常石敬一さんが今年4月に亡くなった。科学史・科学技術論専攻。特に戦中に満州を本拠をおいた731部隊の研究で有名である。
731部隊は軍の防疫担当だけでなく、「丸太」と呼ばれる、朝鮮人、中国人、モンゴル人、ロシア人、アメリカ人など3000以上を「人体実験」に使っていた。敗戦後、そのデータは、責任者石井四郎とSCAP内G2(諜報・治安部門)のウィロビーの「取引」によって米軍に渡され、関係者は「恩赦」となり、戦後予防医学界の「大物」となったとされる。
1989年新宿区戸山に国立予防研究所(現国立感染研究所)が建てられる際、20体以上の人骨が
発見された。この新宿戸山は旧日本軍防疫研究所の中心場所であり、発見された人骨は、その後の調査と証言で、「丸太」の一部であるとは確実視されている。
実は、私の大学時代の音楽仲間の大半は早稲田の文学部生だったのだが、彼らは、常石さんや芝田進午さんに手伝ってもらいながら「予研」問題に取り組んでいた。早大の文学部棟は予研のすぐ後ろにある。
芸術家肌だった彼らはベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」やシェーンベルクによって、「マルタ」の記憶を大衆消費社会日本の中心に召喚しようとしていた。
今は彼らも離散し、亡くなった人もいる。当時の日本では孤立無援の戦いではあった。
「早稲田の友人たち」
酒井さん、道場さんと私を含めたフランス哲学研究室の友人たちとは3学年しか違わないのだが、同じ左翼でありながらも「ハビトゥス」の違いがはっきりあった。
私は早大ではないので当然かも、だが他の友人達もそうだった。これは酒井さん、道場さんが、学生運動における早稲田ノンセクトラディカルの最後の位置にいたことに由来するのでは、と私は考えている。
とくに酒井さんは「ダメ連」の人たちとも親しく、「あかね」という文学部キャンパスの近くの「飲み屋」によく集っていたようだが、私はアルコールを嗜まないこともあり、多分つきあいで1,2回行った程度である。
そこにはあの「すが秀美」も出入りして、道場さんのことを「ソ連のスパイ」などと呼んで絡んでいた(もう、その時ソ連はないの!)。であるから私はスガの書いたものなど一切信用しない。
フランス哲学研究室には、アルチュセール研究(この人も癌で早逝した)、スピノザ研究(英独仏羅習得)、ドゥルーズ研究、レヴィナス研究などの友人たちがいた。私は修士の時は何故かこの研究室のベルクソン『物質と記憶』の原書購読に出ていた。
みんな駒場の「神々」たちより遥かに優秀だったが、大学のポストにつけた人はいない。つくづく世間はアンフェアに出来ているものだ。
レヴィナス研究の友人は当時の文学少年の例にもれず、柄谷行人をよく読んでいた。現在、文化人類学東大教授の方は、柄谷を嫌っていたように思う。
いずれにせよ、80代の思想シーンが、「ポストモダニズム」とサントリー財団による「戦後民主主義」の挟撃の構図であり、大衆消費社会の完成によって、日本の言説はほぼそれに包摂された、というテーゼは、1993-3年頃には3人の間で共有されていたと思う。
このテーゼを私は、「80年代研究会」にもちこんだわけだ。参加者には大内、酒井、渋谷望、道場の各氏に加えて、カンサンジュンさん、科学哲学の金森修さんが常時参加していた。
この時には、文化人類学のWはもう哲学・思想から撤退していたし、もう一人の方は大学から立ち去り始めていた。
この友人はなかなかの名文家で、学部2年生の時、S.ベケットの『クラップ最後のテープ』観劇の感想を長い手紙で送ってくれたのだが、これは素晴らしいものだった。
私も数年遅れで、ベケットの同じ舞台を見たのだが、これもやはり感動した。後年、世界的にも高名なベケット研究者(現東大駒場教授)に聞いたところ、「あの芝居はベケットを凝縮したものだよ!」と言われて納得した次第。
いずれにせよ、80代論、30年を経ても有効であり続けているようだ。