「ハルトマンは、現代哲学の代表的人物であり、また、生気論の問題を考察する唯一の現代の哲学者である。…ハルトマンの哲学体系を一言で言えば、『生物学的』であることである。それは、生物学を基礎としており、形態形成、本能、そして人間行動における心理と物理の関係に関して、たいへん生気論寄りに生物学を解釈する型の哲学である。 …ハルトマンの理論は、生気論の歴史にとってはきわめて重要である。それは、要素的生命因子と無機的な因子との関係を明確にするために、生命の自律性の教義を厳格に適用しようとする最初の試みだからである。…ただしハルトマンの理論は、事実問題として生気論に直接関わるものではないし、生命についての機械論的解決が不可能であることを、厳格に示したわけでもない」147-9頁
「1894年に、[グスタフ]ヴォルフは、ダーウィン主義か目的論か、という問いに対する解決策として、明確に企画された実験を行なった。彼の目的は、生物が最初の発生過程において、いったん削除された器官を回復させるかどうかを確かめ、その回復がどうなされるかを調べることであった。この実験の積極的な成果として、『初源的終局性(primary finality)』が証明された。それは一方で、ダーウィン主義をばかげたこと(ad absurdum)と格下げにし、他方で、積極的適応という事実によって、重要な形で目的論を支持するものとなった。
実験は、イモリ(Triton taniatus)の眼からレンズだけを取り除くというものである。実験では新しいレンズが、虹彩の外縁から成長し再生された。それは、通常の発生に対する対応ではないにもかかわらず、問題の合目的性にとって最適な形でことは進行したのである。
かくして、初源的終局性は実証された」😅 161-2頁
「生物が保持する形態の調節の能力について、数年間、実験を行ない、1891年以来続けてきた発生生理学での実験結果を集成し考察を続けた結果、『調節(regulation)』概念についての論理的分析の結果と、『行動(action)』概念を結びつけることで、私[ドリーシュ]は意見をすっかり変え、生気論を完全な体系へと完成させてきた。
すでに1895年に私は、『行動』の問題の分析から、生気論が必然であることを確信するようになった。…1899年の初めに『形態形成の現象における定位 生気論的現象の証拠』…これは、生命の過程は少なくとも、それ自身の法則に従う、動的目的論的な、自律的なものとしてはじめて理解可能であることを明確に論じた、最初の著作である。
…1903年の私の著作、『要素的な自然要因としての「魂」』…において、私は、人間の行動を客観的な運動現象として分析した」164-5頁
「1899年に、パウル・ニコラウス・コスマンが『経験的目的論の要素』…を出版した。…この本は、目的論概念の論理的な定義の枠組みを特別に設定しており、そのため、カントの『判断力批判』といくつかの接点をもっている。
…彼によれば、因果性は普遍的であるが、それだけで妥当性をもつわけではない。彼はこれに、判断の公理として目的論を併置する。そこでは必然性がこれに連動して扱われる。なぜなら必然性の理想は、因果性のそれよりもはるかに大きいからである。一般的形式はこうである。C(原因)=f(E)(効果)、これで因果理論は充分である。『原因』と『効果』という言葉は、ごく一般的な意味で、考慮対象となるすべてのもの全体を要約したものとして用いられる。目的論は、このように形式化される。M=f(A, S) ここで、Mは媒体を、またAとSは、仮定と結果を意味する。
…コスマンは、『生気論か、機械論か』の問題を解決できなかったとしても、少なくとも積極的な意味で、単なる偶然によっては説明できない、生気論的目的論の深い重要性に、決定的な評価を与えた」165-6頁
「可能な変化の進行を留保したり解除したりすることは、個体化因果性を担うものの『作用(action)』様式であり、以後、われわれはこれを、エンテレキー(entelechy)と呼ぶことにする。この名称は、アリストテレス形而上学の用語としてよく知られているが、ここでの用法は、厳密にはアリストテレス哲学のそれに従ってはいない。 …エンテレキーの作用は、与えられた可能性の留保というかたちで存在するという、われわれの理論によってはじめて、従来の古典的生気論(そして現代生気論の多く)が陥っている、きわめて深刻な誤りを回避することができる。これまで生気論に対しては、発生や適応で生物は実際には限界があるのに、生気論の学説に従うと、全能のものになってしまう、という反論がなされてきた。しかし、われわれの理論に従えば、この『調節能力の限界 limits of regularabliity』はこう解釈できる。つまりそれは、エンテレキー作用が働きかけるところの、一定の前形成されている物質的条件に拠るのだ、と」190-1頁
