自死の幇助をめぐる討論を描いた戯曲、フェルディナント・フォン・シーラッハ『神』を夏に読んだすぐ後に、ちょうどこの児玉さんの『安楽死が合法の国で起こっていること』が出ることを知り、合わせて読みたいと思い発売を待っていた。
『神』では人間の自由意思と生き方が議論の中心にあったけれど、シーラッハが俎上に載せて交わされた意見や懸念(ドイツでは2020年に自死幇助禁止が裁判所により覆され、具体的な法整備の議論はこれからという状況)は、他の国々ではすでにそれらを遥かに通り越した実態が出来つつあり、更に加速しようとしていることが分かり恐ろしくなった。
『神』での、「あなたはこの自死の幇助に賛成か?反対か?」と読者が結論を下すコンセプトが、もはや問題に思える。
『安楽死が合法の国で起こっていること』
重い障害を持つお子さんの親でもある児玉さんの、医療職と患者・家族の意識のギャップについての感覚と言葉には、私も大学後から10年ほど家族のケアラーをしているので、ものすごく身につまされた。
そしてコロナ禍において、重症化リスクが高い家族のケアラーの人たちが「トリアージを導入してほしい」と求める願いを知った児玉さんが、「なんと切なく悲しい誤解なのだろう…」と暗澹となった気持ち、本当に辛くて悲しくなった。
医療資源が限られトリアージで治療優先度を決めなければならない状況が万一起きた時、要介護の高齢者や障害者はけして優先されないのだろうから。