの保全も内部構想もともに等しく含むので、そのような批判とは無縁のものである」191-2頁
「一般に次のようなものにはホメオスタシスの図式はあてはまらない。(1)力動的制御——つまり固定された機構にもとづくのでなく、全体として機能するシステムの中で動く制御…(2)自発活動。(3)目標が緊張の緩和でなく増大となるような過程。(4)生長、発育、創造といったような過程。ホメオスタシスは非効用的な——いいかえれば自己保存とか生存のような一次要求にも、また多くの文化事象のようなそこからの二次派生物にも役立たない——人間活動に対しては説明原理として不十分であるということもできよう。…
…彼[キャノン]は、ホメオスタシスを越えた、『このうえもなく貴重だが不可欠ではないもの(priceless unessentials)』のこともはっきり強調しているのである」206頁
「生物体は機械とは違うものであるが、ある程度までは機械となる。機械へと凝固することができる。けれども完全にではない。というのは徹頭徹尾機械化されてしまった有機体は、たえまなく変化する外界の条件に反応できないだろうから…<前進的機械化の原理>というのは未分化の全体からより高度の機能への変換を述べたものであるが。これは特殊化という『分業』によって可能となる。この原理はまた、成分要素における潜在能力と全体の調節性が失われることをも意味している。
機械化の結果としてしばしば、<指導部分>、すなわちシステムのふるまいを統率する成分要素ができてくる。そのような中心は『因果連鎖の引き金』となることができる。すなわち『原因は結果と等価である(causaa equat effectum)』という原理とは対照的に、指導部分の小さな変化が<増幅機構>によってシステム全体に大きな変化をもたらす。こうして、部分と過程の<階層秩序>ができあがる」208頁
「生物的要求の直接的な満足を除くと、人間は事物のではなしにシンボルの世界に住んでいる…またこうも言えるのであろう。物質的であるか否かを問わず人間の文化を動物の社会と区別するいろいろなシンボルの世界は、人間の行動システムの部分、それもおそらくもっとも重要な部分である。人間が理性的動物であるかどうかはたしかに疑うにたりるが、人間が徹底してシンボルを創造し、シンボルに支配された存在であることは確かである。 …人間行動を特徴づけるのに使われるおそらくすべての概念がシンボル活動の結果あるいは異なった側面である…こうしたものはすべて創造的なシンボルの世界という根から由来するもので、それゆえに生物学的衝動と精神分析的本能とか満足の強化その他の生物学的要因には還元できない。<生物学的価値>と<人間特有の価値>との違いは前者が個体の維持と種の存続とに関係するのに対し、後者はつねにシンボルの世界に関係していることである」211頁
「物質と精神、外の客体と内なる自我、脳と意識、等々の<デカルト流二元論>は直接の現象論的経験に照らしても、またいろいろな分野の最近の研究からみても誤りだということである。これは元来17世紀の物理学から発する概念化であって、現在の論争の中でも相変わらず広く見られるけれども…すでに時代遅れのものである。現代の見方からすると科学は、唯物論的なものであれ観念論的なものであれ、あるいは実証主義的に感覚資料を至上とするものであれ、形而上学的な言明はしないものとなっている。それは経験の限られた側面をその形質構造の中に再現するための概念構築である。行動と心理の諸理論はその形式構造においても似たもの、つまり同形となるべきであろう。システムの概念はおそらくそのような『共通の言語』の最初のものであろう…遠い将来にはこの方向の発展は『一元的統一理論』を生みだして…物質と精神、意識と無意識といった二側面がそこから最終的に導きだせるようになるかもしれない」215-6頁
「直接経験に関するかぎり、その生物種の生物生理的オーガニゼーションによって決まる知覚のカテゴリーが、完全に『まちがいである』とか偶然あるいは任意のものだとかいうことはありえない。むしろそれらは、一定の仕方で一定程度までは、『実在』——これが形而上学的意味において何をいうにせよ——に対応しているのでなければならない。人間を含めてすべての生物は、単なる見物人ではない。すなわち世界の舞台をただ眺めているだけで、それゆえ神や生物進化や文化の『魂』や言語が気まぐれに彼の形而上学的鼻先にのせてくれためがねを、像がどんなに歪むしろものでも自由に掛けていい、というものでもない。むしろ彼はドラマの反応者であり能動者(役者)なのだ。生物は外界からやってくる刺激に対して、その生まれつきの心理物理的装置に従って、反応しなければならない。何が刺激、信号、そしてユクスキュルのいう意味での特徴として取上げられるかについては一定の許容範囲はある。けれども、その知覚は動物がその世界の中でうまく生きていくことを許さなければならない。このことはもし空間、時間、物質、因果性といった経験の諸カテゴリーがまったく偽りのものであったなら不可能であろう」233頁→
「ストレスは生命にとっての危険であって適応機構によって制御され、中立化されるべきものであると同時に、より高次の生命を生みだすものでもある。もし、生命に外から干渉を加えても、その後簡単にいわゆるホメオスタシス的平衡に戻るのならば、アメーバ以上の進歩はけっしてなかったにちがいない」187頁