「トレビラヌスが初めて、生物学という言葉を、生き物についての理論全体を意味するものとして用いたことは、注目に値する。『われわれの研究の対象は、生命として違いを示す形態と現象、その事態が起こる条件と諸法則、それを生み出す原因についてである。これらの事柄に関わる科学を、生物学もしくは生命の理論と命名することにしよう』」90頁
どっちなんすかね…😅
https://twitter.com/9w9w9w92/status/1335908761458757634?s=61&t=respR7r04qX1B_3D9mrIuA
リービヒ「無機的な自然の力に関する知識が不充分であるために、有機物における特殊な力の存在はしばしば否認されてきた。この特殊な力は、無機的力の本性に抗し、その法則に矛盾する行動様式をもつ無機的な力に帰されてきた。その存在をあえて否定する人は、あらゆる化学的な結合は1つではなく、3つの原因、つまり熱と親和性に加え、凝集と結晶化における『形成力(formation forces)』が前提とされている事実に対して無知である」 「生体の中には、凝集力の優位にたち、元素を新しい形態へと結合させる第4の原因がさらにつけ加わる。それは、新しい質——生体の中を除いては出現しない形態と質を、獲得するためのものである」108頁
「真の生気論、少なくとも生命の形態について目的論的な考え方に言及している思索家以外で、注目してよい人間としては、晩年の[フォン]ベアがいる。彼は、1860年代〜70年代に、講演や講義の中で繰り返しその見解を説いた。 古典的生気論の中でのベアが果たした役割は二次的である。…目的論的な説明を採用する中で、ベアはダーウィン主義への反対陣営に加わった。 …彼の主張内容を、はっきりした考え方として切り出すのは、実に難しい。彼は、生命過程を有機的な構成の結果とは見なさず、『有機体それ自身が構成し変換するリズムとメロディー』と言っているのである。生命過程を『自身の体を自ら作り上げる創造的思考』と定義したり、型と特殊性との連関を彼は『調和とメロディー』だとするのだが、これなどは単なる比喩でしかない。 ベアは、刺激を『なにか初源的なもの』以上には明らかにしなかった。それは身体の構成から生まれるのではなく、『生命過程を完成させるもの』として、その上位に位置する。幸いなことに彼は、『良心』を『本能の最高形態』と呼ぶのである」140-1頁
「ハルトマンは、現代哲学の代表的人物であり、また、生気論の問題を考察する唯一の現代の哲学者である。…ハルトマンの哲学体系を一言で言えば、『生物学的』であることである。それは、生物学を基礎としており、形態形成、本能、そして人間行動における心理と物理の関係に関して、たいへん生気論寄りに生物学を解釈する型の哲学である。 …ハルトマンの理論は、生気論の歴史にとってはきわめて重要である。それは、要素的生命因子と無機的な因子との関係を明確にするために、生命の自律性の教義を厳格に適用しようとする最初の試みだからである。…ただしハルトマンの理論は、事実問題として生気論に直接関わるものではないし、生命についての機械論的解決が不可能であることを、厳格に示したわけでもない」147-9頁
「1894年に、[グスタフ]ヴォルフは、ダーウィン主義か目的論か、という問いに対する解決策として、明確に企画された実験を行なった。彼の目的は、生物が最初の発生過程において、いったん削除された器官を回復させるかどうかを確かめ、その回復がどうなされるかを調べることであった。この実験の積極的な成果として、『初源的終局性(primary finality)』が証明された。それは一方で、ダーウィン主義をばかげたこと(ad absurdum)と格下げにし、他方で、積極的適応という事実によって、重要な形で目的論を支持するものとなった。
実験は、イモリ(Triton taniatus)の眼からレンズだけを取り除くというものである。実験では新しいレンズが、虹彩の外縁から成長し再生された。それは、通常の発生に対する対応ではないにもかかわらず、問題の合目的性にとって最適な形でことは進行したのである。
かくして、初源的終局性は実証された」😅 161-2頁
