永井荷風文学賞・新人賞の開設発表が「ゆかり」の市川市で行なわれた、という記事を読む。
荷風という名は、21世紀に入ってからは、専門とする人以外はすっかり耳にする機会がなくなったような気がする。
実はWWII直後は、随分肯定的に言及されたものである。ただし、荷風は自分で「戯作文学」というだけあって政治的内容を含むものはない。
とは言え、自ら「戯作者」を名乗り、江戸の下町情緒が残る浅草・墨田を創作の場としてのは、荷風の明治政府への批判の表れである。
米・仏の留学から帰り、「三田文学」を創刊するも、1910年の大逆事件に遭遇。その際、荷風は「体制派は、逆らう市民を迫害している。ドレフュス事件を糾弾したゾラの勇気がなければ、戯作者に身をおとすしかない」として、以後江戸の文人や下町に依拠しながら、明治東京の「安普請」を批判し続けた。
ほぼ全ての作家が「文学報国会」に加入する中で、荷風をそれを拒否、日記「断腸亭日乗」を書き続ける。1945年春には「ヒトラー、ムッソリーニの二兇敗れて死せりの報、天網漏らさず」と書く。
同じ日にラブレー研究者渡辺一夫は日記に「なんたる喜び!」と書く。
ところで空襲で焼失した有名な荷風の消失した偏奇館、六本木じゃなかったか、と思ったら戦後市川に居を構えたらしい。