安藤忠雄が設計監修。うめきた再開発で文化施設「VS.(ヴイエス)」が誕生へ https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/27965
来年には完成し、こけら落としとしてライゾマティクスを率いる真鍋大度氏の個展が開催されるとのこと。そんな早くできるもんなん? と思いましたが、記事中の画像を瞥見するに既に工事がかなり進んでるんですね。うめきたにはあまり行かないので、あのあたりの進捗を見る機会がなく
レポート|「沖縄画 8人の美術家による、現代沖縄の美術の諸相」Text:白坂由里 https://artdiver.tokyo/archives/16158
2023.8.10〜20に沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館にて開催された「沖縄画 8人の美術家による、現代沖縄の美術の諸相」についてのレポート記事。同展のディレクターを務めた土屋誠一(沖縄県立芸術大学准教授)氏へのインタビューを交えた構成となっています。この記事が載っているART DIVERから来月刊行予定の記録集につながるものと位置づけられているとのこと。あとで読む。
(ところでこの展覧会の記録集、当初は今月刊行予定とアナウンスされてましたが、一ヶ月程度の遅れで済んでいるあたり、地味にすごい)
これまで当エリアは、独特のまちとアートの関係とその成熟の過程が注目を集め、様々な視点から多数の学術論文や各種メディアの取材記事などで言及されてきましたが、近年は周辺を取り巻く状況からその認識に隔たりを感じることも度々起きていますその最大にして最悪の事例が今年唐突に勃発したこの案件である↓
開廊10周年記念展 Vol.3 「PRE KONOHANA MUSEUM」 2023年11月3日(金・祝)~26日(日) https://thethree.net/exhibitions/6308/
山中俊広(1975〜)氏の運営で今年オープン10周年を迎えたthe three konohana。今年度は加賀城健&加藤巧展→(Yoshimi Artsとの共催による)泉茂展と記念展が続いてますが、第三弾は同ギャラリーがある大阪市此花区において2010年代から継起しているアート/アーティスト/アートコレクティヴの諸実践を、此花区を拠点に活動している(西山広志+奥平桂子両氏による)建築家ユニットNO ARCHITECTSとともに回顧していくという趣の展覧会。当方もthe three konohanaオープン後にこの地域の動きについては一傍観者として瞥見しているだけに 気になることしきり
今日、野中女史本人から指摘があり、ギャラリー内の作品リストにおいて逆に書かれていたとのこと。ですので、左が《夕方、向かいの建物が夕陽に照らされた時の階段の壁》、右が《朝、窓の外が明るくなった時の階段の壁》となっております。失礼しました
https://x.com/nonakaazusa/status/1715223773849542740?s=46&t=HVpKYwTPKrcFmeLhJHBABA [参照]
既述したように、当方は今回初めてユアサ氏の個展に接しまして、氏が設定している「架空の三流画家・ユアサエボシ」の年譜( https://gallery-inoue.com/wp-content/uploads/405d7c73c828aaa82ae9df2403c9ae7f.pdf )も読むことができましたが、戦後、山下菊二(1919〜86)らが率いていた前衛美術会に参加しつつも退会し、渡米後は岡田謙三(1902〜82)や篠田桃紅(1913〜2021)の知己を得るも…… という設定がなされているところに、個人的にはなかなか考え抜かれてるなぁと思うところでした。すいません少々ナメてましたゎ。