「生物が保持する形態の調節の能力について、数年間、実験を行ない、1891年以来続けてきた発生生理学での実験結果を集成し考察を続けた結果、『調節(regulation)』概念についての論理的分析の結果と、『行動(action)』概念を結びつけることで、私[ドリーシュ]は意見をすっかり変え、生気論を完全な体系へと完成させてきた。
すでに1895年に私は、『行動』の問題の分析から、生気論が必然であることを確信するようになった。…1899年の初めに『形態形成の現象における定位 生気論的現象の証拠』…これは、生命の過程は少なくとも、それ自身の法則に従う、動的目的論的な、自律的なものとしてはじめて理解可能であることを明確に論じた、最初の著作である。
…1903年の私の著作、『要素的な自然要因としての「魂」』…において、私は、人間の行動を客観的な運動現象として分析した」164-5頁
「1899年に、パウル・ニコラウス・コスマンが『経験的目的論の要素』…を出版した。…この本は、目的論概念の論理的な定義の枠組みを特別に設定しており、そのため、カントの『判断力批判』といくつかの接点をもっている。
…彼によれば、因果性は普遍的であるが、それだけで妥当性をもつわけではない。彼はこれに、判断の公理として目的論を併置する。そこでは必然性がこれに連動して扱われる。なぜなら必然性の理想は、因果性のそれよりもはるかに大きいからである。一般的形式はこうである。C(原因)=f(E)(効果)、これで因果理論は充分である。『原因』と『効果』という言葉は、ごく一般的な意味で、考慮対象となるすべてのもの全体を要約したものとして用いられる。目的論は、このように形式化される。M=f(A, S) ここで、Mは媒体を、またAとSは、仮定と結果を意味する。
…コスマンは、『生気論か、機械論か』の問題を解決できなかったとしても、少なくとも積極的な意味で、単なる偶然によっては説明できない、生気論的目的論の深い重要性に、決定的な評価を与えた」165-6頁
「可能な変化の進行を留保したり解除したりすることは、個体化因果性を担うものの『作用(action)』様式であり、以後、われわれはこれを、エンテレキー(entelechy)と呼ぶことにする。この名称は、アリストテレス形而上学の用語としてよく知られているが、ここでの用法は、厳密にはアリストテレス哲学のそれに従ってはいない。 …エンテレキーの作用は、与えられた可能性の留保というかたちで存在するという、われわれの理論によってはじめて、従来の古典的生気論(そして現代生気論の多く)が陥っている、きわめて深刻な誤りを回避することができる。これまで生気論に対しては、発生や適応で生物は実際には限界があるのに、生気論の学説に従うと、全能のものになってしまう、という反論がなされてきた。しかし、われわれの理論に従えば、この『調節能力の限界 limits of regularabliity』はこう解釈できる。つまりそれは、エンテレキー作用が働きかけるところの、一定の前形成されている物質的条件に拠るのだ、と」190-1頁
「エンテレキーが物質次元の生成の進行を留保していたのを解除し、1つ可能性を現実化させる、とわれわれが言うとき、力学的な意味における生成の障害がエンテレキーになって取り除かれる、とわれわれは言っているのではない。このような力学的な意味における解除(Auslösung)は、エネルギーを必要とするが、エンテレキーは定義によりエネルギーではないのである。エンテレキーは、ただ、それが可能な状態にあれば、それ自身で現実へと進行しうるものを許すだけであり、単純に物理化学の影響の結果としてなる状態のことではない。
自然の中におけるエンテレキーによる留保の起原を語るのは無益である。つまり、<生命の起原>を語るのは無意味である。この問題に関して、われわれが、何か明確な発言をすることは絶対不可能であり、同様に、<死>(death)の意味についての議論も意味がない」192頁
「自然に対して、全体性概念は認めるが統合化因果性を認めない理論的立場は、生命的自然だけを念頭におけば、自然の<機械説>(machine-theory)と呼ぶことができる。この機械説は、自然(もしくは生命)を単なる偶然領域に属すると考えることについては、すでに反対の立場にある。
