アメリカ映画(これアメリカ映画なんですよ!)における言語の使い方、ここまでこれたかという感じでそこも感慨深かった。主人公はメキシカン・アメリカンなんだけど英語話者以外とは一切英語で話していない。
一部で当時のTV放映の画面を再現しているんだけど、今作についてはその質感で「実際」と「イメージ」の距離調整をする方法が非常にうまくいっていたと思う(TVサイズだからいい感じなので配信リリースで正解だと思った)。という意味でララインの『NO』も思い出したり(スクリーンでみたがゆえにという理由で評価を下げてしまった珍しい例)。
入場曲や挿入歌も全部ちゃんとスペイン語版が使われてる。セレーナ版I WILL SURVIVEだったりCALL ME(デビー・ハリーの声そっくりだが?と思ったらブロンディがそもそもスペイン語バージョンが出してたのね https://www.youtube.com/watch?v=k92tNyCrOgk&ab_channel=Blondie-Topic)だったりFeverだったり選曲のノリはやはり共通の文脈のそれなのね。ディスコティックは自由の音楽。ルチャ・リブレは自由への戦いなのだから当然なのだ
あれ?なんか最後まで投稿できてなかった?
母とカサンドラ(というテレノベラに着想を得たということになっている、このあたりは脚色っぽいが・・・)をもとにしたドラァグとディスコティックの「自由」を「ルチャリブレは自由への戦い」に繋げてるのいいよなー。一方でどれだけ技術に優れたレスラーであるかはあっさり流されている印象、ここはもうちょっと踏み込んで見てみたかった気がする。でもそれは御本人のドキュメンタリーのほうでみればいいのかもね。というようなことも書いていた。https://www.institutfrancais.jp/yokohama/agenda/losier/