まあ、僕は男性は死滅してもいいと思っている人間なので、全ての男性を(心理的に)去勢するくらいは別にいいのでは、と思ってしまうんですがw

心理的に去勢するのは私の仕事なんですけど、本当にペチャンコにしてしまっては、肉体的に死滅する人が大変なことになっちゃいますよ(そうでなくてもそう言う男性は日本ではあとを絶たないのだから)。

むしろここは、まずは、るまたんさんが自分の性に対する罪悪感や嫌悪や怒りを少し何とかしてあげても良いかも。

男性の性に対する希望を持てない、良いものだと思えない、という絶望は、むしろ彼らを余計に変な方向に追い詰めている気がします。自責感もほどほどに。

話が飛躍するようですが、私はそこに、日本の家庭における“父親の(心理的)不在(身体があったとしても自分の存在についての自信のなさからくる心理的透明化みたいなやつ)“の影響が大きいと思ってます。

*以上は、ジェンダーの決めつけだとのお叱りを受けそうなので、一応、断りを入れておけば、これは例えばひとり親の家庭でも起きることだと思っているので、現実の親のジェンダーなどとそのまま繋がる話ではないです。

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それを思い出したので、“心理的な“と、ことさらにつけました。

物理的にいたかどうかは案外関係ない気がするんですよね。

勿論そう言う話とは別に、そのことの心理的な影響は何にしても何もないとは言わないけれど。

私がこの事をずっと考えているのは、私自身が、実家の父親が居すぎるほどいたのに、やっぱり心理的に不在だったんじゃないかとずっと考え続けてきたからです。

日本の“影の薄い父親“問題は大きいと思う。臨床している人は皆んな割と日々実感しているんじゃないかな。

で、母子家庭でもその問題があまりない人も居るんですよ。

映画「誰も知らない」の中で、あきらが最後、妹を羽田に埋めたのは、彼には“父親“がいた(それが実は母の嘘であっても、心の中に)けれど、妹にはいなかった(分からなかった)ことを可哀想に思っていたからなんじゃないかと、これは私の勝手な空想ですが思っています。

最近のは観てなかったりするんだけど、過去の是枝作品は父の“不在“がテーマの背景によくある気がします(物理的にいても)。

社会全体として“父的なもの“(実際のジェンダーはどうでもいいんだけど)の不在の問題があるんじゃないかとも。それをわざわざ“父的“と呼ぶことの是非はともかく。

社会学の方から言うと、ユング的な「父なるもの」というのは社会規範というか、社会そのものなので、日本にはその存在は濃厚過ぎるほどnにあるんですが、難しいですね…

そうですかねえ。

私はそれはうちの父親が居すぎるほど、いたのと同じで、本当は居ないことを糊塗するための隠蔽工作に過ぎない気がするんですよ。なんか馬鹿みたいに威張り散らす雷オヤジみたいなやつも、あれ、大きな赤ちゃんがいるだけで、本当に必要なルールはむしろぶち壊している(気まぐれで暴れてるから顔色を見る以外のルールがない)だけじゃないかと思っているので。

阿部政権が夢見て今の政権も統一教会や日本会議などと同じ夢を見続けている強い父親が率いる世界みたいなやつも、本当に必要な規範は身勝手な赤ちゃんたちが皆んな踏み躙りぶち壊しにするばかりで、どんどん掟の無い世界にしていってますよね。私が言っている「父性」(鉤括弧付きの)は、それとは真逆です。弱い者を愛しみ、守り、言葉や知を大切にして、掟を、社会を守る機能のことです。

無いんですよ、日本には。

そうい意味では、もちろん、それはないですね。

ただ、社会学、社会史の観点からだと、それは(理想として想定される神としてはともかく)現実には存在しないという話になると思います。

欧米のように、何事によらず、ある種の心理的な支柱になる神のようなものを想定して議論がなされる(正義やこの世の掟など)社会と、そんなものがそもそもない(通俗道徳以外)社会では違いませんか?私にはかなり違うように見えるんだけど。