そしていまや、生気論として、生命は単に偶然の領域のものでないだけではなく、機械説をもっても把握しきれない現象であることを示しうる地点にまで到達した。
生気論のすべての<証拠>、つまり、機械説をもっても生命現象の領域は覆いつくせないことを示す合理的な根拠づけは、間接的証拠によってのみ可能である。それは単に、力学的もしくは単純因果性では、生じている現象の説明としては充分でないことを示しうるだけである」194頁
「実験分析発生学——ルーが名づけた発生力学——の成果は、以下のことを明らかにした。多種の発生初期の器官や一部の生物では、実験によってどの細胞群を取り除いても、その残りの部分が、小さくはなるが正常なミニチュアへと発生しうる場合が存在しうる、ことである。換言すれば、実験的に残された発生初期の器官や生物の部分から、生体の一部分が発生するのではなく、小さいけれども体の<全体>が発生する事態を予想してよいのである。私は、この型の器官や生物を表わすのに<調和等能系>(harmonious-equipotential system)という名前を提示した。このような系では、すべての要素(細胞)が同じ形態発生的『潜在能(potency)』を保有しているはずである。…しかもこれらの要素は、毎回の実験でともに『調和的』に作用する。この等能性と調和的作用を根拠にしてはじめて、実験結果は、現に起こったようなものとして、説明が可能になる。
発生初期の器官の中では、初期段階の卵割や胚葉系が、この調和等能系の例である。
…動物成体はすべて、さまざまな度合いで回復(もしくは再生)可能、つまり、傷を負ってももとの形態を回復できるから、調和等能的であると言える」194-5頁
「彼[ヴァイスマン]の理論は、さまざまな実験が行なわれるまでは正しいものと思われていた。だが今では、実験によって、いかなる大きさでどの部分を切り取られても、残された部分が、形の比率を乱すことなく発生しうる系があることが示された。この事実は、『機械』は調和等能的な分化現象の基礎たりえないことを示している。なぜなら、<もしあなたが任意の一部分を取り除いてしまうと>、『機械』は、物理・化学的な物質や作用因をもって特別の調整を行なったとしても、<それ自身を保持しえない>。ところが生物では、まだ発生していない調和系なら、どんな削除実験をされても、形態学的機能に関しては、それ自身を保持できる。
だから、調和系は『機械』ではない。…自然の中の非力学的作用因である『エンテレキー』が、調和等能系において作用している」196-7頁
今だと、幹細胞や万能細胞で説明し尽くされる現象でせうね😅
「蓄音機は、<非常に単純な形で>受けとっているものを放つにすぎないのだが、生物の場合、個々の生涯で起きたことは、つぎの行動のための<一般的な可能性のストック>を形成する。ただし、これがつぎの行動の細部すべてを決定してしまうわけでもない。一般に、歴史性に依拠した行動すべてにおいて実際に起こっていることは、<個別的反応>(individual correspondence)の規準とも言うべき奇妙な原理に従って生じている。…真の行動はすべて、歴史性に依拠した個別の刺激に対する<個別の>応答である。
そして、この歴史的に作られてきた個別的反応は、力学的因果性にあてはめて理解することができない」199頁
グールドみたいなこと言うてますな😅
「『川』、『島』、『山』、『街』に関しては、地質学的および心理学的生成と呼ぶわれわれの知識を基礎にすれば、概念としては統一体であるが、対象として統一性を意味し<ない>、ということができる。川や島や山を導き出した地質学的生成および、街の存在を導き出した心理学的もしくは心理=物理的生成は、明確に<単一>因果性(singular causality)の型であるからである。要するに、対象としては、これらすべての系は<合計>(sums)であり、それ以外の何ものでもない。実際、それらの存在はみな複雑化の過程によるものなのだが、その複雑化は<蓄積>(cumulations)であって、<展開>(evolutions)ではない。この場合、『展開」という言葉は、統合的生成を基礎にしたその内部からの複雑化を意味し、『蓄積』という言葉は、単一的生成の1つの位相が、ちょうど他の位相の上に重ねられるように、単純な条件を基礎にした外部からの複雑化を意味するもの、である」203-4頁
