空気を読む。そんなものに時間はかけたくない。世の中に合わせるなんて、くだらないと大学時代思っていた。だから、就職しなかった。でも、実際にどう生きたら、いいか分からなかった。
インドに友達と二人で旅に行った。打ちのめされた。自分はまだまだ甘い。現実を知らないと思った。帰って来たら、病気の自分に気づいた。周囲に甘えで病気なんだと言われた。でも、周囲は母以外、精神科の病院に行くことをいさぎよしとしなかった。
結局、病状が悪化して、入院した。入院した当初、精神の病気になった自分自身が恥ずかしかった。でも、それは自分が精神の病気の人たちを差別していることがもとであることを看護師に指摘された。何も恥ずかしいことではないと。
病気の人たちとの交わりは私の固くなった心を解かしてくれた。精神障害者であることが私には何か自分自身であることを許してくれているかのようだった。何よりも自由がそこにはあった。
私が守りたいものは、この自由だ。自分自身でいられる自由だ。やはり空気を読むだのくだらぬことだと思う。世の中は変えなくてはいけない。迎合することが賢いことなら、私は、バカになる。
宗教音楽は素晴らしいものが多い。古くからだとグレゴリオ聖歌がある。なんともの世界である。バッハの受難曲はそれまでの宗教音楽の到達地点の一つであると感じている。その後も、モーツァルト、ヴェルディ、フォーレのレクイエムと様々な作曲家のミサ曲群は私にとって宝である。結構忘れられているのが、ブラームスのドイツ・レクイエムである。私は20歳頃に聴いてみた曲で、とても感慨深い思いに耽った次第である。
宗教絵画もどうなのだろうか?知識がないので、ルネサンス期のものぐらいしか知らないが、何か近代でも、ものすごく素晴らしい宗教絵画とはないのだろうか?
しかし、とても素晴らしい作品はいい意味で、とても宗教的であると思うのだ。人の人生を揺さぶるのだから。何かうまいとかきれいとかとは次元が違うと感じてしまう。生ヌルさなど皆無である。
今の日本の税金の問題は、税金の再分配がうまくいっていないことが1番の問題点なのだと思う。
それは、納税者の納得ではなく、実際に採算は取れないが、必要なサービスに税金を投入することがとても大切だと思う。
そして、税金の再分配は不均衡を是正すること、これが重要な柱であるはずである。納税者の納得であると必ずマイノリティーは切り捨てられる。
人口減少、少子高齢化等で、節税と言っているが、税金は使われてなんぼである。ただ使い道が問題なのだと思う。一体軍備にどれだけお金をかけたら、何か良い未来があるというのだろうか。今現在、生活するのに困っている人を支えなくてどうするのだろう。
何か思想に毒されている人は目の前の出来事を見ない気がする。そして、多くの日本人は国に飼い馴らされ、目の前の困っている人を支えようとはしない。なんか今の日常が続いて行くと幻想を持っているのではないかと思う。
適当なパンとサーカスを与えられ、不平不満を言いながら、何もしないし、何かしようともしない。結局、自己を保存することしか関心がなく、行動で何か世の中を変えて行こうとはしないし、他者を認めたり、尊重することもしない。これは、自戒を込めて言っている。社会を是正するアクションは何より大切だと。
生まれてから、ずっと仙台です。ある意味世間知らずです。インドに2回行っています。1回目は40日間、2回目は20日間さまよい歩きました。自己を解体してます。