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「『有機体の哲学』の成功によって、ドリーシュは1910年代〜30年代における生物学的思想と哲学一般に、無視できない影響を与えた。哲学的な広がりについてここでは詳述しない。動物学者のヤコブ・フォン・ユクスキュルの名前だけをあげておく。…そもそも、ドリーシュの独我論と現象学とは、その哲学的な姿勢がよく似ており、フッサールはこの本[『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』]の冒頭で、ドリーシュとまったく同じ意味でエンテレキーという言葉を使用している。『人間性そのもののうちにエンテレキーとして本質的にふくまれていたものが、ギリシャ的人間においてはじめて発現するにいたったのではないのか、が決定されるであろう』」337-8頁

「戸坂[潤]は、ドリーシュの新生気論を詳しく紹介した後、その結びで、『有機体には無機物とは質的に異なった性格がそなわっており、したがってそこには固有な法則(自律性)が支配する。この質的相違が生物の合目的性として、われわれの問題になってきたのであった』…としている」339頁

ハンス・ライエンバッハ「何よりもわれわれは、ドリーシュがエンテレキーなる概念の導入によって彼の実験に与えたところの形而上学的説明を、まったく支持できないものとして否定しなくてはならない。エンテレキーとは、有機体の発生の目的規定性を因果的因子と同じような意味において、もち上げるよう作為された、欺瞞的構成物以上の何ものをも意味しない」341頁

「結局、ベルタランフィは『エンテレキー抜きのドリーシュ』という生命観を語ることに徹することで、知的社会の中での正当性を得るのに成功していった」343頁

「エルヴィン・シュレデインガーは、名著『生命とは何か』(1944年)で、『生命は負のエントロピーを食べて生きている』と表現して、課題のありかを指し示した」344頁

「いわゆる生気論者が問題にしたのは、エントロピー拡大をするエネルギーの第2法則に関してであり、情報量が負のエントロピーとして定義されたことで、現在から見ればこの問題は決着をみたことになる。エンテレキー抜きの生命観を展開したベルタランフィは、より一般的な理論化をめざした『一般システム論』(1968年)を提唱することになる」344頁

「彼[フランシス・クリック]は、1966年に遺伝暗号表の解読がほぼ終わったのを見届けると、新たな課題を求めて脳研究へと移っていった。これと同時に彼は、猛烈な生気論批判を開始した。『正確な知識は生気論の敵である』という一文で始まるクリックの書、『分子と人間(Of Moelcules and Men)』(1966年)の主張は、きわめて明快である。彼はここで、生命現象のあらゆる次元で、物理・化学で説明しえない部分をいささかでも認めようとする同時代人の見解いっさいを、生気論と裁断し、非難したのである」345頁

脳研究に移ったクリックが見出したのが、若きクリストフ・コッホですた

Driesch, Hans. (1914) The History and Theory of Vitalism, Macmillan.
=2007 米本昌平訳「生気論の歴史と理論」1-226頁

「生気論の主たる課題は、生命の過程が合目的的(purposive)であると言うことは、正しいのか、にあるのではない。そうではなくて、生命の過程における合目的性が、無機的科学にとっては既知である要素の特殊な配置の結果であるのか、それともそれ自身に特有な自律性(autonomy)の結果であるのか、という点にある。というのも事実問題として、生命現象に合目的性が大いに存在することは、目的の概念定義そのものと、この定義を生物に適用することから、直接的に演繹されることだからである」xiii

「私は、合目的性を、大半の動物の運動、それが実際に行動と呼びうる一群の高等動物のそれらに対してだけではなく、本能や反射などその固定性から普通は行動とは言わないものまでに広げる。…
 こうして最終的には、何らかの意味で目的をもち、ある一点に向かっていると見なしうる、純粋に記述的な概念である合目的性の下に置くことができる、生命現象のすべてを把握することになる」xiv

「ある過程を合目的的と表現するためには、目標の概念と連動している必要があること、目的論の概念はさまざまな過程に拡張されること、そしてその拡張は生命現象に限られること、少なくとも狭義の自然対象に関わるものに限られること、である。なぜなら、目標が存在することを任意に仮定しうるのは、もっぱら生命に関係した場合であり、ともかく限定条件をつけずに考察できるからである」xv