むしろ最近は欧米が日本化してないか心配なんだけど。

というか、社会学は「神は失われた」というところからスタートしますね。もともとフランス革命の前後にできた学問ですし…

もちろん、これは僕にとっての社会学のイメージなので、人によっては全然違うことはあり得ます。そこはご勘弁を。

日本に限らず、現代社会というのはだいたいそういうものでしょう、という感覚を僕は持っています。

古くはニーチェとか、比較的最近ではポストモダンとかがそうですが「絶対的なものはもう失われた」と繰り返して言うのはそういうことではないかと。

日本の場合は失われるも何も最初からなかった感じがある。笑

欧米はそれでも心の中に深くそれがあるし葛藤がある。少なくとも古い書物を読むときはるまたんさんがさっき仰っていた日本的な存在しすぎるほど存在している社会規範の話ではないことを、きちんと切り分けて理解しておく必要がありますよね。

そして、男中心の古い絶対的なものの世界は終わったけれど、それではそのようなものは本当にないのかという世界に私たちは生きているんじゃないんですかね。

絶対的な神がいないとしても、絶対的な(相対的と逆の意味としての)正義が何もない、そんなものはただのまやかしだということではなのではないか、…あたりが今の状況なのかなと思っているんだけど…。馬鹿なので良くは分からないけど。

私は割と現象学的な考え方がしっくりくるんですけど、誰かが宣言して教えてくれる絶対的なものはないけれど、それは見えないけれど事実存在していて、それを皆で希求していくということなのかなと思っていて、でもその想定が(真実とか正義とかの)そもそもない日本は本当に困ると思うんですよね。

日本の場合は、「偉い人(親、教師)の言うことを聞く。以上!」という倫理なので、真実や正義に思い悩む必要がない。それはでも本当は西洋的な意味では“父性“でもなんでもないんじゃないかと。

なるほど、仰ってることが分かってきました。
デュルケームが「神とは擬人化された社会の総意に他ならない」という意味のことを『宗教生活の原初形態』という本で言っていて、彼によればそれは普遍的な事象なので、日本にも神(欧米的な意味での)がいないはずはないんですよね。

それで、僕が最近ちょっと思っているのは、これは仏教の影響なんじゃないかな、ということです。「絶対はなく、全ては相対的である」というのは仏教が「空」という言葉で言おうとしていることだと思うんです。日本人は実は非常に宗教的で、その宗教というのが仏教なのではないかと。

私は日本人にもいない筈はないと言う楽観をしてなくて日本人にはいない(絶望)と思ってまして…。

最近よく言われる公(共)publicが日本人にはないみたいな話に繋がる気が。偉い人、権威への帰依とか、あとは個別の人間関係での恩とか義理とかはあるけど、自分と自分以外の様々な人間が含まれる社会全体という視座とか、全ての人間関係や思惑の上にある真実や正義みたいなものの概念が欠けてる。あってもそれは権力や人間関係や思惑の下位に位置する。

仏教は知らないけど、仏教だってアジアの他の地域ではもっと公共と関わっているイメージ。喜捨とか。この間の寒気がきた時お寺さんも欧米の教会みたいに路上生活者にお寺を開放とかしないのかなと思ったけど…。でも「駆け込み寺」ってありますね。あれはシェルター?今もあるのかな。

デュルケムはそんなこと言ってるんですね。私の感覚だと、神は人間の超自我の総体だとしか思えない。だから“実在する“とは思ってる。ただ超自我もピンからキリまであるので、日本人の超自我(父なるものとか、母なるものとか)は概してレベルが低くて同時に怖い。さっき書いたような公正とか正義とか真実を教えてくれるのではなくて、気に入らないと取って食っちゃうとか。親の反映。

デュルケームはその用語は使わないのですが、彼が言っているのは「超自我の源泉は社会である」ということなので、要は同じ意味ですね。

もちろん、日本の場合は仏教と天皇制の融合(神仏習合)という要素もあるので、弱められた上にさらに天皇に逸らされていると思います。

精神的(あるいは論理的)に感化する力の低い権力が物理力を使って強制してきたという歴史がおっしゃるようなレベルの低さや弱さを生み出しているのではないかと思います。

面白いですね。

私は基本的に下から上なんですよ。思考回路が。民衆のそういう性質が社会の外郭に影響していると。

るまたんさんの社会学的?思考回路だと、社会の外郭(政治制度など)が民衆のレベルの低さの遠因だみたいな話になる。

実際には、相互に影響しあっているんだろうとは思うけど。デュルケムの話もまさにそんな感じ。

個人の面接で「親がこんな酷いことをした」みたいな話は常に出るし、私はそういう話は大切だと思っているけど、そこまでだと「大変だったよね。ひどい親ですよね」(それは事実だけど)を私に言わせて終わりって事になるんだけど、私は「嫌だったんですよね」「辛かったんですよね」「今も怒っているんですよね」という本人の気持ち(欲求)に焦点化する。その本人の気持ちこそが大事だと思っているので。その時、その人は自分の人生の主人になるので。

