司法は、法律に忠実であることが何よりも大事で、その点での独立性は常に保つ必要がある。
法律は国会を通じて、市民が選んだ国会議員が作る。
法律の運用は判例の積み重ねなども大きく影響していて、それは時代の変化や市民の考え方の変化とも連動して少しずつ変化していく。

すべては決められた手続きに則って皆の合意の下に慎重に扱われる必要がある。

簡単に変えてはいけないという性質と、固定したまま絶対に変えないというのではなく慎重な運用の下での柔軟さも必要という相反する性質のせめぎ合いの中で、物事を進めていこうというのが、制度化されているのが民主主義というものなんじゃないんですかね。

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そういう理念の下に、それぞれの専門性に託された権力を与えられた立場の人間は、例えば司法なら司法で、ある意味では「法律バカ」になるくらいに、その専門的な権威を信じて忠実に従うことが義務付けられていて、それはそれでそうであって欲しいし、そうでなければ困るわけだけど、

それはあくまで自分たちに課された責務であって、それを振りかざして、自分たちの外の人たちに対して「馬鹿だなぁ」とやっちゃいけないのが、わかんなくなっちゃってるのがすごいなぁとは思うわけで。

そういう自分たちの棲む世界の外の声には謙虚に耳を傾けて、それと同時に自分たちは内側の権威(これは人を指すのではなく、司法であるなら法律とか憲法のみ)に、外側の人たちよりもガチガチに縛られているべきなので、そこに生まれる自分の心の中の良心の葛藤を真摯に生きるのがホンモノの専門家なんじゃないんですかね。

そうでないと、専門領域の内側の組織だって腐るだろうし、進歩がなくなるだろうし。そこでは内側の者同士、それぞれが自らの良心に従って闊達に議論を重ねて、切磋琢磨していくと言うか、ギョーカイ内の自浄なり、進歩なりに尽くすと言うか。

今回の韓国じゃないけど、軍人にとって上官の命令は絶対という原則はあるけど(そうでないと軍隊というのは成り立たないところはあるんでしょうけど)、それでも明らかにおかしな命令にはむしろ自らの良心に従って抗わなければならない…みたいなのと似てると言うか。

個が確立していない社会だと、皆んな自分の所属している集団と一体化してしまって、なんだが知らないけど、自分たちにとっての権威が、自分たちが棲む世界の外側にも通用するような錯覚に陥って、外側の人を嘲笑するみたいな滑稽なことになっちゃうんですかね。

それって、でも「会社の外の人と話す時に、自分のところの社長に敬語使っちゃいけない」みたいな話で(最近そういう常識が崩れて来ているようだけど)、昔はまだ今よりはそういう「外側」を意識できる感じがこの国でもあった気もするんですけどね。

やっぱり世の中が全体的に幼稚になって来ているのと関係あるのかなぁ。

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