詳しくはこちら↓ ほどなくしてロスに巡回し、オークション自体はNYで行なわれるらしい(そらそうよ(←岡田前監督並感))
予想落札価格は約1.5億〜2.3億円。マウリツィオ・カテランの“バナナ”がサザビーズに出品 https://bijutsutecho.com/magazine/news/market/29751
バナナをテープで壁とかパーテーションとかに貼りつけた作品として、初出当時物議を醸してたマウリツィオ・カテラン《COMEDIAN》が某サザビーズによって丸の内某所で展示されているとか。このあとオークションにかけられるとのことですが、エスティメートは1.5億〜2.3億円だそうで
当方は結局行ってませんが、先週末の京都ではART KYOTOやArt Collaboration Kyotoと同時期にARTAOTA( https://artaota.jp/ )なる若手発見イベントも開催されており、しかしそれにしてもこのネーミングでOTA FINE ARTSと無関係なのはどうなん!? となってしまう
なお会期中の11月30日には、橋本氏と足利市立美術館の江尻潔氏による対談「超越的存在は描き得るか?─実在と存在のあわいをめぐって─」が開催されるそうです。当方は仕事なのでうかがえませんが、一昨年の個展の際に宮下規久朗(美術史家、神戸大教授)氏を招いた対談でも橋本節が大爆発していただけに、今回もきっとものすごいことになるんでしょうなぁ。その際の覚書はこちら↓
https://note.com/ymyh/n/nc26854ae4f8f
https://note.com/ymyh/n/n551a31adc74b
橋本倫展|2024.11.15〜12.14|+Y GALLERY(大阪市中央区)
DMが届いてました。ポストもの派や(峯村敏明(1936〜)御大が1980〜2000年代に企画していた)「平行芸術展」ゆかりの美術家たちの個展をしばしば行なっていることで、さながらなびす画廊大阪支店といった相貌すら呈している+Y GALLERYですが、東京を中心に、そのなびす画廊で個展やグループ展を重ねていた橋本倫(1963〜)氏の、同所では一昨年以来となる個展。
実在物の属性から分離されて独立に存在し、且つ、実在物を媒体としてのみ擬似可視的に顕現し得るもの。それを宿したモノこそが形而上的実在物たる具象物、すなわちシンボル=イコン=具象的抽象/形而上的具象と化す。「平行芸術展」ゆかりの美術家に広く薄く見られる傾向でもありますが、橋本氏はしばしば絵画によって/絵画を通して「形而上的実在物」を「顕現」させようとしており、実際、一昨年の個展では神話的形象を大胆に導入した大作絵画を出展していたもの。今回は《長年にわたり魅せられている素数分布論に題材を得た数学的存在の擬似可視化たる”イコン”の制作を試みた》そうで、当方は数学に関してはクソザコナメクジなのでアレですが かかる「擬似可視的に顕現し得るもの」を描くことを通していかなる地平を描き出そうとしているか。もろもろの人間的な領域の彼岸における〈超越的・形而上的なもの〉をめぐる技芸としての美術という問題系をめぐる美的実践は、近年のアートシーンではとんと見られなくなっただけに、橋本氏の奮闘ぶりに注目したい。
「メディウム」第5号ジョナサン・スターン特集に未邦訳の最近著「Diminished Faculties」のレビューを寄せました。バチバチに気合入れて書いた原稿の一つです!!メディア論と障害学、クィア論などを橋渡しする超重要な本なので、みんなに読んでほしい一心で書きました。同じく日本語訳されてなかった「フォーマットは存在しない」や、フォーマットスタディーズ論集の「Format Matters」編者のひとりアクセル・フォルマーの翻訳があるのもアツい! https://x.com/Medium_Schrift/status/1853395206097244299
以前とある研究者から聞いた話ですが、
瑛九において「デモクラシー」という言葉は今日私たちが使うときとは若干異なるニュアンスで用いられていたらしい──彼において、それはまず戦前(とりわけ昭和10年代)の時期におけるアートシーンに対する批判というモーメントが多く含まれていた。この時期、多くの美術団体が結成されていたのですが、そのような動きは同時進行していた総力戦体制の構築に対する抵抗ではなくそれと表裏一体となるような現象であったと瑛九は喝破していたのだという。だからこそデモクラート美術協会においては審査や賞レースは排除され、会員が外部の団体に出展することは禁じられていたのですが、それはかような(近)過去への反省というモティーフを強く含んでいたというわけですね。言うまでもなく「デモクラート」とは「デモクラシー」と「アート」の合体語ですが、ここにおける「デモクラシー」のニュアンスを現在の私たちが正確につかみ取るのは、不可能とは言わないにしてもなかなか難しいのかもしれない。少なくともそれはできあいの党派性を自明視することではあるまい。
【レビュー】「瑛九 ―まなざしのその先に―」横須賀美術館で11月4日まで 一人の作家とは思えない変化する美の軌跡
https://artexhibition.jp/topics/news/20241029-AEJ2465530/