「エンテレキーが物質次元の生成の進行を留保していたのを解除し、1つ可能性を現実化させる、とわれわれが言うとき、力学的な意味における生成の障害がエンテレキーになって取り除かれる、とわれわれは言っているのではない。このような力学的な意味における解除(Auslösung)は、エネルギーを必要とするが、エンテレキーは定義によりエネルギーではないのである。エンテレキーは、ただ、それが可能な状態にあれば、それ自身で現実へと進行しうるものを許すだけであり、単純に物理化学の影響の結果としてなる状態のことではない。
自然の中におけるエンテレキーによる留保の起原を語るのは無益である。つまり、<生命の起原>を語るのは無意味である。この問題に関して、われわれが、何か明確な発言をすることは絶対不可能であり、同様に、<死>(death)の意味についての議論も意味がない」192頁
「自然に対して、全体性概念は認めるが統合化因果性を認めない理論的立場は、生命的自然だけを念頭におけば、自然の<機械説>(machine-theory)と呼ぶことができる。この機械説は、自然(もしくは生命)を単なる偶然領域に属すると考えることについては、すでに反対の立場にある。
そしていまや、生気論として、生命は単に偶然の領域のものでないだけではなく、機械説をもっても把握しきれない現象であることを示しうる地点にまで到達した。
生気論のすべての<証拠>、つまり、機械説をもっても生命現象の領域は覆いつくせないことを示す合理的な根拠づけは、間接的証拠によってのみ可能である。それは単に、力学的もしくは単純因果性では、生じている現象の説明としては充分でないことを示しうるだけである」194頁
「実験分析発生学——ルーが名づけた発生力学——の成果は、以下のことを明らかにした。多種の発生初期の器官や一部の生物では、実験によってどの細胞群を取り除いても、その残りの部分が、小さくはなるが正常なミニチュアへと発生しうる場合が存在しうる、ことである。換言すれば、実験的に残された発生初期の器官や生物の部分から、生体の一部分が発生するのではなく、小さいけれども体の<全体>が発生する事態を予想してよいのである。私は、この型の器官や生物を表わすのに<調和等能系>(harmonious-equipotential system)という名前を提示した。このような系では、すべての要素(細胞)が同じ形態発生的『潜在能(potency)』を保有しているはずである。…しかもこれらの要素は、毎回の実験でともに『調和的』に作用する。この等能性と調和的作用を根拠にしてはじめて、実験結果は、現に起こったようなものとして、説明が可能になる。
発生初期の器官の中では、初期段階の卵割や胚葉系が、この調和等能系の例である。
…動物成体はすべて、さまざまな度合いで回復(もしくは再生)可能、つまり、傷を負ってももとの形態を回復できるから、調和等能的であると言える」194-5頁
「彼[ヴァイスマン]の理論は、さまざまな実験が行なわれるまでは正しいものと思われていた。だが今では、実験によって、いかなる大きさでどの部分を切り取られても、残された部分が、形の比率を乱すことなく発生しうる系があることが示された。この事実は、『機械』は調和等能的な分化現象の基礎たりえないことを示している。なぜなら、<もしあなたが任意の一部分を取り除いてしまうと>、『機械』は、物理・化学的な物質や作用因をもって特別の調整を行なったとしても、<それ自身を保持しえない>。ところが生物では、まだ発生していない調和系なら、どんな削除実験をされても、形態学的機能に関しては、それ自身を保持できる。
だから、調和系は『機械』ではない。…自然の中の非力学的作用因である『エンテレキー』が、調和等能系において作用している」196-7頁
今だと、幹細胞や万能細胞で説明し尽くされる現象でせうね😅
「蓄音機は、<非常に単純な形で>受けとっているものを放つにすぎないのだが、生物の場合、個々の生涯で起きたことは、つぎの行動のための<一般的な可能性のストック>を形成する。ただし、これがつぎの行動の細部すべてを決定してしまうわけでもない。一般に、歴史性に依拠した行動すべてにおいて実際に起こっていることは、<個別的反応>(individual correspondence)の規準とも言うべき奇妙な原理に従って生じている。…真の行動はすべて、歴史性に依拠した個別の刺激に対する<個別の>応答である。