「歴史に関しては、少し確実なことが言える。なぜなら、われわれ自身がその真中に立っているからである。この『中央に立っている』ことが、一面で、真の知識に関して特別で、奇妙な不利益にもつながっていく。われわれは、展開[evolutions]としての歴史の中央に立っている<がゆえに>——かりに歴史が1つの展開であるとして——、われわれはその展開の特徴を明確には評価できないし、将来もできないであろう、とも言えるからである。
…ただし、『歴史』あるいは人間社会には、超個体的な全体性の印象を与える、いくつか重要な特徴がある。その特徴の第1は、繁殖という生物学的事実であり、第2はヴェントの言う『目的の多様性』、すなわち人の行動は個々の行為者の期待とは異なった、いわば創造的な効果をもちうる、という事実である。超個体的存在の第3の特徴は、<道徳性>(morality)、もしくは言葉の最も広い意味での道徳的感情という事実である」205-6頁
「人間の行動に関係して、われわれが、生命の機械説を否定する際に用いる論理は、また、いわゆる<心理=物理並行論>(psysho[ママ]-physical parallelism)の理論への反論の一部ともなるものである。並行論とは、心理現象は完全な力学的過程の因果連鎖の『別の一面(the other side)』にすぎない、とするものである。…
…生気論者は、一部の心理学者が主張する人間行動の並行説という教義は、少なくともそれが、人間行動の自然的局面は破壊を受けない一連の力学的な流れである、とする断定を含むかぎり、受け入れることはできないのである」259-61頁
「<エンテレキーは物質に依存しない>
…エンテレキーは、定義された意味における空間中の物質としての『特性(property)』、属性、出来事、あるいは同様のものではないことを、われわれは把握する。…『量』とか『計測』という概念を、多様性の<調節>(arrangement)に関係する何ものかに対して適用することなどはナンセンスである。
かくして、エンテレキーの存在は、その積極的な効果について語りうるものがないため[😅]、空間中の物質には依存しないことになる。空間中の物質に依存しないという同じ理由によって、エンテレキーは、エネルギーの一種ではないと言うことが可能になる。なぜなら、エンテレキーは<空間中での因果性の測定>(measurement of causality in space)以外のものであるからである」263-5頁
「<エンテレキーの調節作用>
…生命において機能する非=力学的な作用因が、その留保がなければ起こったであろう、ある種の出来事を留保している…とする仮説…ここでわれわれは、非常に特殊な非=力学的(non-mechanical)な出来事を把握しており、そしてそれは、調節能力の限界を理解可能にするものである。エンテレキーは、物質的な条件に縛られたものであり、それは存在ではなく、効果の中にある。いわゆる生命の物質的な<連続性>(continuity)は、いまや単に以下のような意味になる。『ポテンシャル』の違いという形で、出来事について非常に多くの可能性を包含した、ある種の物質の糸が、技術用語を使えば、永久にエンテレキーの制御の下にある、ある物質の糸が、存在するのである。
この、エンテレキーの部分における制御行動がどこから来るのか、われわれはまったく知らない。だから、われわれは、<生命の起源について何か言明することは絶対に不可能である>」😅 267-8頁
