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「歴史上、典型的な生気論的説明という点で、アリストテレスは、全歴史を通じて、古典派の代表的人物と見なすことができる。それどころか、彼の生命現象に対する考え方が、18世紀に至るまでのすべての理論の基盤となった点で、彼は中世および近代初期における生命概念をも代表する地位にあると考えられる。つまり、生命に関するアリストテレスによる理論的研究は、生物学史全体の中での要石でもある」3頁

「科学的『生気論』の最初の主張者が、今日で言うところの、形態形成もしくは発生学の諸問題をその出発点としている事実は、実に興味深い。この意味ですでに、アリストテレスは生気論者の典型である。彼は古典時代と中世を通じて生気論の典型的人物であるだけではなく、最近に至るまで全生気論の先駆者でもあった。動物の運動における調整現象に加えて、胚からの形態形成の現象は、常にすべての生気論の出発点であった」4頁

「エンテレキーは、それが現実のものになっていないにしても、言葉のもっとも高度な意味で『在る』のである。この意味において、彫像は、現実化する前に彫刻家の心の中に存在する。エンテレキーの概念は、ダイナミクスの概念よりは、現在の可能性の概念と、完全ではないにしろ、対応している」6頁

「魂はエンテレキーと同じように体を組織化する…アリストテレスはここ[『霊魂論』]で再度、魂はすべての生きるものの原理であることを確認する。それは、最も広い意味において魂とは、後に、『生存と器官を保持する能力を内にもった生命体の第1の現実である』、という有名な定義にたどり着く、伏線である」9頁

「アリストテレスの生命観は純粋な生気論であり、純粋に生命現象の全体的考察から生まれ、何か別の学説に対する論争の産物ではないゆえに、私はこれを、原始的もしくはナイーブな生気論と呼びたい。…彼は、デモクリトス派の唯物論から批判され、後のエピキュロス派の学説も彼に対する対抗説の一翼をになった」11頁

「アリストテレスの生命論体系の重要性を強調しすぎることはない。プラトンに基礎を置いてはいるが、アリストテリス自身による論理の厳密化によって、自然への考察に対するプラトンの影響を拒否する結果になっている。彼は、エンテレキー概念によって、プラトンには欠けていた、イデーと現実との連関について考察した」12頁

「ルネサンス期の偉大な哲学者によって、自然の全理論は力学の影響下に入り、力学的なものになった。そして生命観も力学化した」14頁

「アリストテレスと同様、ハーヴェイもまた、素朴な生気論者であった。彼は、経験を通して自然について彼が見つけたものを言語化しようと努力した。明らかにこの経験は彼の説に、特別な生気論的自律性をもたらした。
…ハーヴェイの理論的成果はあまり影響力をもたなかったが、その後ほぼ1世紀にわたって生気論的課題の権威と見なされ、その後継者の見解と比べると、より基本的で注意深い主張であった」20頁

「シュタールの立場は『アニミスト(物活論者)』であり、生気論者ではない。しかしこの違いは、シュタールの影響が強いモンペリエ学派の中ではたちまち消えてしまう。この学派は生気論にはっきり立っているからである」28頁

「後成説の信奉者は全員が生気論者であり、すべての論争が重要である」30頁

「[ビュフォンの]『内の鋳型』の結果に由来する力は、生長を促進し、生殖器官の中に特別な秩序を集約させる物質の過剰分のすべてを、この力に適合させるような影響下に置く。ここにダーウィンのパンゲネシス説との並行関係がある。…ここでは、生殖細胞の起源について真の生気論的な説明がなされている。…ビュフォンが、発生について展開説[evolution]に立つにもかかわらず、生殖細胞の形成については特別な生命力(vital forces)の効果を認めている」32頁

「ビュフォンの業績を批判的にまとめるとすれば、生気論自体としての意味ではなく、彼の方法論の生気論的正当化についての評価に、尽きるのではないかと思う。ビュフォンは、生気論を論証しようとは思わなかったが、彼は科学的正当性を示そうと努力したことで、素朴な視点から洞察力をきかせた理論を展開することになった。ビュフォンはシュタールより偉大だ、という時(ただし後者の分析はビュフォンをはるかに凌駕しているが)、それは彼がつぎのことをはっきりと認識していた事実に起因する。つまり、機械論に比べて何かしら新しいことを言明しており、自分にはそれを言う権利があるのだ、ということを」33-4頁