そして、この歴史的に作られてきた個別的反応は、力学的因果性にあてはめて理解することができない」199頁
グールドみたいなこと言うてますな😅
「『川』、『島』、『山』、『街』に関しては、地質学的および心理学的生成と呼ぶわれわれの知識を基礎にすれば、概念としては統一体であるが、対象として統一性を意味し<ない>、ということができる。川や島や山を導き出した地質学的生成および、街の存在を導き出した心理学的もしくは心理=物理的生成は、明確に<単一>因果性(singular causality)の型であるからである。要するに、対象としては、これらすべての系は<合計>(sums)であり、それ以外の何ものでもない。実際、それらの存在はみな複雑化の過程によるものなのだが、その複雑化は<蓄積>(cumulations)であって、<展開>(evolutions)ではない。この場合、『展開」という言葉は、統合的生成を基礎にしたその内部からの複雑化を意味し、『蓄積』という言葉は、単一的生成の1つの位相が、ちょうど他の位相の上に重ねられるように、単純な条件を基礎にした外部からの複雑化を意味するもの、である」203-4頁
「歴史に関しては、少し確実なことが言える。なぜなら、われわれ自身がその真中に立っているからである。この『中央に立っている』ことが、一面で、真の知識に関して特別で、奇妙な不利益にもつながっていく。われわれは、展開[evolutions]としての歴史の中央に立っている<がゆえに>——かりに歴史が1つの展開であるとして——、われわれはその展開の特徴を明確には評価できないし、将来もできないであろう、とも言えるからである。
…ただし、『歴史』あるいは人間社会には、超個体的な全体性の印象を与える、いくつか重要な特徴がある。その特徴の第1は、繁殖という生物学的事実であり、第2はヴェントの言う『目的の多様性』、すなわち人の行動は個々の行為者の期待とは異なった、いわば創造的な効果をもちうる、という事実である。超個体的存在の第3の特徴は、<道徳性>(morality)、もしくは言葉の最も広い意味での道徳的感情という事実である」205-6頁
「ハーバード大学のヘンダーソン教授は、最近『環境の適応(The Fitness of the Environment)』と題する注目すべき本を著した。私は、教授の生気論の問題に対する姿勢には賛成しない。彼は、われわれの言う機械論、生命の静的目的論の考え方を擁護している。しかし、これは問題の核心ではないし、彼の仕事の積極的な成果に比べればささいなことである。…その研究の成果は、生命のすべての現象は結局、他の化合物の常数と比べ、水や炭酸ガスの常数がもつ例外的特徴を本質的にその基盤にしていることを示した。…
これは、自然界の調和という古典的な問題の、現代的で精密な定式化である。そしてこの調和こそは、宇宙一般の中の統一体、もしくは個体性の記号(sign)に他ならない」216-7頁
「個々の生物が多様度のある型を成しており、それは同時に1つの統合を成していて、技術的に単一の言葉でその本質的特性を表わすとすれば、全体性(wholeness)を体現している。この事実を、誰も否定できない。そしてまた、生物が出現してくるほとんどの過程がこの全体性を維持しており、これが乱されれば回復される事実については、少なくとも否定することはできない。この前者の過程は、一般には発生もしくは個体発生と呼ばれ、後者の過程は、形態の全体性が回復されるのであれば、回復もしくは『再生』と呼ばれる。もし、生物の生理学的状態が乱されてその後に回復すれば、それは適応と表現される。実際の全体性は、このような生物の形態としての全体性だけでなく、生活や機能の形を成すものである」233頁
「適応という事実すべてが、さきに定義した意味において、<目的論的>(teleological)である点に、いささかも疑問の余地はない。それらはまた、攪乱されると機能的な全体性を回復する。生物とは単に形態に関して<全体>(whole)であるだけでなく、生き物として、つまり機能的な形において<全体>をもっていることを、われわれは知っている。…
ここで生命の機械説(machine-theory)と生気論を対比してみよう。いま述べた適応の事例だけをもって、このようなふるまいを予め基礎づけられている機械はありえない、と断言はできない。だが、こんな機械は、非常に不可思議で、機械としてはほとんどありえないものであろう。生物が一度も出会ったことがない物質から自身を防御するために抗体を生産する例などは、とくにそうである。そんな機械は不可能であり、この<不可能性>こそ、生気論が確立されなくてはならないゆえんである」238頁
