言わずもがなかとは思いますが、捕虜収容所の監視員が戦犯として裁かれた朝鮮、台湾の軍属の一人が一昨年他界した李鶴来(イ・ハンネ)さんですね。
各所で記事が残されています。
たとえばこれ。
在日元BC級戦犯「良識ある日本国民の皆さんにお願いする」
https://sengonet.jp/archives/2889
”捕虜の監視要員は当時植民地だった朝鮮と台湾から集められた。朝鮮半島にいた当時17歳だったイさんが送られた。上から割り当てられて拒否できなかった”
”食料や医薬品が不足しコレラやマラリアが蔓延する中でイさんは上官から明日はこの人数をよこせと要求され、病人でも借り出さざるを得なかったと言う。
「食べ物も悪い、労働力もない、そうした中で労働させる。そういった悪影響のなかで労働させるわけでしょ、すると病気になる。死んでいくしか方法がないですよ。捕虜は消耗品の扱いをされている。非常に気の毒だった」
捕虜は反抗する、日本軍に教わったやり方で対応した。「捕虜たちは規則を守らない、そうするとこの野郎、気をつけろとビンタで殴るときもあるんですよ、それが虐待とは思っていないわけ」”
”BC級戦犯として起訴された5700人のうち植民地の朝鮮・台湾出身者は321人。そのほとんどは捕虜収容所の関係者だった”
”イさんは告訴していた捕虜が死刑までは望まないとしたことで、懲役刑に減刑になり巣鴨プリズンに、そのとき初めて日本の土を踏んだ。
1952年のサンフランシスコ講話条約が発効とともに植民地出身者は日本国籍を失う。それでも「日本軍の戦犯」として刑の執行は続いた、釈放されたのは終戦の11年後だった。その後も苦難が続く。日本になんのつてもなかったが、韓国に戻ることができなかった。
「いの一番に家に帰って親孝行をしたいと思った。だけど”日本のために尽くした親日派”そして悪いことをして戦犯となったということで、韓国では村八分となって大変です」
金も仕事もなく生活は困窮した。日本人には軍人恩給などの措置に対し、日本国籍でなくなったことを理由に植民地出身者に同等の補償を受けられなかった。仲間にはつらい状況に耐えかねて自殺する人もいた。イさんが綴った手記にはこう書かれている。「都合のいいときは日本人、都合の悪いときは”朝鮮人”である」”