仏教でも、理想は境界を壊してゆく、ということで、例えば慈悲の瞑想なんかでは自分、自分の親しい人々、知ってる人々、知らない人々、私が嫌いな人々、私を嫌ってる人々、と段階的に自分のコンパッションを向ける対象を増やしてゆく、ということをやるのですが。実際には、やっぱり境界はないとクソミソになるので、理想と実務は分けましょう、みたいな話にはなるんですよね。
私は彼の意見には反対だが、彼の発言する権利は命をかけて守ろう、って貴そうに聞こえますけど、ヴォルテールの偽クオートですし。反差別を唱える人が差別する人を排除するのは如何か、とか言ってる人を見ると、ちょっと関わらないでおこうかな、と思っちゃいますね。
余裕があってよろしおますなあ、と。
在日コリアンとして肌身で感じているリアリティとして、日本では以前からヘイトスピーチどころかヘイトクライムが溢れかえっているんですよ。映画パッチギよろしく気の強い人々は言い返したり、やり返したりしてたわけですが、大半の人々は嵐が過ぎ去るのを待つように怯えながら過ごしていた、いるわけですよ。それをヘイトクライムを犯す人々を排除するのもどっちもどっち、と言えるのは外野の特権というものでしょう。てめえはぶん殴られずに済むからな。
映画パッチギで思い出したのは、ケンドーコバヤシが父親のキャバレーでヤクザに拉致られて散り散りに逃げた後、チャドギがカンゲと二人きりになり、「ほんまは俺かて恐いんや」的なことを告白するシーン。ケンカもアンソンのように強くなくて、本当なら逃げたいのに逃げられない、他の方法もわからない、だから突っかかってくる右翼の学生と殴り合うしかない、という。映画でそこまで言ってなかったと思いますが。例えば手塚治虫の漫画"ながい窖"でも、主人公の息子が朝鮮学校の生徒だからというだけでリンチに遭い、亡くなるというくだりがありましたが。そういう状況に耐えられず精神に異常をきたしたり、自ら命を断った人もいたわけです。
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映画パッチギで思い出したのは、ケンドーコバヤシが父親のキャバレーでヤクザに拉致られて散り散りに逃げた後、チャドギがカンゲと二人きりになり、「ほんまは俺かて恐いんや」的なことを告白するシーン。
ケンカもアンソンのように強くなくて、本当なら逃げたいのに逃げられない、他の方法もわからない、だから突っかかってくる右翼の学生と殴り合うしかない、という。
映画でそこまで言ってなかったと思いますが。
例えば手塚治虫の漫画"ながい窖"でも、主人公の息子が朝鮮学校の生徒だからというだけでリンチに遭い、亡くなるというくだりがありましたが。
そういう状況に耐えられず精神に異常をきたしたり、自ら命を断った人もいたわけです。