かかる設定が示しているのは、「架空の三流画家・ユアサエボシ」とは、アメリカの(モダン-)ポストモダンを経た多文化主義的なフレームワークによって記述され、マーケットによって追認された(トランス)ローカルな戦後日本美術史──そこでは具体美術協会や反芸術、〈もの派〉が一連の運動として描かれることになるだろう──の外部に置かれたムーヴメントの周縁に立ち会っていた存在であるということであり、ゆえに彼の存在自体がポストコロニアリズムを内に含んで再編されたグローバリズムへの批評となっていると、さしあたっては言えるでしょう(ところで、この年表において中村宏氏の名が欠落しているのは、ユアサ氏の「架空の三流画家・ユアサエボシ」作りにおいて(やや悪い意味で)クリティカルなセキュリティホールとなってるのではないかという疑念を抱くところなのですが……)。
まぁ望蜀の言はこれくらいにして、単なるギミックやおちゃらけの類では収まらないクリティカルなセンスが今回も現われていたことは疑いないでしょう。24日まで
心斎橋にあるYoshiaki Inoue Galleryで開催中のユアサエボシ「涯にて」展。「「架空の三流画家・ユアサエボシ(1924〜87)」の画業」という態で自作を描き続けているユアサエボシ(1983〜)氏、来年国立西洋美術館(!?)で開催予定のグループ展(「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? 国立西洋美術館65年目の自問 現代美術家たちへの問いかけ」展)にも出展が決まるなど、ここへきて注目度をさらに高めている様子ですが、大阪での個展はきわめて珍しく、当方もそう言えば彼の個展に接したことはなかったなぁと思いながら拝見してきました。
今回は春画シリーズが五点出展されていました。例によって(?)、自身が設定した「「架空の三流画家・ユアサエボシ」が1970年代にこっそり描いた作品」という態で描かれており、その頃の具象(具象?)絵画っぽさ──中村宏(1932〜)氏やタイガー立石(1941〜98)といった画家たちの仕事を想起すると分かりやすいかもしれません──をデフォルメしたものとなっていたと言えるでしょう。春画という性質上、ここで画像をあげることはできませんが、《幼少期から度々夢で見てきた涯(はて)の光景、それは極彩色の北極、南極のような極地の光景を背景として、そこに母が死の間際まで持っていた春宮図にある性交の情景を組み合わせて描いた》(←解説より)という絵柄だったということで、ひとつ
研究論文、無料即時公開を提言 公的資金投入、国民に還元 | 2023/10/19 - 共同通信 https://nordot.app/1087660002162180112
《公的資金が投入された研究成果は、国民に還元するために無料で即時公開すべきだとする提言をまとめた》だそうで、まだ提言段階なのでアレですが、そのまま通ったら、社会学者やジェンダー論の研究者がよくやる(よくやる?)科研費をもらってリポジトリとかに無料公開せず、著書として発売して印税もゲットするという二毛作ができなくなるでしょうから、学問の自由の危機ダーとか言い出すんでしょうなぁ
いずれにしても今後は、文系学部の教員が著書を出す際に医学部教授会から補助金が出る京大が強いということに? (←医学部教授会がそんなことを行なう理由が「せめて学問としての体裁は整えてほしいから」というのがw )
ギャラリー白で開催中の河西厚子展。80年代に神戸大学で美術教育を受け、芦屋市展などで入選・入賞してきたという河西厚子(1963〜)女史ですが、ギャラリーでの個展は昨年が人生初だったそうで。
そんな河西女史の作品、画面の中をリボンやテープとおぼしきモティーフが縦横無尽に走っているといった趣の絵画作品でして、そのようなモティーフによって画面の中の手前/後ろ、遠/近が攪乱されてオールオーバーな位相を現出させることが企図されていると、さしあたっては言えるでしょう。今回は新たに箱の表面にそのような絵を描くことでかようなオールオーバーな位相を平面からさらに拡張させることが目指された作品も一点出てました。あと同じモティーフを地と図の色を変えて何パターンも描いた作品群もあり、どれも彼女が絵を描き始めたであろう80年代前半における支配的な動向(ポストもの派?)をフリーズドライして現在にワープさせた感がすごく、時空が混乱する不思議な視覚体験となったのでした。21日まで