「静的目的論(static teleology)と動的目的論(dynamic teleology)…
 静的目的論は、有機体の力学説(mechanistic theory)に基づいた立場である。これによると、生命過程やその秩序は、他のいたるところに妥当する法則による、世界の一般的秩序の特殊なケースに過ぎない。その集合体のそれぞれすべての要素は、自然の同じ要素から偶然そう成り立っているのであり、それらの過程はまとまって結果的に『生命』となっている。この見解に従えば、生命とは単なる組み合わせに特徴があるのであり、何か特殊な法則性によるものではない。…
 動的目的論はよく言われているように生気論(vitalism)の立場をとる。この立場は『生命過程の自律性』の認識に向かう」xvii

「歴史上、典型的な生気論的説明という点で、アリストテレスは、全歴史を通じて、古典派の代表的人物と見なすことができる。それどころか、彼の生命現象に対する考え方が、18世紀に至るまでのすべての理論の基盤となった点で、彼は中世および近代初期における生命概念をも代表する地位にあると考えられる。つまり、生命に関するアリストテレスによる理論的研究は、生物学史全体の中での要石でもある」3頁

「科学的『生気論』の最初の主張者が、今日で言うところの、形態形成もしくは発生学の諸問題をその出発点としている事実は、実に興味深い。この意味ですでに、アリストテレスは生気論者の典型である。彼は古典時代と中世を通じて生気論の典型的人物であるだけではなく、最近に至るまで全生気論の先駆者でもあった。動物の運動における調整現象に加えて、胚からの形態形成の現象は、常にすべての生気論の出発点であった」4頁

「エンテレキーは、それが現実のものになっていないにしても、言葉のもっとも高度な意味で『在る』のである。この意味において、彫像は、現実化する前に彫刻家の心の中に存在する。エンテレキーの概念は、ダイナミクスの概念よりは、現在の可能性の概念と、完全ではないにしろ、対応している」6頁

「魂はエンテレキーと同じように体を組織化する…アリストテレスはここ[『霊魂論』]で再度、魂はすべての生きるものの原理であることを確認する。それは、最も広い意味において魂とは、後に、『生存と器官を保持する能力を内にもった生命体の第1の現実である』、という有名な定義にたどり着く、伏線である」9頁

「アリストテレスの生命観は純粋な生気論であり、純粋に生命現象の全体的考察から生まれ、何か別の学説に対する論争の産物ではないゆえに、私はこれを、原始的もしくはナイーブな生気論と呼びたい。…彼は、デモクリトス派の唯物論から批判され、後のエピキュロス派の学説も彼に対する対抗説の一翼をになった」11頁

「アリストテレスの生命論体系の重要性を強調しすぎることはない。プラトンに基礎を置いてはいるが、アリストテリス自身による論理の厳密化によって、自然への考察に対するプラトンの影響を拒否する結果になっている。彼は、エンテレキー概念によって、プラトンには欠けていた、イデーと現実との連関について考察した」12頁

「ルネサンス期の偉大な哲学者によって、自然の全理論は力学の影響下に入り、力学的なものになった。そして生命観も力学化した」14頁

「アリストテレスと同様、ハーヴェイもまた、素朴な生気論者であった。彼は、経験を通して自然について彼が見つけたものを言語化しようと努力した。明らかにこの経験は彼の説に、特別な生気論的自律性をもたらした。
…ハーヴェイの理論的成果はあまり影響力をもたなかったが、その後ほぼ1世紀にわたって生気論的課題の権威と見なされ、その後継者の見解と比べると、より基本的で注意深い主張であった」20頁

「シュタールの立場は『アニミスト(物活論者)』であり、生気論者ではない。しかしこの違いは、シュタールの影響が強いモンペリエ学派の中ではたちまち消えてしまう。この学派は生気論にはっきり立っているからである」28頁

