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「フィロゾーフ philosophe」から 「écrivain éngagé」 へ(上)

大江健三郎は文学史的にはは渡辺一夫を師とし、加藤周一、堀田善衛、中村真一郎など「戦後文学」仏文系の殿の位置を占めることになります。

この内、加藤、堀田、大江がフランスの文人・作家の伝統に連なることをご存じの方も多いと思います。現在「écrivain éngagé」などの言葉はフランス語の中で、ある意味普通名詞化している。

とは言え、engagement , éngagéという言葉が普通名詞化し始めたのは、やはりWWII後のJ=P.サルトル後です。

同時に18世紀のディドロ、レナル、ドルバックなどの急進啓蒙が奴隷制廃止、表現の自由を主張、また「民主制」を擁護した伝統が、ー断絶を含みながらー21世紀、昨年ノーベル文学賞を受賞したA.エルノーまで続いていることも想起すべきでしょう。エルノーは典型的な「écrivain éngagé」です。

19世紀には先駆的な死刑廃止論者ユーゴーがルイ・ナポレオンのクーデタ―を批判して帝政崩壊まで亡命。続いてゾラがドレフュス事件に際して「我弾劾すJ’accuse」を新聞に発表、やはり亡命を強いられながらも「反ユダヤ主義」と戦いました。(ゾラの死は暗殺説が有力)。 

とは言え、ユーゴー、ゾラは詩人、作家ではありますが、所謂「哲学者」ではありません。

しかし一方デカルトは明らかに「哲学者」です。さて?

哲学・思想にご関心の或る方は、デカルト、スピノザ、ライプニッツの大陸合理論とロック、ヒュームのイギリス経験論をカントが総合、という流れをご存じだと思います。

この「流れ」、つまり「ローマ」ならぬ「カント」にすべてが集約される「哲学史」、20世紀の新カント派の構築したもの。両大戦間までは独仏の大学、リセ・ギムナジウムでは新カント哲学が支配していたため、日本の「哲学史」あるいは「高校倫理」でもそうなっている。

仏ではデカルト後、マルブランシュ、メーヌ・ド・ビラン、そしV.クーザンを挟んでベルクソンという流れがある。メルロ=ポンティ、ドゥルーズもこのspiritualismeの系譜に置くこともできます。

ただし、19世紀に飛躍的に数学・自然科学が進化したため、ヘーゲルやspritualismeではなく、新カント哲学が前景化するそれなりの理由はあった。

例えば、19世紀前半にはリーマンの非ユークリッド幾何学に始まる「純粋数学」が物理学とは分離し始める。つまりニュートンやカントの前提は崩れます。

この動きに哲学として対応したのが、新カント派です。

しかし新カント派、19世紀に前景化した「社会」への対応、あまり得意ではない。

逆にヘーゲルは「社会」と「国家」の分離を前提とした哲学体系を作り出した(「法哲学」)。マルクスは、このヘーゲル法哲学批判から出発している。

フランスにおいて「社会」に対応して前景化した知的言説がサン・シモン、コント、そしてデュケームへと至る「社会学」です。

ですから、仏第三共和政の「哲学」は社会学と新カント派の二本立て。

他方、V.ユーゴーも19世紀の資本主義の進展に伴う貧困や「社会」の出現に対応した。『レ・ミゼラブル』はサン・シモン主義の影響も濃厚に受けた書物です。またゾラもサン・シモン主義者といってよい。

国際的には圧倒的にユーゴー、ゾラが有名だが、それにも理由がある。

つまり19世紀以降の「哲学者」は国家公務員なので、国家が右傾化した際、どうしても批判が鈍る。

対してユーゴー、ゾラなどの大作家は、自由に国家権力を批判できたのです。亡命と暗殺という代価は払ったけれども(やれやれ、やっと戻ってきた😅 )。

WWIIから20年続くサルトルの知的威信、まず哲学者であり同時に作家でもある、ことから来る。

実際サルトルは大学とは一切関係をもたなかったため、アルジェリア戦争中も国家権力をラディカルに批判できた。

しかしWWII後の仏はその他にも特殊な事情があった。

何と言っても、戦中の正式の政府・国家機構はいわゆる「ヴィシー政府」、つまりナチスに協力した政府。若手高級官僚の県知事もJ.ムーランを除いて全員ヴイシーに忠誠を誓った。ムーランはド・ゴールの自由フランスの国内責任者となったが、ついにゲシュタポのK.バルビーの手を落ち、拷問死した。

またドイツの対ソ戦も仏の軍需生産能力を総動員することで可能になった。

そういう訳でWWII以後一応戦中「テロリスト指名手配」したド・ゴールを臨時政府首班としたものの、フランスの行政機構ほぼまるごとコラボ(対独協力者)であったため、やや肩身が狭い。(目立った極右の作家などを銃殺してお茶を濁したが。尚サルトルは原則的死刑廃止論者)。

そこでレジスタンス組織化の中心となった共産党や独立左派の知識人の発言力が上がった。

これは戦後直後、「獄中非転向組」や丸山、久野、加藤などの非「協力」知識人の前景化
が見られた日本と類似性がある。

つまり仏は実質的にWWIIにおいて敗戦国だった。そのため、既成の価値観は崩壊し、「すべてをやり直す」ことが当然となる。

逆に戦勝国である米英ソではWWI後のドイツやWWII後のフランス、日本のように芸術や学問の刷新は起こらなかった。

インドシナ、チュニジア、モロッコと異なり、当時のアルジェリアは法制度上「植民地」ではなく、「フランス」。

1830年の征服から120年以上たち、「植民者 colon」たちも6-7世代。カミュやアルチュセール、あるいはランシエールなどはこれにあたる。デリダは1830年の征服以前からのセファラード(ユダヤ人)になるので別カテゴリー。

であるから、アルジェリア独立を支持することは「国家反逆罪」、FLN(民族解放戦線)は「テロ組織」ということになる。これは現在のイスラエルーパレスティナ関係の構図でもある。

しかも、1954-1962年はFLNとフランスは戦争状態になるので、アルジェリア独立を支持することは「利敵行為」にもなる。

またフランスはFLNを交戦国と認めていないので、戦時国際法は適用されない、とする。従って、現在の「テロとの戦争」で頻発している拷問などの「テクニック」はここでまず開発され、後にラテンアメリカの軍事政権に「輸出」された。

しかし、中途から多発する「拷問」の悲惨さが知られ始め、中道派や大学教授たちも「法的」・「倫理的」にそれを批判できるようになり、本国世論も「独立やむなし」に傾く。

焦った右派は「無秩序を回避するため」と称してド・ゴールを担いでクーデター。第四共和政は終焉。

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