「シュルレアリスムと京都」 https://www.tokyoartbeat.com/events/-/Surrealism-and-Kyoto/FFEE128A/2023-12-23
2023.12.23〜2024.2.18、京都文化博物館。現在企画展フロアでは「シュルレアリスムと日本」展が開催中の京都文化博物館ですが、平安京以来の京都の歴史を紹介する常設展フロアの一角にある、京都関連の小企画展を行なう特集展示スペースでも関連した展覧会が開催されるようですね。合わせて見ておきたい。(多少の誤解込みで)美術運動でもあり文学運動でもあり、それらをひっくるめた政治運動でもあった戦前日本のシュルレアリスムについて、京都という場所独自のファクターを加えるとどのような光景が見えてくるでしょうか。
日本写真史において唯一無二の存在。キュレーターとめぐる、安井仲治の20年ぶりの展覧会 https://bijutsutecho.com/magazine/interview/promotion/28135
あとで読む。兵庫県美での安井仲治展、知らん間に始まってるんですね(〜2024.2.12)。安井仲治(1903〜42)、関西の美術館での常設展でたまに見かけることは多いですが、かような規模での個展という形では接したことがないので、24日まで開催の新収蔵品展と合わせて見ておきたいところ
もうカタログ出てるんですね。関西だと扱ってる書店が少ないですから……
QT: https://pleroma.tenjuu.net/objects/52330008-30cd-4bbf-92e5-bfa4f85dac83 [参照]
イタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリ氏死去、90歳…左翼知識人として世界的影響力 : 読売新聞オンライン https://www.yomiuri.co.jp/world/20231216-OYT1T50232/
アントニオ・ネグリ(1933〜2023)。1990年代後半に大学生だった者としては、1997年に亡命先のフランスからイタリアに帰国して収監されたことと、2000年にマイケル・ハート(1960〜)との共著Empireを上梓して世界的に話題になった──その後、2003年に『〈帝国〉』というタイトルで邦訳された(訳者:水嶋一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実)──ことが思い出されるところ。
主権が新たな形態を取るようになったということ、しかも、この新たな形態は、単一の支配論理のもとに統合された一連の国家的 ナショナルかつ超国家的 スプラナショナルな組織体からなるということ、これである。この新しいグローバルな主権形態こそ、私たちが〈帝国〉と呼ぶものにほかならない。そんな『〈帝国〉』ですが、刊行から20年を経ても、現在の日本において読まれているとは端的に言い難い側面がありまして、それはひとえに「新しいグローバルな主権形態」という〈帝国〉論の骨子が、日本の左派(右派も?)における一国平和主義的な傾向/潮流と徹底的に折り合いが悪いからであると言えるかもしれません。その齟齬は『〈帝国〉』刊行当時もなかなかヒドかったものですが、近年はさらに目も当てられないことになっていると言わなければならない。当方よりもひと回り以上年下のアクティヴィストたちが日本の帝国主義を脱中心化する〜と息巻いてても、帝国主義の脱中心化は既に〈帝国〉として実現してるから、まぁ屋上屋の制作ご苦労様ですとしか言いようがないですわな
複合ぶりが圧巻、伊東豊雄氏の「おにクル」は令和のメディアテークである https://bunganet.tokyo/onikuru/
茨木市民会館跡に最近建築された茨木市文化・子育て複合施設「おにクル」、当方は所用の帰りに工事現場前を通りすがったことがある程度でしたが、知らん間に完成していたことも、そもそも伊東豊雄氏の設計だったことも全く知りませんでした
当然実際に行ってみないことには何とも言えないのですが、各フロアごとに機能やコンテンツなどを分散・混在させているというのは、この手の公共施設としてはかなり思い切っている感があります。茨木市やその周辺の、いわゆる北摂地域は、ハコモノの空間デザインに関しては割と保守的だから、余計に際立っている。というか当方の居所(茨木市の隣の市です)の市民会館もこのおにクルと同時期に新築されてオープンしたんですが、良くも悪くも手堅いだけのシロモノだったのでェ……