「後成説の信奉者は全員が生気論者であり、すべての論争が重要である」30頁

「[ビュフォンの]『内の鋳型』の結果に由来する力は、生長を促進し、生殖器官の中に特別な秩序を集約させる物質の過剰分のすべてを、この力に適合させるような影響下に置く。ここにダーウィンのパンゲネシス説との並行関係がある。…ここでは、生殖細胞の起源について真の生気論的な説明がなされている。…ビュフォンが、発生について展開説[evolution]に立つにもかかわらず、生殖細胞の形成については特別な生命力(vital forces)の効果を認めている」32頁

「ビュフォンの業績を批判的にまとめるとすれば、生気論自体としての意味ではなく、彼の方法論の生気論的正当化についての評価に、尽きるのではないかと思う。ビュフォンは、生気論を論証しようとは思わなかったが、彼は科学的正当性を示そうと努力したことで、素朴な視点から洞察力をきかせた理論を展開することになった。ビュフォンはシュタールより偉大だ、という時(ただし後者の分析はビュフォンをはるかに凌駕しているが)、それは彼がつぎのことをはっきりと認識していた事実に起因する。つまり、機械論に比べて何かしら新しいことを言明しており、自分にはそれを言う権利があるのだ、ということを」33-4頁

「[カスパー・フリートリヒ]ヴォルフは、静的もしくは構成論的な目的論を明確に拒否し、動的目的論すなわち生気論を採用するに至る」38頁

「[シャルル]ボネが言うような、『魂という言葉を著作の中で頻繁に用いる研究者は、生気論者と呼ぶべきだ』という主張には私は異議を唱える。一般的な答えとして、最近までそうであったが、魂(アリストテレスのvous[ママ、おそらくνους]に対応した)をその指標だと、多くの人間は考えてきた。ただしそれは、自然に属さない何ものかについての知識と理論がまだ混乱していた時代の話である。魂は、自然の部分には属さない、自然にあい対立するものである。ただし、双方とも絶対的現実性をもつものとして把握される」44頁

「古典的生気論は、J. F. ブルーメンバハ(1752〜1840年)をもって、その最高峰に登りつめる。
…少なくとも生気論の真の証拠とみなしうる地点へ彼は到達し、アリストテレスの地点からさらに本質的な一歩を踏み出しえたのである」49頁

「ビシャは、夭折したが、生気論者であった。ただし彼は生気論を論証することには失敗し、しかもそれは、形態形成の事実に立脚したものではなかった。彼は、『生命所有(propriétés vitals)』を、重力や弾性などと同じ水準のものと主張した」52頁

「生気論の真の証拠としては、生体の形成は、その部分が相互に影響し合う極小の構造を基礎する論理では不可能、という事例をあげなくてはだめである。しかし、ブルーメンバハがあげる証拠は、この時代に考えられる類似の例でしかなかった」54頁

「『根源的合目的性(primary purposiveness)』の概念は、ブルーメンバハとヴォルフが前成説に反対し、生気論に同意する論拠なのだが、この言い方がヴォルフの場合のいちばん明確な表現である。
 これに比べて、ブルーメンバハによる形成衝動についての作用様式の説明は、本質的に不明確で暫定的な性質のものであり、重要ではない」55-6頁

「[『判断力批判』の]カントが拒否したのは、以下のことである。第1に、有機体は作られた機械であること、第2に、それは特殊な物質から導き出されること、第3に、それが特殊な生気論的法則に従っていること、である。だが私が見るところ、カントは有機体をこの種の特殊な法則に帰属させていた。この3つの否認から(またこれを、構成論的世界に関するカントの結論と調和させることで)、彼が、有機体を一定の機械に格下げし、かつその起源は研究できない課題であると考えた、と推論できることになる。ここでカントは、人間を例外扱いしていることを除いては、『静的目的論者(static teleologist)』である」67頁

「カントは、自身が作りあげた偽りの課題で自説の論理的困難を拡大してしまった生気論者、と言うことができる」72頁

「カントは後成説を受け容れ、発生の生産能力について語り、生気論者ブルーメンバハに明確に同意する。その上で、間違ったかたちでブルーメンバハを引用する。はっきり、静的目的論の意味で『始原的有機体』を用いるのだが、この言葉は以後二度と使われない」74頁