「[カスパー・フリートリヒ]ヴォルフは、静的もしくは構成論的な目的論を明確に拒否し、動的目的論すなわち生気論を採用するに至る」38頁

「[シャルル]ボネが言うような、『魂という言葉を著作の中で頻繁に用いる研究者は、生気論者と呼ぶべきだ』という主張には私は異議を唱える。一般的な答えとして、最近までそうであったが、魂(アリストテレスのvous[ママ、おそらくνους]に対応した)をその指標だと、多くの人間は考えてきた。ただしそれは、自然に属さない何ものかについての知識と理論がまだ混乱していた時代の話である。魂は、自然の部分には属さない、自然にあい対立するものである。ただし、双方とも絶対的現実性をもつものとして把握される」44頁

「古典的生気論は、J. F. ブルーメンバハ(1752〜1840年)をもって、その最高峰に登りつめる。
…少なくとも生気論の真の証拠とみなしうる地点へ彼は到達し、アリストテレスの地点からさらに本質的な一歩を踏み出しえたのである」49頁

「ビシャは、夭折したが、生気論者であった。ただし彼は生気論を論証することには失敗し、しかもそれは、形態形成の事実に立脚したものではなかった。彼は、『生命所有(propriétés vitals)』を、重力や弾性などと同じ水準のものと主張した」52頁

「生気論の真の証拠としては、生体の形成は、その部分が相互に影響し合う極小の構造を基礎する論理では不可能、という事例をあげなくてはだめである。しかし、ブルーメンバハがあげる証拠は、この時代に考えられる類似の例でしかなかった」54頁

「『根源的合目的性(primary purposiveness)』の概念は、ブルーメンバハとヴォルフが前成説に反対し、生気論に同意する論拠なのだが、この言い方がヴォルフの場合のいちばん明確な表現である。
 これに比べて、ブルーメンバハによる形成衝動についての作用様式の説明は、本質的に不明確で暫定的な性質のものであり、重要ではない」55-6頁

「[『判断力批判』の]カントが拒否したのは、以下のことである。第1に、有機体は作られた機械であること、第2に、それは特殊な物質から導き出されること、第3に、それが特殊な生気論的法則に従っていること、である。だが私が見るところ、カントは有機体をこの種の特殊な法則に帰属させていた。この3つの否認から(またこれを、構成論的世界に関するカントの結論と調和させることで)、彼が、有機体を一定の機械に格下げし、かつその起源は研究できない課題であると考えた、と推論できることになる。ここでカントは、人間を例外扱いしていることを除いては、『静的目的論者(static teleologist)』である」67頁

「カントは、自身が作りあげた偽りの課題で自説の論理的困難を拡大してしまった生気論者、と言うことができる」72頁

「カントは後成説を受け容れ、発生の生産能力について語り、生気論者ブルーメンバハに明確に同意する。その上で、間違ったかたちでブルーメンバハを引用する。はっきり、静的目的論の意味で『始原的有機体』を用いるのだが、この言葉は以後二度と使われない」74頁

「生物学の基本問題に対するカントの態度…全体をまとめると、彼の主張は以下のことを支持しているようにみえる。
 第1に、純記述的で、もっぱら規制的判断をする目的論。それは、正当な基盤を挙げることなく、それ以上の究極目的を求める原理に立つことを遮断するものである。
 第2に、生気論。ただしこれはカントが、すべての自然現象は先行する運動現象に究極的に還元できる、とするドグマに彼がとらわれており、同時にこの仮定が生命体に関するかぎり支持できないからである、と思える。
 第3に、静的目的論、もしくは力学的に生じるすべての基礎の上にある一定の構造の理論である。この見解はカントの表現の意味合いにより、第2の立場に近いものを意味しているのは事実である。例外は、ここでも生気論的な意味で、その活動的存在ゆえに、人間が挙げられている」74頁

「『判断力批判』における生物学的内容についてのわれわれの最終評価は、以下のようになる。人間とその行動に関して、カントは明らかに生気論者であったが、有機体に関して彼は、なお問題含みであった。彼は、静的および動的目的論の論理的な違いについて、常に意識していたわけではないし、自然科学のあるべき形についての彼の理想と、自身の生気論とは非常に矛盾したものであり、カントはこれに満足してはいなかった。その理想は誤った厳格な機械論であり、そこでは(まったく不思議なことに、われわれは歴史的観点からそう読みうるのに)魂のための活動空間はあるのに、魂に似た自然の作用因については存在していなかった」75-6頁