igu_m_artにて17日まで開催されていた神野美紀「ゲシュタルトの祈り」展。以前から広義のワードアートを手がけている様子の神野美紀(1973〜)女史ですが、個展は今回が初めてとのこと。当方は以前同所で開催されたグループ展で一度彼女の作品に接したことはありますが、個展という形で改めて接すると、言葉/音声/文字をオブジェとして扱うという態度がさらに全面展開していたように感じられ、作品自体はいわゆるヴィジュアルポエムの範疇に属するものではあるにしても、新鮮な面持ちで接することができました(自作の詩を楽譜に配した作品が個人的には良かったです)。
そんな中、ギャラリー内の一角に置かれた机では活版印刷されたかな/カナの断片がたくさんありまして、それを拾い集めて言葉を作るというワークショップ(?)コーナーがありました。当方もちょっと参加。高松次郎ごっこで遊んでみましたょ
こ の ※ つ の モ じ
ところで、昨年あたりからでしょうか、電源を切った状態のテレビ画面に反射した光をモティーフとすることがとみに増えており、今回は8点中6点がテレビ画面を描いた絵画となっていました。彼女いわく
テレビを消している時、それは曖昧な像を持った黒い板となる。室内風景が映っているが鏡ほど明瞭ではなく、物と物の境界線は柔らかい。地と図が一体となって、光の塊であるかのように感じる。とのことで、映ったものが明瞭さ=境界線=輪郭線を失った状態において、野中女史が描きたい「光」が立ち現われているとしたら、確かにテレビ画面というのは鏡ほど明瞭ではなく、壁やつるっとした表面ほど不明瞭でもないだけに、「光」を描くにかなり適していると言えるでしょう。というか「光」を描くことと光によってもたらされた外界を描くことが必ずしもイコールではないという野中女史の認識は、近代絵画が自明としてきた(し、現代でも不可視な形で規定している)視覚の体制に対する反省を迫るものとしてあるのかもしれない。21日まで。
野中女史、ここ数年は(自宅の冷蔵庫などの)つるっとした表面に反射した光をモティーフとした作品を描いており、その禁欲的なありようには個展に接するたびに震撼しきりだったのですが、今回は様々な時間帯の光が当たった「階段の壁」や「テレビ画面」をモティーフとしていました。一般論として、私たちが外界を視覚できるのは「光」のおかげである以上、絵画とはつまるところ「光」を描く行為であると言ってしまうことはできるのですが、しかしそのように言うこととそれを字義通りに実行してしまうことの間には文字通り天地の差があるわけでして。ことに今回は同じ場所の朝と夕方の「光」を描き分けた作品が並んでいたので──左が《朝、窓の外が明るくなった時の階段の壁》、右が《夕方、向かいの建物が夕陽に照らされた時の階段の壁》とのこと──、余計に彼女のモティーフに対する鑑識眼のヤバさが際立っているのでした。
Oギャラリーeyesで開催中の野中梓展。数年前の群馬青年ビエンナーレに入選するなど進境著しい野中梓(1991〜)女史ですが、近年はだいたいこのあたりの時期に個展を開催しています。今回も大小8点の絵画が出展されていました。
ICC | プレスリリース - 「坂本龍一トリビュート展(仮称)」の開催について https://www.ntticc.or.jp/ja/press/2023/press-tribute-to-r-s-oct-18-2023/
2023.12.16〜2024.3.10、NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] ギャラリーA。没後も各所で展覧会──多くはダムタイプの高谷史郎氏との共作ですが──が続いている坂本龍一(1952〜2023)ですが、いよいよ真打ちが登場してきた感がありますね。同センター学芸員の畠中実氏のほか、ライゾマティクスを率いている真鍋大度氏をゲストキュレーターに迎えているようで
X(Twitter)が投稿やリプライに年間1ドルを課す新プログラム ニュージーランドとフィリピンでテスト https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2310/18/news097.html#utm_term=share_sp
、打ち切りが決まって加速度的に雑になっていく少年マンガみたいな展開をひた走ってますね(しかしそれにしても$1って、明らかに手数料の方がかさみそう)
好事家、インディペンデント鑑賞者。オプリもあるよ♪