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空気を読む。そんなものに時間はかけたくない。世の中に合わせるなんて、くだらないと大学時代思っていた。だから、就職しなかった。でも、実際にどう生きたら、いいか分からなかった。

インドに友達と二人で旅に行った。打ちのめされた。自分はまだまだ甘い。現実を知らないと思った。帰って来たら、病気の自分に気づいた。周囲に甘えで病気なんだと言われた。でも、周囲は母以外、精神科の病院に行くことをいさぎよしとしなかった。

結局、病状が悪化して、入院した。入院した当初、精神の病気になった自分自身が恥ずかしかった。でも、それは自分が精神の病気の人たちを差別していることがもとであることを看護師に指摘された。何も恥ずかしいことではないと。

病気の人たちとの交わりは私の固くなった心を解かしてくれた。精神障害者であることが私には何か自分自身であることを許してくれているかのようだった。何よりも自由がそこにはあった。

私が守りたいものは、この自由だ。自分自身でいられる自由だ。やはり空気を読むだのくだらぬことだと思う。世の中は変えなくてはいけない。迎合することが賢いことなら、私は、バカになる。

眠い…
何故か眠い…
昨日から昼まで、10時間以上寝たのに
春だからという人もいる。
何故だ?

手を伸ばし
   着込むは春の
        長雨ぞ 
             ゆっくり

私の母はタッチパネルが怖くて、ATMで操作に難渋している。私が付いていって何とかという状況にこの頃なって来た。何か便利にしているようで、単なる人件費削減でしかない場合結構ある。人口減少しているから、仕方ないというが、それ以上に人に金をかけない政策を政府も国も大企業もして来たのだから、人口が減少するのは当たり前だろう。きちんと栄養がなければ、何でも育たない。一体この国のトップたちは何をしたいのだろう。

タッチパネルは誤操作が多く困った。スマホだと余計である。
文を書くにも、時間がかかるから大変だ。
早くパソコン買ってキーボードで文字を打ちたいものである。
大分マストドンの見方も変わるやもしれぬ。

宗教音楽は素晴らしいものが多い。古くからだとグレゴリオ聖歌がある。なんともの世界である。バッハの受難曲はそれまでの宗教音楽の到達地点の一つであると感じている。その後も、モーツァルト、ヴェルディ、フォーレのレクイエムと様々な作曲家のミサ曲群は私にとって宝である。結構忘れられているのが、ブラームスのドイツ・レクイエムである。私は20歳頃に聴いてみた曲で、とても感慨深い思いに耽った次第である。
宗教絵画もどうなのだろうか?知識がないので、ルネサンス期のものぐらいしか知らないが、何か近代でも、ものすごく素晴らしい宗教絵画とはないのだろうか?
しかし、とても素晴らしい作品はいい意味で、とても宗教的であると思うのだ。人の人生を揺さぶるのだから。何かうまいとかきれいとかとは次元が違うと感じてしまう。生ヌルさなど皆無である。

一昨日の宮城県に対する抗議のスタンディングを思い出してしまう。県庁の前で、県庁の職員の昼休み中もした。

しかし、我々の声などに耳を傾けず、昼休みという日常をこなしている人の多さと、日常を壊されまいと声を上げている我々との乖離をまざまざと感じさせられたのである。

それは、いつでも我々の方に皆なる可能性があるはずなのに。耳をふさいて通る者もいた。なんで我々がわざわざスタンディングをしているのか想像しないようだ。なんで病気をおしてまで来ているか考えようともしない。

何かその多くの人たちは幻覚にでも、陥っているかのようだ。結局、皮肉を皮肉として取れない愚かな者のように。

今の日本の税金の問題は、税金の再分配がうまくいっていないことが1番の問題点なのだと思う。

それは、納税者の納得ではなく、実際に採算は取れないが、必要なサービスに税金を投入することがとても大切だと思う。

そして、税金の再分配は不均衡を是正すること、これが重要な柱であるはずである。納税者の納得であると必ずマイノリティーは切り捨てられる。

人口減少、少子高齢化等で、節税と言っているが、税金は使われてなんぼである。ただ使い道が問題なのだと思う。一体軍備にどれだけお金をかけたら、何か良い未来があるというのだろうか。今現在、生活するのに困っている人を支えなくてどうするのだろう。

何か思想に毒されている人は目の前の出来事を見ない気がする。そして、多くの日本人は国に飼い馴らされ、目の前の困っている人を支えようとはしない。なんか今の日常が続いて行くと幻想を持っているのではないかと思う。

適当なパンとサーカスを与えられ、不平不満を言いながら、何もしないし、何かしようともしない。結局、自己を保存することしか関心がなく、行動で何か世の中を変えて行こうとはしないし、他者を認めたり、尊重することもしない。これは、自戒を込めて言っている。社会を是正するアクションは何より大切だと。

母方の田舎では、一緒に行こうを「やばいん」と言う。なんで、やばいん、なのか分からない。

今日、宮城県立精神医療センター移転反対のスタンディングで宮城県庁に向かって拡声器で喋ったが、少し興に乗って「村井知事、オマエ…」と言いそうになった。こちらは生活かかっているから、真剣だ。言っても、良かったかもしれぬ、が、言わなかった。でも、かなり言いたいことを言ったので、自分の中の燃焼度が違かった。次は、ゴールデンウィーク明けだ。まだまだやり合わねばならない。あっちは勝つまでじゃんけんをしている最中。負けてたまるか!

結婚式も地域性、時代性、人間関係性、日本は面倒臭い場面たくさんある。

日本語の一人称には、何か時代性や地域性、人間関係性が色濃く出てしまうようだ。もう少し、淡い一人称があれば、それを使いたい。アチキにはそのぐらいがようござんす。

私は一人称に困っています。ボクでもない、わたしでもない、オレでもない。名前で自分を名乗ったら、ヤバいヤツという私の世界にいる。

精神の病気は病識を持つことがとても大変なのだが、病識を持っている患者と病識を持たない患者とでは、明らかに回復の過程や程度は違う。

前者の方が絶対的に予後がいいのだ。もし、調子を崩すことがあっても、そこからの回復は早い、そして、その後の病状の安定も良く、日常の形成や人間関係の構築等において力を発揮できる人が多い。

病識は何によって持てるかわからないが、病気を病気として認める自己の客観視は強く影響しているであろうと思う。

本当の安心は根本までの追求の果てに来ると思っている。それまで、不安とともに生きることを定めとしている。安易に安心に飛び付かぬように。深い悩みの後に本当の解決が生まれるように。

炊飯器で玄米モードで炊いたが、美味しいのだが、私はお腹を壊してしまう。恐るべし玄米!

よく考え過ぎだと言われる。
でも、人生一度きり。
手は抜けない。
ただ余裕を持つことや泰然とすることは、
大切だと思う。
一歩一歩積み重ねること、これしか今は、
できぬのじゃー

パソコン欲しいなぁー
グラフィックや映像の編集、ゲームをしないので、そんなに高いヤツじゃなくて…
文章作成が主である。できれば、音楽も…
最初、マストドンもこんなに閲覧したり、トゥートしたりするとは思わなかった。
少しパソコン関連の知識を増やして、ウォチパに参加できるようになりたい。

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