「有機体生成の教理とその法則について、シェリングは何も明確には述べなかった。むしろ彼は、生気論と目的論的機械論の間で、常に逡巡していたが、後に後者に傾いた。ヘーゲルもまた、客観的な要素的力に対抗して、連続する光として生命を記述するとき、生気論の特徴を帯びるのだが、完全なものではない」83頁

「本書においては、キュビエは名前を挙げるにとどめる。生理学の基本的問題で、彼は生気論的ではあるが、独自の論をもってはない。この点は、彼の別な領域での著作を検討すれば、明確になる。彼自身は、ビシャの理論に同意すると宣言している。
 よく知られているように、ゲーテの自然哲学に対する考え方に関して、とくにキュビエは『型』の概念を論じ、『エンテレキー』という言葉もよく使用するのだが、生気論の歴史からすると、明確な進歩が認められないから、名前を挙げるだけとする」84頁

「[ローレンツ]オーケンの奇妙な理論は本質的に、有機体の形態は他に還元できないとする、生気論の基本的真理に立脚している事実が読み取れる」86頁

「[J. C.]ライルは、生きる物質という観念に立脚した生気論的理論の、最初の主張者であり、そう明確に考えた人間であったが、理想(idea)から物質へどう移行するのかという問題の重要性に比べると、その理論はあまりに単純すぎた。彼は単に、理想をもつ物質の存在を認めただけであった」89頁

「トレビラヌスをもって、『スコラ的生気論』の創始と呼んでもよい。彼の主張の大部分は、先行者と大して変わりはないのだが、生理学的理論一般に生気論的システムを導入する学派がここから始まる、と言うことができる。それはこの学派の最後をかざる、ヨハネス・ミュラーまで続く」89頁

「トレビラヌスが初めて、生物学という言葉を、生き物についての理論全体を意味するものとして用いたことは、注目に値する。『われわれの研究の対象は、生命として違いを示す形態と現象、その事態が起こる条件と諸法則、それを生み出す原因についてである。これらの事柄に関わる科学を、生物学もしくは生命の理論と命名することにしよう』」90頁

どっちなんすかね…😅
twitter.com/9w9w9w92/status/13

「すべての物質は組織化されて、常に変化している。しかし、その組織化と変化において、変化の原因となる外部の影響が変化しないかぎり、永続する何かがある、という説である。生体の物質もその例外ではない。たとえば不可侵入性がそれである。トレビラヌスに言わせると、生体組織を構成している生体物質が例外であるのは、単に表面的なものであるにすぎない。宇宙の渦巻きから生じる自然を救うためには、宇宙の波動を打破するダムのようなものが在るはずである。これを媒介する力は、物質の可能性にとって必要な第一義の力ではない。『それゆえわれわれは、第一義的な力からこれを区別して、生命力(vis vitalis)と呼ぶ』」91頁

「彼[トレビラヌス]の場合、『合目的性』それ自体が、人工産物と比べて、生命を特徴づけるものである。本能的なるもの、無意識なるものが、彼の生気論的な理論全体の基礎になっている事実は、重要である。…『生きる存在と、魂を吹き込まれた存在(Beseeltsein)は、同じものである』」94頁

「彼[M. F. オウテンリース]によると、生命には、物質とは本質的に異なる何ものかが存在する。その『生命力』は、身体からは独立したものである」95-6頁

「彼[ティーデマン]の論は、細い部分ではつぎのような結論に達した。活性化されていない身体の存在は、化学的な構成要素において生じる休止の状態に依存し、有機体の存在と維持は構成物の持続的な変化によって条件づけられている、というものである。これは『動的平衡(dynamic equilibrium)』という現代的概念を連想させる」😅 97-8頁

「K. F. バルダハ…
 生命原理(life-principle)は、『機械仕掛けの神(deus ex machina)』ではなく、『生命仕様の神(deus ex vita)』を意味する。いかなる機械論的、化学的理論をもってしても、有機的な形成を説明するのは不充分である。しかし、生命原理は、物質を離れては構想することはできない。それは『物質的手段を介して』、分泌や同化などの有機体共通の活動を介して作用する。『その活性が生命の本質だとしても、物質は単なる偶然にすぎない』」98頁

「ショペンハウエルは、バルダハを、好意的にしかも頻繁に引用した。もちろん、彼が評価したのは、形而上学的な原子、『自然の意志(Will in Nature)であった。われわれは、ショペンハウエルは、自身が信じていたほどには、自然哲学としては大して違わない位置にあったことを、心にとどめておくべきである」100頁

