「どこにも居場所がない」(正)
また、この手の超高学歴ネトウヨ、「誰か」に女性、特に「知的女性」を代入することも多い。
そういう意味では東浩紀や呉座勇一、SF、ライトノベルといったサブカルチャー界隈の「ミソジニー」と共振している。
また在日コリアン、沖縄、はては韓国、中国、といった外国にまで「自分の人生」の失敗の責任を押しつけることもままある。
しかし、「マジョリティ」や「米国」に彼らの「誰か」が入ることはない。要するに、攻撃をしても「報復」がない「マイノリティ」を意識的・無意識的に選択している。
1930年代のドイツではその「誰か」が「ユダヤ人」であったわけだ。
先に挙げた、東、呉座、SF、,ライトノベル、それにアニメ。
母子癒着を前提とした「男の子」の「幼児的全能感」という共通した感性。
また現在日本の文化ヘゲモニーの中心にいるので、これの批判・解体は一苦労。
次号「現在思想」特集「カルトと教育」での教育社会学者大内裕和さんとの討議では、ハードな権力の新自由主義的再編とともに文化言説における「母子癒着」、「男の子」の「幼児的全能感」、そして「プチ・ゲッベルス」問題についても議論しました。