「この[調和等能]系が、たとえばn個の細胞から成り立っており、すべてが等能であるとする。このことは、n個の細胞のそれぞれに、<同じ>だけの多数の生成についての可能性が、物理=化学的に、ただしエンテレキーに支配されて、準備されている[ここの日本語おかしい]。この系の発生は、いまやエンテレキーが<保留している力を弛緩させ>…それによって事態が進行するのを許すのである。…それぞれの細胞の中では、おそろしく多くの可能性の中から、それぞれ1つのことが起こりうるのである。このようにおそろしく多くの出来事がエンテレキーによって留保されている系が、エンテレキーの調節的な弛緩作用によって、可能性の均等な分布から実際の効果として不均等な分布へと変換することが、起こるのである。これがエンテレキー領域部分の、全能可能性ではない、すべてである。
われわれが仮定したエンテレキーの弛緩作用は、絶対に非=エネルギー的である…エンテレキーの弛緩作用は、保留の作用と同様、それ自体(sui generis)の作用である。
このことは、力学的および非=力学的な世界の間の因果関係を、有機的生命は物質によって制限されているという事実を犠牲にすることなく理解可能にする、ただ1つの可能な道のように、私には見える」268-9頁
「われわれは、進化論を無条件に受け入れる。とくに動物と植物の地理学的な分布と、古生物学から引き出される、強烈な議論はこの説を支持している。しかし、いわゆる系統発生の<法則>(law)についてはどうだろうか? ラマルクとダーウィンの名に関連した有名な理論は、真の系統発生の法則を説明していないことは、今日、広く認識されていると見てよい。双方の理論とも、ある領域では真であるにしても、それらは、主たる問題、系統発生における見かけ上の<進行する複雑さ>(progressive complication)の問題には届いていない。双方の理論は、ある種の生物におけるある種の適応について、たとえば、獲得形質の遺伝といった、付加的な仮説の助けをかりて辛うじて説明が可能になるだけである。不幸なことに、系統発生の<中心的な>…問題に関して、われわれは<絶対的に無知>…なのである。これに対してわれわれは、形式的で仮説的な解決を提示できるだけである。それは、ちょうど個体的エンテレキーが個体発生において自身を実現させるように、系統発生の過程という空間において自身を実現させる、ある種の超個体的なエンテレキーが存在する、と仮定することが可能なだけである」289頁
「自然の調和(harmony of Nature)という古代の観念が、現代的な形をとって再び前面に出てきたことは、私には非常に重要なことに思える。…ここでは、アメリカの生物学的化学者、ヘンダーソン教授の注目すべき著作、『環境への[の]適応(The FItness of Environment)』で示された、重要な成果について述べておきたい。ヘンダーソン教授は、水と炭酸がもつ多くの例外的な特性に注目するよう呼びかける。…水と炭酸の間には相互適応に似た状態があり、生命ともそうなのである。そしてこれは、有機的および非有機的な自然を含む宇宙一般の、ある種の全体性もしくは目的論を証明しているようにみえる」298-9頁
「われわれは、有機的な自然の中に、物理=化学の型には属さない、それ自身の自律性をもつ、大きな一群の現象が存在することを証明しえたと考えている。ただしそれは、単なる<否定的な>言明以上のものではないのである。そこでわれわれは、アリストテレスの用語である<エンテレキー>(entelechy)を、われわれか研究してきた、生命の過程において機能する自律的な作用因を指す名前として導入する。これはそれ以上のことはいっさい意味しない[😅]。エンテレキーは、非物理的・化学的な何ものか、である。そしてそれに帰属すると確実に言いうる唯一の積極的特徴は、それが現実の基礎的な作用因であり、自然因子であるということだけである。…ここでは、エンテレキーの<暫定的な否定的性格>(provisional negativeness)を認識することがとくに大切である。なぜなら、生気論者がしばしば犯す誤り、つまり深く考えることなしに生気論的な作用因を何か『心理的(心的 psychical)』なものと見なしてしまう誤りから、われわれ自身を回避する道だからである。<機械論的>なものに反対することは、単に<非=機械論的>であることであり、即、それが『心理的』であることを意味しない」262頁