要はその人が自分の欲求を自分の実感として感じて怒ったり自己主張したりできる事が大事だと。つくづく日本人でそれができる人は、私も含めて少ないなと思ってるんです。怒り(怒りはその主体の欲求不満の発露)成分が少なすぎる。

そこら辺からくるモデルの違いなのかな、と。

ともあれ、お付き合い頂き、ありがとうございました。🤗

でもいないと本当は困りますよね。大人も本当に困るけど、子どもを育てるのに「この世には正義も真実も掟もないんだよ。だから強くなるか、上手く立ち回るしかないんだ。頑張れ!」って、あんまりですよね。

でも現状はこの国はそうなってる。

親も家庭内で子供に何も言えないまま。「親に恥をかかせるな」とか、「よそ様に迷惑をかけるな」とくらいしか教えられない。または「あの人にはお世話になっているだから感謝しなさい」とか。

だから自民党が自分たち好みの道徳を持ち込みたがるのもある意味では理解できる。「ちゃんと教えてあげなきゃ可哀想じゃないか」と多分思ってる。リベサヨは、そういう道徳観へのアレルギーとか反発はあるけれど、でも自宅で子どもにやってたり親にやってたりするのは、案外その通俗道徳に則っていて、実は自分たちの“対案“を持っていなかったりするんだと思う。

まあ、僕はその代りになりうるものは人権だと思っているんですが、その話をあまりしっかりしてしまうと自分の「病み」を手放してしまって何も発信できなくなるので、何となくそう思っておくだけにしておきます…

るまたんさんの「病み」は分からないけど、新たな「父なるもの」はそうでなければならないというのは完全に同意です。それ以外に人類の生き残る道はないと、私は割と客観的というか、単なる事実として、そう思ってます。願いとかというよりは私に取っては「空は青い」というのと同じくらいに、体感的に単に事実でしかないので、案外揺るがない。そこにしか人類の生き残る術はない。それは間違いないけど、ただ人類はそれに気づく前に滅びそうではあるけれど。

すみません、前後のお話を読んでもよく分からないので、質問します。

社会学は脇に置いて、「社会史の観点から」「ない」とされる「それ」とは、何を指しているのでしょうか。

解説を加えていただけたら嬉しいです。 匆々

ここで念頭に置いているのは「弱い者を愛しみ、守り、言葉や知を大切にして、掟を、社会を守る機能」という言葉で意味される「父性」のことです。

僕はこれを、アーレントの『人間の条件』のアイデアをもとに解釈して、古代ローマのパーテルのイメージ、そしてそこから来るヨーロッパの王権、そして人格神のイメージに重なるものだと解釈しました。

そういうものは、理想ではあったけれども、現実に存在したことは、現在にも過去にもなかっただろう、と思いながらこのリプライを書きました。

素早いリプライ、ありがとうございます。

ご説明にはなるほどと思うところもあるのですが、それは初めから書いていただけたらよかった、とも。

そして、そこに「社会史の観点」が持ち出されることに、正直、違和感があります。正にこのような観念と社会とのやりとりを扱うのが、社会史の特徴の一つだと考えるからです。

歴史学方面からの感想です。悪しからず。

アーレントの名前を出すかどうか悩んで、こういう形になってしまいました。なにぶん、やり取りの中ですので、先方もあることですし、時間的な制約もありましたので、ご容赦ください。

阿部→安倍

*なお、「父性」については、私は女ですし、そう言う議論の時の「父性的なもの」が男にしか備わっていないなどとは、これっぽっちも思っていないんだけど、言葉の慣用的な使い方からとりあえず今はそのように使っています。そのような実態のある何かがあることはたしかだとは思っているので、そのうちにネーミングは考えてもいいのかもとは思うけど。

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