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ハイデガーやデリダは頻りに「プラトン以来の西洋形而上学」と言う。これにはそれこそ脱構築的補足が必要である。

プラトンは、ローマ帝国滅亡以来、ルネサンスまで「西欧」では知られていない。

またトマス・アクィナスなどの中世スコラ哲学の基礎はアリステテレスだが、アリストテレスのテクストもイスラム世界から導入された(つまりアラビア語からラテン語への重訳)。そもそもアリストテレス自体がローマ帝国時代、数百年に渡って「忘れられていた」のである。

さらにイェーリングの「ローマは三度世界を征服した。一度目は武力によって、二度目はキリスト教によって、三度目はローマ法によって」で有名なローマ法大全。これは元来東ローマ皇帝ユスティヌアヌスが編纂させた私法群を総称したもの。

このテクスト群も西ローマ帝国崩壊とともに一度失われた。この間地中海はイスラムの海となり、シチリア、スペイン、南仏などもイスラム支配下に入る。

 10世紀以降、イスラムは南仏や南イタリアから撤退していくが、その際、商業化したイタリア都市にローマ法大全(Corpus Iuris Civilis)のテクストも残され、それらが1548年、ジュネーヴにて「市民法大全」として企画されたのである。

従って一言で「ローマ法継受」と言っても複雑な過程を辿っている。

 7世紀から10世紀までは地中海は「イスラムの海」であり、商取引に当たっては、おそらくユスティヌアヌス法典(後期ローマ法)を参照していたと思われる。

 10世紀にイスラムが後退していく中で、北イタリアで「ローマ法大全」が「発見」され、ボローニャ大学法学部にて第一次ローマ法「継受」が行われる。

 また南仏モンペリエやトゥルーズでもローマ法「継受」が始まる。南仏のトゥルバトゥール(吟遊詩人)の伝統もイスラムからの継承である。

 これに対し、王権の中心パリ大学では法学部を禁止。あくまで神学部を中心として、ローマ法継受を阻止。世界史などで、パリ大学(神学)、ボローニャ大学(法学)とされるのはそのため。

 ちなみにフィリップ2世がパリ大学で法学を禁止したのは、神聖ローマ帝国との対抗上ともされる。つまり「ローマ法」を施行する国家は筋として「ローマ帝国」の風下に立つことになる。

 さらにフィリップ4世は有名な「アナーニ事件」を引き起こし、南仏アヴィニヨンへ教皇庁を移す。

 この過程でフランスには慣習法を統一管理する法律家階級が生まれる。モンテーニュやモンテスキューはその代表とも言える。

 「ガリカニスム」は教会だけでなく、法律家にも分有された。これによって革命までにパリ慣習法の体系化が進みます。

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