「生物学の基本問題に対するカントの態度…全体をまとめると、彼の主張は以下のことを支持しているようにみえる。
 第1に、純記述的で、もっぱら規制的判断をする目的論。それは、正当な基盤を挙げることなく、それ以上の究極目的を求める原理に立つことを遮断するものである。
 第2に、生気論。ただしこれはカントが、すべての自然現象は先行する運動現象に究極的に還元できる、とするドグマに彼がとらわれており、同時にこの仮定が生命体に関するかぎり支持できないからである、と思える。
 第3に、静的目的論、もしくは力学的に生じるすべての基礎の上にある一定の構造の理論である。この見解はカントの表現の意味合いにより、第2の立場に近いものを意味しているのは事実である。例外は、ここでも生気論的な意味で、その活動的存在ゆえに、人間が挙げられている」74頁

「『判断力批判』における生物学的内容についてのわれわれの最終評価は、以下のようになる。人間とその行動に関して、カントは明らかに生気論者であったが、有機体に関して彼は、なお問題含みであった。彼は、静的および動的目的論の論理的な違いについて、常に意識していたわけではないし、自然科学のあるべき形についての彼の理想と、自身の生気論とは非常に矛盾したものであり、カントはこれに満足してはいなかった。その理想は誤った厳格な機械論であり、そこでは(まったく不思議なことに、われわれは歴史的観点からそう読みうるのに)魂のための活動空間はあるのに、魂に似た自然の作用因については存在していなかった」75-6頁

「有機体生成の教理とその法則について、シェリングは何も明確には述べなかった。むしろ彼は、生気論と目的論的機械論の間で、常に逡巡していたが、後に後者に傾いた。ヘーゲルもまた、客観的な要素的力に対抗して、連続する光として生命を記述するとき、生気論の特徴を帯びるのだが、完全なものではない」83頁

「本書においては、キュビエは名前を挙げるにとどめる。生理学の基本的問題で、彼は生気論的ではあるが、独自の論をもってはない。この点は、彼の別な領域での著作を検討すれば、明確になる。彼自身は、ビシャの理論に同意すると宣言している。
 よく知られているように、ゲーテの自然哲学に対する考え方に関して、とくにキュビエは『型』の概念を論じ、『エンテレキー』という言葉もよく使用するのだが、生気論の歴史からすると、明確な進歩が認められないから、名前を挙げるだけとする」84頁

「[ローレンツ]オーケンの奇妙な理論は本質的に、有機体の形態は他に還元できないとする、生気論の基本的真理に立脚している事実が読み取れる」86頁

「[J. C.]ライルは、生きる物質という観念に立脚した生気論的理論の、最初の主張者であり、そう明確に考えた人間であったが、理想(idea)から物質へどう移行するのかという問題の重要性に比べると、その理論はあまりに単純すぎた。彼は単に、理想をもつ物質の存在を認めただけであった」89頁

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「展開・完成化・有機的生長の法則というさまざまな形をとる、非ダーウィン的進化の支持者…ここには、ハーバート・スペンサーもつけ加えておくべきだろう。偶然説に立つ純ダーウィン理論に対する、多様で徹底した反対論は、ともかく意味があると思われるからである。一般的に言えば、ダーウィン主義に反対する進化論の立場は、また結局は、生気論か機械論かのどちらかとなる」155頁
「最適者生存」の名づけ親なのに😅

「新生気論が本当に確立してきた原因は…W. ルーに代表される、実験形態学、『発生力学(Entwicklungsmechanik)』の再興があったことである。生命の自律性の理論を支えるすべての新しい事実は、この研究領域において獲得されたものである」157頁

「1894年に、[グスタフ]ヴォルフは、ダーウィン主義か目的論か、という問いに対する解決策として、明確に企画された実験を行なった。彼の目的は、生物が最初の発生過程において、いったん削除された器官を回復させるかどうかを確かめ、その回復がどうなされるかを調べることであった。この実験の積極的な成果として、『初源的終局性(primary finality)』が証明された。それは一方で、ダーウィン主義をばかげたこと(ad absurdum)と格下げにし、他方で、積極的適応という事実によって、重要な形で目的論を支持するものとなった。
 実験は、イモリ(Triton taniatus)の眼からレンズだけを取り除くというものである。実験では新しいレンズが、虹彩の外縁から成長し再生された。それは、通常の発生に対する対応ではないにもかかわらず、問題の合目的性にとって最適な形でことは進行したのである。
 かくして、初源的終局性は実証された」😅 161-2頁