ヨハネス・ミュラー「魂と生命との関係は、一般的な自然におけるすべての物理的な力と、その中で展開する物質との関係に対比できる。たとえば、光や、そこに出現する身体。双方とも謎は同じである」106-7頁

リービヒ「無機的な自然の力に関する知識が不充分であるために、有機物における特殊な力の存在はしばしば否認されてきた。この特殊な力は、無機的力の本性に抗し、その法則に矛盾する行動様式をもつ無機的な力に帰されてきた。その存在をあえて否定する人は、あらゆる化学的な結合は1つではなく、3つの原因、つまり熱と親和性に加え、凝集と結晶化における『形成力(formation forces)』が前提とされている事実に対して無知である」
「生体の中には、凝集力の優位にたち、元素を新しい形態へと結合させる第4の原因がさらにつけ加わる。それは、新しい質——生体の中を除いては出現しない形態と質を、獲得するためのものである」108頁

「彼[ショーペンハウアー]は、生物学を生気論的な意味で、還元のできない特別な法則をもつ独立の科学と見なしたが、同時に彼にとって生命は、一連の事象の最終項であり、他の自然との対比は何も行なわれてはいない」111頁

クロード・ベルナール「われわれは生気論者とは一線を画そう。なぜなら生命の力は、それにどんな名称を与えるにせよ、みずからは何もなすことができないからである。それが作用するには、自然の一般的な諸力の助けを借りてこなければならず、それら諸力を伴わずにみずからを発現させることはできないのである。——われわれはまた、唯物論者とも一線を画そう。生命の発現は、物理化学的諸条件の直接的な影響下にあるとはいえ、それらの条件が整ったからといって、生物に特別にあてがわれる秩序や継起へと、そうした現象をまとめ、調和させることはできないからだ」122-3頁

フォロー

「調和等能系とは別種の等能系が存在する。たとえば、卵巣はその第2の型であり、<複合等能系>(complex-equipotential system)と言える。調和等能系においては個々の要素すべてが、調和的に協力して全体を形成するのに対して、複合等能系では<各々の>要素それ自体が<全体>を形づくる能力をもっている。すなわち、そのような等能系では、実際、すべての要素が全体を作る能力を同等にもっている」197頁

「蓄音機は、<非常に単純な形で>受けとっているものを放つにすぎないのだが、生物の場合、個々の生涯で起きたことは、つぎの行動のための<一般的な可能性のストック>を形成する。ただし、これがつぎの行動の細部すべてを決定してしまうわけでもない。一般に、歴史性に依拠した行動すべてにおいて実際に起こっていることは、<個別的反応>(individual correspondence)の規準とも言うべき奇妙な原理に従って生じている。…真の行動はすべて、歴史性に依拠した個別の刺激に対する<個別の>応答である。
 そして、この歴史的に作られてきた個別的反応は、力学的因果性にあてはめて理解することができない」199頁

グールドみたいなこと言うてますな😅

「生物学の研究対象としての生体は、<統合化>もしくは固体化因果性の例を提示する。それは、形態形成や移動行動に関するかぎり、因果性の要素的形態の1つである。形態形成の進行過程で調和等能系が現れれば必ず、その<有機体>は、非力学的な因果性の1つの型としての、統合化因果性を意味する擬似的語法の実例であると言明できる。この統合系において空間的もしくは物質的な前決定なしに、ある<合計>(事象の可能性)が、ある<統合>(事象の現実の帰結)へと、転換される」201頁

「『川』、『島』、『山』、『街』に関しては、地質学的および心理学的生成と呼ぶわれわれの知識を基礎にすれば、概念としては統一体であるが、対象として統一性を意味し<ない>、ということができる。川や島や山を導き出した地質学的生成および、街の存在を導き出した心理学的もしくは心理=物理的生成は、明確に<単一>因果性(singular causality)の型であるからである。要するに、対象としては、これらすべての系は<合計>(sums)であり、それ以外の何ものでもない。実際、それらの存在はみな複雑化の過程によるものなのだが、その複雑化は<蓄積>(cumulations)であって、<展開>(evolutions)ではない。この場合、『展開」という言葉は、統合的生成を基礎にしたその内部からの複雑化を意味し、『蓄積』という言葉は、単一的生成の1つの位相が、ちょうど他の位相の上に重ねられるように、単純な条件を基礎にした外部からの複雑化を意味するもの、である」203-4頁

「われわれは、進化論(the theory of descent)を真理であると認める。ただし、ダーウィン主義やラマルク主義は、この問題の核心に触れるものではない。これらの説は、二次的な重要性しかもたない、その一部分に適用できるにとどまる[😅]。われわれは、系統発生に関して本当の『理論』を<もっていない>」205頁