「絵画の中のものごとは、絵画の枠に収まるわけがない」──鮫島女史のこの発言は、彼女の絵画についての自註としてきわめて示唆的であると考えられます。実際、今回の出展作でも特定のモティーフ(彼女は絵を描く前に小さな立体物 コラージュを作るという)が複数の作品にわたって現われていたり、あるいは画面の中に大きく取られた余白が実は別の絵画の寸法と一致したりしているという。これらは明らかに「絵画の枠に収まるわけがない」ものごとをリテラルに見せるための技巧となっているのですが、しかしそれは技巧のための技巧ではなく、〈見えないもの〉の描かれざる連続性を示すために必然的に選び取られたものであることに注意しなければなりません。彼女において〈見えないもの〉とは、即自的・触覚的なものとして立ち現われており、描くことは、即自的な触覚性と技巧との間の創造的な不可能性の領野において「絵画の枠に収まるわけがない」形でなされる営為となる。そこを外さずに一貫しているところに、彼女の誠実さを見ることができるでしょう。24日まで
2kw galleryで開催中の鮫島ゆい「afterglow」展。ゼロ年代から関西で作家活動を続けている鮫島ゆい(1988〜)女史、近年は東京などでの個展やグループ展が続いており、関西での個展はわりとひさしぶり。
以前から複数の異質な要素が(異質さを隠さないまま)画面の中で同居した絵画を描いてきている鮫島女史、とりわけ近年は──金継ぎから想を得たという──「呼び継ぎ」というキーワードを前面に押し出し、矩形ではないシェイプトカンヴァスを多用した上で欠落や余白を画面の中に描きこんだ絵画を多くものしています。今回は近作〜新作が多く出展されており、彼女の現在地を知る上で過不足ないものとなっていたと、さしあたっては言えるでしょう。
鮫島は、「絵画という視覚芸術を通じて、視覚では捉えられない "見えないもの" の存在を指し示す」ことをテーマに作品制作を行なっています(プレスリリースより)かように、〈見えないもの〉への関心が鮫島女史の画業を貫く大きなモティーフとなっているわけですが、数年ぶりに個展という形で接してみると、その〈見えないもの〉への関心がさらに深度を増していることが一見即解だったわけで。「絵画という視覚芸術を通じて、視覚では捉えられない "見えないもの" の存在を指し示す」というのは、とりわけ写真技術の登場以後の近現代絵画においてはきわめてありふれた態度であると言えるわけですが、彼女の近作における「〈見えないもの〉への関心」は、そのような一般論に還元されない独自性を持っている。
社会学部芸術文化事業 映画上映会&トークセッション「風景の変容」 |追手門学院大学 https://www.otemon.ac.jp/event/other/_17357
2024.1.6|茨木市福祉文化会館|出展作家:ハルーン・ファロッキ、原田裕規、鈴木光、追手門学院大学社会学部社会文化デザインコース学生。当日は以上の面々の映像作品上映後、出展作家から原田氏と鈴木氏、東京都写真美術館学芸員の田坂博子女史を招いてトークセッションが行なわれるとのこと(司会:松谷容作氏(追手門学院大学社会学部教授))。本日まで事前申込期間だったので、慌てて申し込みました。果たして当方は勤務日程を上手くfixできるでしょうか…
今年当方が見逃したことを後悔しきりな展覧会ダントツNo.1な「風景論以後」展(2023.8.11〜11.5、東京都写真美術館)の担当学芸員を招いて、まさにその「風景(論)」をめぐる映像作品の上映とセットにしてイベントを組むとは、追手門学院大学もなかなかやりますねぇ
MetaのThreads、Mastodonとのクロス投稿のテストを開始 https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2312/14/news099.html#utm_term=share_sp
前々から予告はされていたThreadsのActivitypub規格の採用、いよいよ第一段階に入ったようで。当方もThreadsを使ってますが、基本的にはここでの内容の再投稿なので、本格的にFediverseと接続されたら(ry
「決定版! 女性画家たちの大阪」展|2023.12.23〜2024.2.25|大阪中之島美術館 https://nakka-art.jp/exhibition-post/women-painters-2023/
そう言えば来週末から始まるのでした。今年1月か2月かに「大阪の日本画」展を見たとき、早々に開催が告知されていたもの。
「大阪の日本画」展でも女性画家が多めに紹介されてましたが、単に女性画家が(東京や京都に比べて)相対的に多かったというだけでなく、官展や画壇を目指さなくても商家の床間を飾る掛軸専門の画家として生きることができた──そういう専門家のことを「船場派」と名付けていたのには、若干ゃもにょるところですが ──ことにも目配せが効いており、教条的なフェミニスト美術史とはひと味もふた味も違う女性画家たちのエコノミーが(限定されていた形ではあれ)成立していたことが示されてましたが、それがさらに大規模に展開されるんでしょうね。期待したいところです
好事家、インディペンデント鑑賞者。オプリもあるよ♪