「ワイズマン[ヴァイスマン]学説の類の理論は、これらの事実を前に成立しえなくなる。確実に、卵は細胞分割の度ごとに分解されていく機械ではない。というのも、単一の分割細胞から、完全な生物が生まれるからである。これは、現形質と核との関係にも当てはまる。
…胞胚の部分は、ごく無規則に切り刻まれても、常に完全な胚を作り出す。これは、卵割初期の2つや4つの細胞の能力が同じであることを証明するものであり、それは胞胚を形成する千個の細胞の予定可能性が同一である場合にのみ、可能な事態である。ここで、<等能個体発生系>(equipotential ontogenetic system)という表現を、同等の予定可能性、つまり同じ可能な運命をもつ細胞からなる発生現象すべてを指すもの、としよう。かくして胞胚は、つづめて<等能系>(equipotential system)であることになる」243頁
やっとequipotentialに込められた意味がわかりました😅
「卵巣(ovary)は、それぞれの卵が生体を形成する能力がある点で、たしかに『等能』である。だが、卵巣と胞胚とでは、論理的に大きな違いがある。卵巣においては、系の個々の要素が、<それ自身のために同じ複雑な全体>、いわば生体を、同等に作り出す能力をもっている。このケースを、われわれは『複合等能系(complex-equipotential system)』と呼びたい。一方、胞胚の場合、それぞれの要素は同じように、<1つの全体を構成する単一部分の役割を、すべてが>担うことができる。もし胞胚をある方向から切ったとすれば、あらゆる個々の細胞が他の単一の役を担うことになるだろう。必要とされるあらゆる部分になりうるのである。しかも個別のケースごとに、それが正常な場合であれ異常な場合であれ、これを担う細胞は常に<調和>がとれており、それぞれに同等の多大な能力を維持している。このような胞胚を、<調和等能系>(harmonious-equipotential system)と名づけることにする」244頁
社会システム理論の起源はこのあたりにあるような気するなあ
「調和等能系とその分化について語る時、生物学における生気論的概念を支持する最も重要な議論がここに依拠することになる。…調和系は、発生学の領域ならどこでも見られるというわけではない。…
問題はこうである。<何が、等能系の各々の部分について、不均等な運命に導くのか?> 何が、等しい可能性から、同等ではない現実へと変換させるのか? 別の言葉で言えば、形態形成におけるさまざまな特性の<位置づけ(localization)>の問題である。この位置づけの機能はどこから来るのか?
それは、<外部から>来るのではない。その形態形成において、分化の原因となる局所的な外部刺激(exterior stimuli)があったわけではないからである。…
この場合、位置づけ機能は、その系内部における<純粋な化学的過程>を基盤にすることが<できない>。…化学的な分解や純化からは、幾何学的な調整による平衡が起こるだけである。しかし有機体は、幾何学的な調整や、この種の調整の組み合わせではない。また、有機体は多くの器官があり、同じ化学的組成をもっているのに、たとえば脊椎動物の骨をみても、非常に特殊な形をしている。結局、個体発生の純化学的理論は、等能性と矛盾することになり、それを説明できない」244-6頁
「正常な系に存在すると仮定された発生学的な『機械』は、その系の<一部分>にも、他の部分にも、また互いに重なりあう異なった大きさの部分に関しても同様に、完全性が存在することを示すべき義務がある…というのも、この系のあらゆる部分が、大きさと、もとの系との割合の点で、完全なものを生み出しうることを、われわれは知っているからである。系を成すあらゆる細胞は、形態形成におけるすべての個々の役割を担うことができる。この役割は、単に『その位置の関数(a function of its position)』に従うのである。
この事実を前にすれば、発生過程の機械説は矛盾にいきつく。これらの事実は、機械の概念に反する。機械は、諸部分を特殊な形に調整したものであり、そこから、あなたが好きな部分を取り除いてしまえば、元のものではなくなってしまう」247頁
「単なる信仰ではないもの、感情の問題ではないものとして、自然の中には実際に全体性が存在する。これを証明すること、そして、自然の、および形而上学的な<全体性>に関するすべての考察に健全な基礎を与えること、これが生気論の利点である」313頁
気分は形而上(古)