「1893年に私[ドリーシュ]は、ウィガントとパウル・デュボア・レイモンの方法論的著作から強い影響を受け、目的論が生命現象の還元不可能な特殊な性格のものであることを、はっきりと自覚するようになった」162-3頁

「生物が保持する形態の調節の能力について、数年間、実験を行ない、1891年以来続けてきた発生生理学での実験結果を集成し考察を続けた結果、『調節(regulation)』概念についての論理的分析の結果と、『行動(action)』概念を結びつけることで、私[ドリーシュ]は意見をすっかり変え、生気論を完全な体系へと完成させてきた。
 すでに1895年に私は、『行動』の問題の分析から、生気論が必然であることを確信するようになった。…1899年の初めに『形態形成の現象における定位 生気論的現象の証拠』…これは、生命の過程は少なくとも、それ自身の法則に従う、動的目的論的な、自律的なものとしてはじめて理解可能であることを明確に論じた、最初の著作である。
…1903年の私の著作、『要素的な自然要因としての「魂」』…において、私は、人間の行動を客観的な運動現象として分析した」164-5頁

「1899年に、パウル・ニコラウス・コスマンが『経験的目的論の要素』…を出版した。…この本は、目的論概念の論理的な定義の枠組みを特別に設定しており、そのため、カントの『判断力批判』といくつかの接点をもっている。
…彼によれば、因果性は普遍的であるが、それだけで妥当性をもつわけではない。彼はこれに、判断の公理として目的論を併置する。そこでは必然性がこれに連動して扱われる。なぜなら必然性の理想は、因果性のそれよりもはるかに大きいからである。一般的形式はこうである。C(原因)=f(E)(効果)、これで因果理論は充分である。『原因』と『効果』という言葉は、ごく一般的な意味で、考慮対象となるすべてのもの全体を要約したものとして用いられる。目的論は、このように形式化される。M=f(A, S) ここで、Mは媒体を、またAとSは、仮定と結果を意味する。
…コスマンは、『生気論か、機械論か』の問題を解決できなかったとしても、少なくとも積極的な意味で、単なる偶然によっては説明できない、生気論的目的論の深い重要性に、決定的な評価を与えた」165-6頁

「可能な変化の進行を留保したり解除したりすることは、個体化因果性を担うものの『作用(action)』様式であり、以後、われわれはこれを、エンテレキー(entelechy)と呼ぶことにする。この名称は、アリストテレス形而上学の用語としてよく知られているが、ここでの用法は、厳密にはアリストテレス哲学のそれに従ってはいない。
…エンテレキーの作用は、与えられた可能性の留保というかたちで存在するという、われわれの理論によってはじめて、従来の古典的生気論(そして現代生気論の多く)が陥っている、きわめて深刻な誤りを回避することができる。これまで生気論に対しては、発生や適応で生物は実際には限界があるのに、生気論の学説に従うと、全能のものになってしまう、という反論がなされてきた。しかし、われわれの理論に従えば、この『調節能力の限界 limits of regularabliity』はこう解釈できる。つまりそれは、エンテレキー作用が働きかけるところの、一定の前形成されている物質的条件に拠るのだ、と」190-1頁

「エンテレキー、あるいは他の個体化因果性があるとき、それ自身はどんな種類のエネルキーでもないし、いかなる空間的な意味での『物質実体(material substance)』でもない。…エンテレキーは、特殊な(sui generis)、非物質的で非空間的な作用因であり、空間の『中へ』作用する。ただしそれは、われわれが用いている言葉で示す自然に対して、論理学的な意味で属している」191頁

