7世紀から10世紀までは地中海は「イスラムの海」であり、商取引に当たっては、おそらくユスティヌアヌス法典(後期ローマ法)を参照していたと思われる。
10世紀にイスラムが後退していく中で、北イタリアで「ローマ法大全」が「発見」され、ボローニャ大学法学部にて第一次ローマ法「継受」が行われる。
また南仏モンペリエやトゥルーズでもローマ法「継受」が始まる。南仏のトゥルバトゥール(吟遊詩人)の伝統もイスラムからの継承である。
これに対し、王権の中心パリ大学では法学部を禁止。あくまで神学部を中心として、ローマ法継受を阻止。世界史などで、パリ大学(神学)、ボローニャ大学(法学)とされるのはそのため。
ちなみにフィリップ2世がパリ大学で法学を禁止したのは、神聖ローマ帝国との対抗上ともされる。つまり「ローマ法」を施行する国家は筋として「ローマ帝国」の風下に立つことになる。
さらにフィリップ4世は有名な「アナーニ事件」を引き起こし、南仏アヴィニヨンへ教皇庁を移す。
この過程でフランスには慣習法を統一管理する法律家階級が生まれる。モンテーニュやモンテスキューはその代表とも言える。
「ガリカニスム」は教会だけでなく、法律家にも分有された。これによって革命までにパリ慣習法の体系化が進みます。