さて、スパルタクス東大教授、長崎浩のルソーー北一輝ー2・26ーアジア主義という図式を自分のルソー論と「ほとんど」同じ、と言っている。
しかし、この長崎浩の図式、1960年代前半から中盤にかけての大学、とくに九州大学の卒論で大量に生産されたクリシェ(紋切り型)である。
何故かと言えば、これは元ネタがあって久野収、鶴見俊輔、竹内好の三人である。
前二者は、批判的に分析したののだが、運動に参加した学生の論調は「アジア主義」の近代主義批判、に軸足を置いたものが多い、と言われている。
これはある意味当然であって、北九州と言えば、1880年代からの朝鮮侵略の前進基地であり、「アジア主義」は侵略の尖兵となった。つまりさすがに政府としてできない「汚れ仕事」をアジア主義者たちが請け負ったのである。
ところでスパルタクス君、廣瀬純さんの「オキュパイWT」に「一般意志が降臨した」的な発信を肯定的に引用している。
さてさて、廣瀬さん、元来ネグる=ハート派の筈。彼らがルソーを激しく批判しているのを知らないのだろうか?
またXでの自著解説を読む限り、立法者と一般意志が混然一体となっているようだが、これは全く別の概念である。
立法者は「立法権をもたないし、もつべきではない」のである。
ネグリ=ハート派の「マルチチュード multitude」とルソーの「一般意志」はまず相容れない。
少なくとも、当人たちの理解はそうだ。
またもし、マルチチュードと一般意志を和解させるとすると、それは「マルチチュード」理論は崩壊することになる。
それにしても、佐藤嘉幸さん、廣瀬純さん、そしてスパルタカス君と面識がある人間ばかりが、東浩紀がらみで出てくるのはどういうわけだろう?
スパルタカス君について言えば、現在リュシアンのように、鏡の前で「髭を生やす」ことを決意すべきか、どうか思案中、ということだろう。
ところで、1930年代のフランスのファシズム・反ユダヤ主義、L.ブニュエルの「小間使いの日記」の主題でもあります。
排外主義の言葉は現代のものとほぼ「同じ」であることに驚かされます。
ルメイクもありますが、やはりブニュエルのそれが優れている、と言えるでしょう。
ブニュエルは、トリフォー、ゴダールとともにサルトルのファンでもあり、ノーベル文学賞辞退の際には「ブラボー」と祝電を打ったとされています。