「歴史に関しては、少し確実なことが言える。なぜなら、われわれ自身がその真中に立っているからである。この『中央に立っている』ことが、一面で、真の知識に関して特別で、奇妙な不利益にもつながっていく。われわれは、展開[evolutions]としての歴史の中央に立っている<がゆえに>——かりに歴史が1つの展開であるとして——、われわれはその展開の特徴を明確には評価できないし、将来もできないであろう、とも言えるからである。
…ただし、『歴史』あるいは人間社会には、超個体的な全体性の印象を与える、いくつか重要な特徴がある。その特徴の第1は、繁殖という生物学的事実であり、第2はヴェントの言う『目的の多様性』、すなわち人の行動は個々の行為者の期待とは異なった、いわば創造的な効果をもちうる、という事実である。超個体的存在の第3の特徴は、<道徳性>(morality)、もしくは言葉の最も広い意味での道徳的感情という事実である」205-6頁

「かりに歴史の中を真の展開の主潮が貫流しているのが確かめられたとしても、歴史の中に蓄積は確実に存在する。蓄積と展開のある種の混合が、歴史的に創造されたどんな系にも認められる。
…かりに、歴史に対して仮説的に展開的性質を認めるなら、歴史の中には展開と蓄積が確実に混在している。これはおそらく系統発生でも同じであろう。しかし、ラマルクやダーウィンの理論は系統発生のうちの『蓄積』を説明するものであり、われわれは未だ、実際の系統発生がいかなる種類の展開であるかを真に語りうる理論をもっていないし、おそらくは決してもつことはないだろう、と言うことができる」207-8頁

「秩序一元論は、全宇宙が1つの秩序として考えられなければならないという、1つの論理学的要請である。こう考えることは、そもそも生物学や歴史の基礎としては不可能である。なぜなら、どちらも偶然や偶発事件とが混在する統一体だからである。
…経験科学は歴史や生物学と同じように、統一体の問題を提示すらしないで、すべての素材を躊躇なく単一因果性の図式に委ねている」215頁

「ハーバード大学のヘンダーソン教授は、最近『環境の適応(The Fitness of the Environment)』と題する注目すべき本を著した。私は、教授の生気論の問題に対する姿勢には賛成しない。彼は、われわれの言う機械論、生命の静的目的論の考え方を擁護している。しかし、これは問題の核心ではないし、彼の仕事の積極的な成果に比べればささいなことである。…その研究の成果は、生命のすべての現象は結局、他の化合物の常数と比べ、水や炭酸ガスの常数がもつ例外的特徴を本質的にその基盤にしていることを示した。…
 これは、自然界の調和という古典的な問題の、現代的で精密な定式化である。そしてこの調和こそは、宇宙一般の中の統一体、もしくは個体性の記号(sign)に他ならない」216-7頁

「われわれの研究の一般的な結論は、<必要条件>(postulate)としては秩序の一元論に、<事実>(fact)としては秩序と偶然の二元論になる。二元論であることを知っているにもかかわらず、一元論的な要請を救う唯一の可能性は、<原理的に不可知である>とする形而上学の可能性に頼ることである。つまり、空間的記号をもたない実在性の領域が『存在し』、人間の経験は空間的に制限されている以上、生物学的問題も十分満足には解きえない、という仮説に依拠することである」217-8頁

「秩序の理論の一部分としての、自然に関するわれわれの理論すべては、非教条主義的でとりわけ非形而上学的なものとなる。そしてこの自然の理論は、ほんらいの生気論、さまざまな可能な形の超個体的統一体、そして一元論と二元論、の理論を含む」219頁

「時間を完全に別にして、経験される空間性に対応するもの以外に、『絶対』の中に<1つの>特別な関係の系が確実にあり、われわれはその系については、空間性の記号の下で、われわれが知っている系を切断したり交差(across)するかぎりにおいて、知りうるだけである。この理由ゆえに、単純な秩序の理論の領域においてさえ、われわれはただエンテレキーの存在について知るだけで、それ自身のあり様については何も知りえないのである」😅 222頁