「エンテレキーが物質次元の生成の進行を留保していたのを解除し、1つ可能性を現実化させる、とわれわれが言うとき、力学的な意味における生成の障害がエンテレキーになって取り除かれる、とわれわれは言っているのではない。このような力学的な意味における解除(Auslösung)は、エネルギーを必要とするが、エンテレキーは定義によりエネルギーではないのである。エンテレキーは、ただ、それが可能な状態にあれば、それ自身で現実へと進行しうるものを許すだけであり、単純に物理化学の影響の結果としてなる状態のことではない。
 自然の中におけるエンテレキーによる留保の起原を語るのは無益である。つまり、<生命の起原>を語るのは無意味である。この問題に関して、われわれが、何か明確な発言をすることは絶対不可能であり、同様に、<死>(death)の意味についての議論も意味がない」192頁

「自然に対して、全体性概念は認めるが統合化因果性を認めない理論的立場は、生命的自然だけを念頭におけば、自然の<機械説>(machine-theory)と呼ぶことができる。この機械説は、自然(もしくは生命)を単なる偶然領域に属すると考えることについては、すでに反対の立場にある。
 そしていまや、生気論として、生命は単に偶然の領域のものでないだけではなく、機械説をもっても把握しきれない現象であることを示しうる地点にまで到達した。
 生気論のすべての<証拠>、つまり、機械説をもっても生命現象の領域は覆いつくせないことを示す合理的な根拠づけは、間接的証拠によってのみ可能である。それは単に、力学的もしくは単純因果性では、生じている現象の説明としては充分でないことを示しうるだけである」194頁

「実験分析発生学——ルーが名づけた発生力学——の成果は、以下のことを明らかにした。多種の発生初期の器官や一部の生物では、実験によってどの細胞群を取り除いても、その残りの部分が、小さくはなるが正常なミニチュアへと発生しうる場合が存在しうる、ことである。換言すれば、実験的に残された発生初期の器官や生物の部分から、生体の一部分が発生するのではなく、小さいけれども体の<全体>が発生する事態を予想してよいのである。私は、この型の器官や生物を表わすのに<調和等能系>(harmonious-equipotential system)という名前を提示した。このような系では、すべての要素(細胞)が同じ形態発生的『潜在能(potency)』を保有しているはずである。…しかもこれらの要素は、毎回の実験でともに『調和的』に作用する。この等能性と調和的作用を根拠にしてはじめて、実験結果は、現に起こったようなものとして、説明が可能になる。
 発生初期の器官の中では、初期段階の卵割や胚葉系が、この調和等能系の例である。
…動物成体はすべて、さまざまな度合いで回復(もしくは再生)可能、つまり、傷を負ってももとの形態を回復できるから、調和等能的であると言える」194-5頁

「彼[ヴァイスマン]の理論は、さまざまな実験が行なわれるまでは正しいものと思われていた。だが今では、実験によって、いかなる大きさでどの部分を切り取られても、残された部分が、形の比率を乱すことなく発生しうる系があることが示された。この事実は、『機械』は調和等能的な分化現象の基礎たりえないことを示している。なぜなら、<もしあなたが任意の一部分を取り除いてしまうと>、『機械』は、物理・化学的な物質や作用因をもって特別の調整を行なったとしても、<それ自身を保持しえない>。ところが生物では、まだ発生していない調和系なら、どんな削除実験をされても、形態学的機能に関しては、それ自身を保持できる。
 だから、調和系は『機械』ではない。…自然の中の非力学的作用因である『エンテレキー』が、調和等能系において作用している」196-7頁

今だと、幹細胞や万能細胞で説明し尽くされる現象でせうね😅

「調和等能系とは別種の等能系が存在する。たとえば、卵巣はその第2の型であり、<複合等能系>(complex-equipotential system)と言える。調和等能系においては個々の要素すべてが、調和的に協力して全体を形成するのに対して、複合等能系では<各々の>要素それ自体が<全体>を形づくる能力をもっている。すなわち、そのような等能系では、実際、すべての要素が全体を作る能力を同等にもっている」197頁

「蓄音機は、<非常に単純な形で>受けとっているものを放つにすぎないのだが、生物の場合、個々の生涯で起きたことは、つぎの行動のための<一般的な可能性のストック>を形成する。ただし、これがつぎの行動の細部すべてを決定してしまうわけでもない。一般に、歴史性に依拠した行動すべてにおいて実際に起こっていることは、<個別的反応>(individual correspondence)の規準とも言うべき奇妙な原理に従って生じている。…真の行動はすべて、歴史性に依拠した個別の刺激に対する<個別の>応答である。
 そして、この歴史的に作られてきた個別的反応は、力学的因果性にあてはめて理解することができない」199頁

