ついでのついでに、曾祖父まではそれなりの土地を持ち代々農業を営んでいたらしい。
そこに日韓併合からの土地調査があり、先祖代々の農地を奪われ、あっという間に困窮してしまったらしい。
そこでそれなりの賃金が稼げるから、と伊豆半島に東海道線を通すための人工としてはるばる慶尚南道から伊豆半島へと渡ってきたらしい。
丹那トンネル建設は湧水が多く、何度か大きな落盤事故を起こしたらしい。
その中の一つの事故で曾祖父は絶命。
慶尚南道にいた40代はじめの曾祖母は仕送りもなく、食って行けなくなったため、10才ほどの末の娘をアラスカに里子に出し、14歳ほどの祖父と一緒に曾祖父の遺骨を受け取りがてら来日、仕事を求めて京都の朝鮮人部落に落ち着くことになる。