ではバーリン(1909生)やポパー(1902生)のヘーゲル批判は全くの「言いがかり」だったのでしょうか?
これは同時代的にはそうとも言い切れません。バーリンはラトヴィア・リガ、ポパーにウィーンのユダヤ人で、英国に移住。当然両者にとってナチズムとの対決が思想的課題となる。
ドイツは19世紀末から1929年まではカント学派が主流。ところが、世界恐慌以降、「新ヘーゲル学派」が急速に台頭、ナチスのイデオローグとなります。ナチスはユダヤ系学者(カント派)や社民党支持者を大学から放逐、そのポストに新ヘーゲル主義者が収まり、「新秩序」論を鼓吹。
またシュミットはWWI直後からワイマール体制を「保守」の立場から批判し、大統領独裁の正当化プランを作成したりしたが、ナチスが政権を獲ると、すぐさま入党。
逆に排除された大物としては、社民時代司法大臣を務めたラートブルフ、WWI後オーストリア共和国憲法案を起草したケルゼンがいる。
丸山眞男は同時代的に左派へ―ゲリアンとして、ケルゼン、ラートブルフ、シュミットを並行して原書で読んでいた。またオックスフォード滞在中はバーリンと親しくしていた。
であるから、20世紀フランス思想以外の大抵のブロブレマティークは、丸山のテクストに「再発見」できるのである。