湯澤規子『「おふくろの味」幻想:誰が郷愁の味をつくったのか』(光文社新書、2023年)

「結論からいえば、古代、中世、近世、近代、そして現代に至るまでずっと変わらず「お母さんがごはんをつくってきた」というのは実は誤った認識である。明治・大正期の世相の変化を描いた柳田國男は次のように言っている。

 温かい飯と味噌汁と浅漬と茶との生活は、実は現在の最小家族制が、やっとこしらえ上げた新様式であった。

 両親とその子どもだけが構成員の、いわゆる「核家族」の誕生とそこで繰り広げられる料理や食卓の風景は、近代になってようやく登場した新しいスタイルだと柳川は言う」(37頁)

amazon.co.jp/「おふくろの味」幻想~誰が郷愁の味 @amazonより

そう言えば、4世代同居だった私の子どもの頃の実家は、お手伝いさん(「お勝手のチャコちゃん」と呼んでいた)がいたし、曽祖母、祖父母、叔父叔母などが同居して女手は多かったので、私の母は多分台所からどちらかと言うとあぶれ気味で(本人も料理が苦手で多分あまり台所に立ちたい人ではなかった)、家業の店番をしていることの方が多かった(家の中で母親を探す時には、私は大抵、台所ではなく店に行っていたと思う)。

私はお手伝いさんが作ってくれる甘ぁ〜い卵焼きが大好きで、彼女の作る卵焼きしか食べなかった。他の人…例えば祖母が作る卵焼きでは納得しなかった(母に作ってもらった記憶はない)。

私の「母の味」はお勝手のチャコちゃんの卵焼きだったのかも。

あと、これは何度か書いているけど、いわゆる昭和のホームドラマのような「家族団欒」を子どもの頃の私は知らない。

食事は店の「若い衆(発音は「わかいし」と言う感じに近かった)や、お手伝いさんや叔父叔母など、食べる人が多かったのに食卓はスタンダードな大きさの掘りごたつがひとつあるきりだった。

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しかも4辺あるこたつの2辺は、祖父と曽祖母の専用席で、たとえ本人がいない時でも、他の人は使ってはいけなかった。だから、実質、他の皆が座れるのは2箇所だけだった(私だけが祖父のいない時だけに限って祖父の席に座ることができた。だけど、祖父が店から上がってきたら、食事途中でも何でも、ものすごく慌てて退かなければならなかった)。

だから、手が空いた者、次の予定が詰まっている人(例えば店で働く苦学生)などから順番に、入れ替わり立ち替わり済ませていく方式だった。

曽祖母以外の女たちは、その合間に、コタツの角でいつでも立ち上がれるような落ち着かない正座で、慌てて食事を済ませている感じだったと思う。辺のところに腰を落ち着けているイメージはない。

私にとっては世間でよく言われている「家族団欒」は、未知の世界の不思議ワードだった。

1960年代後半から70年代初頭くらいの東京での光景。当時でも、もうあんな大家族は多分とても珍しかった。

@hayakawa2600

配膳は誰かがしてくれるのではなく、各自が台所に行って、大鍋に作ってあるおかずの自分の分をよそってくる式じゃなかったかなぁ。私は台所へ行って誰か大人によそってもらっていた。ご飯は、一番古い記憶では、ガスコンロに乗せた羽根付き釜で炊いたものを木のお櫃に入れ替えてこたつの脇に置いていた。それを各自がよそっていた。途中から電気保温ジャー(炊飯機能はない)みたいなやつになっていったと思う。

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