「日本国憲法の起源」
日本国憲法の起源をハイ・ポリティックスの決定過程から見れば、1945年12月から翌46年1月までの間の、極東委員会、米国務省、マッカーサーの三者間の激しい綱引きが第一段階。
極東委員会・国務省は天皇制廃止を選択肢に入れ、逆に「完全非武装」は考えていなかった。マッカーサーは逆で、「戦争権の放棄」を前提に天皇の権威を利用しようとする。
極東委員会視察団が離日した2月1日に民政局長ホイットニーは次長のケーディスに憲法草案の作成を指示。というのも、日本政府の改憲案は基本明治憲法と同じであって、到底極東委員会に受け入られる可能性がなかったから。
命令を受けたケーディスは驚いたものの、高野岩三郎・鈴木安蔵等民間の憲法研究会の改正案を下敷きにしつつ、2週間弱昼夜兼行で草案を仕上げた。有名なB.シロタの「両性の平等」もこの際書き込まれた。
この草案の特徴は全体の3分の1が人権条項だったこと。逆に日本政府案には「人権」項目がなかった。
今の憲法学主流でも「人権」と「統治機構」と二分し、法学全体では人権の部分を「下に見る」風潮がある。
刑事法の人間などは「人権の箇所は誰でも教えられる」などと嘯く時代である。
ただし、日本政府はこの民政局草案に激しく抵抗する。
訂正・補足
「マッカーサーより上位に置かれた」
実際、FECは3月6日の憲法草案発表から、時期尚早と憲法制定は時期尚早、と警告し続け、米国務省もそれにむしろ同調したが、連合国軍最高司令官(SCAP)であるマッカーサーは、これを無視、最後の帝国議会(女性参政権)を招集して、これを実質的に憲法制定議会とした。
マッカーサーは極東委員会、国務省、合衆国陸軍の意向を無視して、憲法制定のの既成事実化を推し進めた。
何と言っても、当時の米国陸軍参謀総長のアイゼンハワーはウェストポイントのマッカッサーの10年後輩であり、しかもマッカーサーの陸軍参謀総長時代、フィリピン軍事総督時代の10年間副官を務めた間柄(関係は必ずしもよくなかったけれども)。
極東委員会米国代表のマッコイの至っては少将であって、マッカーサーは完全に格下に見ていた。
つまり、日本占領にあたってマッカーサーは「シビリアン・コントール」に必ずしも服しておらず、「青い目の大君」と呼ばれたように、いわば「君主」として君臨していた面もある。
このあたり、E.サイードの専門であるJ.コンラッドの『闇の奥』と比較しても面白いかもしれない。
ただし、マッカーサーは帰国後、この振る舞いの「つけ」を払うことになる。