横須賀美術館での瑛九展、今日までだったんですね。記事を読むに、かなり網羅的に作品を集めて紹介していたようで。これはこっちにも巡回してほしかった。
とはいえ、関西で瑛九の作品に接する機会が絶無なのかというとそういうことはなくて、特に和歌山県立近代美術館がよく頑張っているのですが、彼が結成し、泉茂(1922〜95)や池田満寿夫(1934〜97)などが所属していたデモクラート美術協会の回顧展という形で紹介される機会が数年ごとにありまして。今回の「瑛九 ―まなざしのその先に―」展においてデモクラート美術協会についていかなる形で言及されていたかは知りませんが、関西においては──その主要メンバーであり、同会解散のきっかけともなった泉茂が、後に関西のアートシーンに重きをなしていったこともあって──研究の蓄積があるわけで、それと突き合わせていくことが重要でしょう。
かかるローカル/トランスローカル/グローバルな実践の総体としての現代美術史への直接的な参照&介入に加え、ディアスポラや、LGBTQIA+としての自分自身をめぐるアイデンティティ・ポリティクスも前面に押し出されているようですが、そのような展覧会全体の傾向性の中で声優の村瀬歩氏とコラボしているの、なかなか理にかなってて驚。かつて何かのアニメで氏と共演していた種田梨沙嬢(通称:ヲ種さん)が某アニラジで「村瀬くんは性別:村瀬歩だから」と力説していたものですが、そのことを荒川ナッシュ氏は知ってたのか知らなかったのか。ともかくヲ種さんの超発言が時を経てかかる超展開を招いたことになったのは
「荒川ナッシュ医 ペインティングス・アー・ポップスターズ」(国立新美術館)レポート。ユーミン、千葉雅也、村瀬歩、キム・ゴードンら多彩な顔ぶれとコラボする“生きた”美術館 https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/eiarakawanash-nact-report-202410
開催中〜12.16。荒川ナッシュ医氏、当方は荒川医名義時代の2012年に大同倉庫(京都市中京区)で開催された「アブストラと12人の芸術家」展で映像作品に接したことがあり──吉原治良や村上三郎、白髪一雄のアクション・ペインティング作品にキャスターをつけ、コンテンポラリーダンサーたちと舞台上で共演させるというものでした(つまりaction paintingならぬpainting with actionを企図していたわけですか?)──ますが、その頃のような「具体」弄りもありつつ、記事を読むとさらに自由にやってはるようですね。しかしそれにしても入場無料ってェ…… 昨年の大巻伸嗣展でもそうでしたが、国立新美術館どないしたん!?
11月ですね
武満 徹:ノヴェンバー・ステップス https://www.youtube.com/watch?si=qr7PT7W_g2uTCHtJ&v=T7xVI-0bf_A&feature=youtu.be
館内は撮影禁止だったのでアレですが
(画像はフライヤー)、糊を布の上にぶちまけてスキージで伸ばしていく、その軌跡や力技をそのまま染色に反映させる加賀城氏、ろうけつ染によって複数の色による渋いグラデーションを繊細に染めていく舘氏、キャラクターが溶けたり崩れたりしていく様を指でワイルドに描いて染めていく波多野氏、シルクスクリーンと鉄錆染という両極端な手法を用いる山中氏、染色した布に端切れで作ったリボンを編みこんでモザイク状の画面を作り出す皆川氏。個人的には山中氏と皆川氏の作品には初めて接したのですが、今回は過去二回と較べても出展作家のインパクトの強さが際立っていたように思います。
と同時に、これは確かに「染色」という方法/ディシプリンでなければ成立しえない表現なのかもしれないと強く観者に思わせる作品揃いともなっていたと言わなければならないでしょう。支持体自体を色で染めることで、同じ平面であっても染色は絵画とその理念的なありようという位相において若干かつ決定的に違うと考えられるのですが──例えば絵画においてしばしば決定的な概念として語られる〈絵画空間〉は、染色においては(以上のような特性ゆえに)あまり強固には成立しないのではないか──、今回の五人の出展作家はそれぞれのやり方で〈絵画空間〉という、平面表現において割と自明視されがちな概念を積極的に問い直していた。見やすいところで言うと、それは加賀城氏においては布=支持体自体の伸縮可能性をテコに、平面上に力の軌跡をムリヤリ描き出していくことでなされていたし、舘氏においては複数の色が交わらない(つまり、空間性が成立しない)形でグラデーションが染められることでなされていた。あるいは薄い絹布(シルクスクリーン)に薄く風景写真などが染められることでcombine painting((C)ラウシェンバーグ)の潜在的射程を染色の文脈において再演&換骨奪胎してみせた山中氏にも、〈絵画空間〉に対する批評は見出されるだろう。
いずれにしましても、染色独自の可能性について、きちんと実践している若手作家もいることが説得力を持って提示されていたことは間違いないでしょう。11.17まで。
好事家、インディペンデント鑑賞者。オプリもあるよ♪