グールドみたいなこと言うてますな😅

「生物学の研究対象としての生体は、<統合化>もしくは固体化因果性の例を提示する。それは、形態形成や移動行動に関するかぎり、因果性の要素的形態の1つである。形態形成の進行過程で調和等能系が現れれば必ず、その<有機体>は、非力学的な因果性の1つの型としての、統合化因果性を意味する擬似的語法の実例であると言明できる。この統合系において空間的もしくは物質的な前決定なしに、ある<合計>(事象の可能性)が、ある<統合>(事象の現実の帰結)へと、転換される」201頁

「『川』、『島』、『山』、『街』に関しては、地質学的および心理学的生成と呼ぶわれわれの知識を基礎にすれば、概念としては統一体であるが、対象として統一性を意味し<ない>、ということができる。川や島や山を導き出した地質学的生成および、街の存在を導き出した心理学的もしくは心理=物理的生成は、明確に<単一>因果性(singular causality)の型であるからである。要するに、対象としては、これらすべての系は<合計>(sums)であり、それ以外の何ものでもない。実際、それらの存在はみな複雑化の過程によるものなのだが、その複雑化は<蓄積>(cumulations)であって、<展開>(evolutions)ではない。この場合、『展開」という言葉は、統合的生成を基礎にしたその内部からの複雑化を意味し、『蓄積』という言葉は、単一的生成の1つの位相が、ちょうど他の位相の上に重ねられるように、単純な条件を基礎にした外部からの複雑化を意味するもの、である」203-4頁

「われわれは、進化論(the theory of descent)を真理であると認める。ただし、ダーウィン主義やラマルク主義は、この問題の核心に触れるものではない。これらの説は、二次的な重要性しかもたない、その一部分に適用できるにとどまる[😅]。われわれは、系統発生に関して本当の『理論』を<もっていない>」205頁

「歴史に関しては、少し確実なことが言える。なぜなら、われわれ自身がその真中に立っているからである。この『中央に立っている』ことが、一面で、真の知識に関して特別で、奇妙な不利益にもつながっていく。われわれは、展開[evolutions]としての歴史の中央に立っている<がゆえに>——かりに歴史が1つの展開であるとして——、われわれはその展開の特徴を明確には評価できないし、将来もできないであろう、とも言えるからである。
…ただし、『歴史』あるいは人間社会には、超個体的な全体性の印象を与える、いくつか重要な特徴がある。その特徴の第1は、繁殖という生物学的事実であり、第2はヴェントの言う『目的の多様性』、すなわち人の行動は個々の行為者の期待とは異なった、いわば創造的な効果をもちうる、という事実である。超個体的存在の第3の特徴は、<道徳性>(morality)、もしくは言葉の最も広い意味での道徳的感情という事実である」205-6頁

「かりに歴史の中を真の展開の主潮が貫流しているのが確かめられたとしても、歴史の中に蓄積は確実に存在する。蓄積と展開のある種の混合が、歴史的に創造されたどんな系にも認められる。
…かりに、歴史に対して仮説的に展開的性質を認めるなら、歴史の中には展開と蓄積が確実に混在している。これはおそらく系統発生でも同じであろう。しかし、ラマルクやダーウィンの理論は系統発生のうちの『蓄積』を説明するものであり、われわれは未だ、実際の系統発生がいかなる種類の展開であるかを真に語りうる理論をもっていないし、おそらくは決してもつことはないだろう、と言うことができる」207-8頁

「秩序一元論は、全宇宙が1つの秩序として考えられなければならないという、1つの論理学的要請である。こう考えることは、そもそも生物学や歴史の基礎としては不可能である。なぜなら、どちらも偶然や偶発事件とが混在する統一体だからである。
…経験科学は歴史や生物学と同じように、統一体の問題を提示すらしないで、すべての素材を躊躇なく単一因果性の図式に委ねている」215頁

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