「われわれは、決定の概念を強調し、歴史を超個体的エンテレキーによってその生成が決定される超個体的な展開であるもの、と想定してみた。この歴史における生成の前決定論は、われわれが<実際>に用いることはまったくなかった。なぜなら<われわれは>、エンテレキーをその表出(manifestations)から離れては、知ることができないからである。しかしそれは原理的には存在しており、秩序の理論はこれを述べなければならなかった。この理論に従えば、純粋なすべてのエンテレキーについて知っている、歴史の展開的な生成を予言しうる超ラプラス的な精神を想像することは、<可能>ではある」223頁

Driesch, Hans. (1914) The Problem of Individuality, Macmillan.
=2007 米本昌平訳「個体性の問題」227-313頁

「個々の生物が多様度のある型を成しており、それは同時に1つの統合を成していて、技術的に単一の言葉でその本質的特性を表わすとすれば、全体性(wholeness)を体現している。この事実を、誰も否定できない。そしてまた、生物が出現してくるほとんどの過程がこの全体性を維持しており、これが乱されれば回復される事実については、少なくとも否定することはできない。この前者の過程は、一般には発生もしくは個体発生と呼ばれ、後者の過程は、形態の全体性が回復されるのであれば、回復もしくは『再生』と呼ばれる。もし、生物の生理学的状態が乱されてその後に回復すれば、それは適応と表現される。実際の全体性は、このような生物の形態としての全体性だけでなく、生活や機能の形を成すものである」233頁

「実際に全体性を生じさせる全過程を、目的論的(teleological)な、もしくは合目的的な過程と呼ぶことにしよう。『目的論的』という表現は、人間の行動のアナロジーにたって、一定の未来を記述するための、ある瞬間に割り当てられた単純な言葉以上のものではない。個々の生物は、統一のとれた多様性、すなわち実際的な全体性を示すものである。また少なくとも、発生、再生、適応の3つの過程は、あたかも全体性の存在が『目的(purpose)』であるかのような、全体性を保持する過程である。これらは常に全体性を保持し、常にこれは生じ、また生じ、無限にこれが生じることになる」234頁

「生気論とは、われわれは少なくとも消極的な意味で、生命には、機械のような、あるいは力学的な型の過程ではないものがありえ、それはただ形式的な意味以上において、目的論的、もしくは合目的的と呼びうることを意味する。
 生気論の考え方は必然的に、出発点ではその消極的性格ゆえに、この重大問題についての議論が部分的には論理的な型にならざるをえない。もし生気論が証明しうるとすれば、その証拠は、比喩的なものであり、否定形の、機械は生命の基礎とはなりえない、という確信のみから成るものである。機械論の考え方は、そのかぎりにおいて積極的な形で定立されてきた。それは機械なのか否か、という問いとしてである」235頁

「適応という事実すべてが、さきに定義した意味において、<目的論的>(teleological)である点に、いささかも疑問の余地はない。それらはまた、攪乱されると機能的な全体性を回復する。生物とは単に形態に関して<全体>(whole)であるだけでなく、生き物として、つまり機能的な形において<全体>をもっていることを、われわれは知っている。…
 ここで生命の機械説(machine-theory)と生気論を対比してみよう。いま述べた適応の事例だけをもって、このようなふるまいを予め基礎づけられている機械はありえない、と断言はできない。だが、こんな機械は、非常に不可思議で、機械としてはほとんどありえないものであろう。生物が一度も出会ったことがない物質から自身を防御するために抗体を生産する例などは、とくにそうである。そんな機械は不可能であり、この<不可能性>こそ、生気論が確立されなくてはならないゆえんである」238頁

「ルーとワイズマン[ヴァイスマン]は最初、正常な条件下での卵割の予定実現態[発生予定運命]はその予定可能態と『一致する』、言いかえれば、、その可能態は厳しく限定されており、またルーは自身のカエルの分割による実験によってそれは証明されたと信じていた。しかし私はウニの卵を用いて、少なくとも、予定実現態と予定可能態は<同じではなく>、予定可能態の範囲、言い替えれば形態学的運命に関する可能性は。観察される予定実現態、つまり眼前に展開する実際の運命より<はるかに大きい>ことを示すことができた」241頁

「分割胚における予定運命が固定されている事実は、ワイズマン学説とはまったく逆に、核に多様性はまったくなく、卵割が始まる以前には原形質の中では予定運命のいかなる特定化も起こらないこと、むしろ、いわゆる成熟以前には、これは確実に維持されることが示された。また、分割胚における核の相互の相対的位置を加圧実験によって根本的に変更できるし、成熟前の卵から任意の部分を取り除くことができるのだが、双方の場合とも、完全な胚を得ることができる。かくして、われわれの実験結果から、胚は<万能性>をもつと言うことができる」242頁

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