渇愛により憂いが生じ
渇愛により恐れが生じる
渇愛を離れている者に
憂いはありえず、況や恐れは
この法は、仏が、ジェータ林(祇園精舎)に住んでおられたとき、あるバラモンについて説かれたものである。
伝えによれば、彼は邪見を持つ者で、ある日、川岸へ行き、畑を掃除していた。仏は彼の機根が熟していることをご覧になり、彼のもとに趣かれた。かれは仏を見ても敬意を払わず、黙っていた。そこで、仏は彼に話しかけられた。「バラモンよ、何をしているのですか」と。「畑を掃除しております、ゴータマ尊よ」と。仏はそのまま立ち去られた。翌日以降もかれのもとに趣き、同じように尋ね、「畑を耕しております」「種を播いております」などと聞くと、立ち去られた。ある日、バラモンは言った。「ゴータマ尊よ、穀物が実れば、あなたにもお分けしましょう。今日からあなたは私の友人です」と。やがて穀物が実り、かれは刈り入れの準備をした。が、その夜、大雨が降り、すべての穀物は流されてしまった。彼は何もない土地を見て愕然とした。約束も果しえず、言いようのない悲しみに襲われ、床に臥してしまった。仏は彼を訪ね、「渇愛によって悲しみが生じるのです」と懇切に教えを説き、この偈を唱えられた。説法の終わりに、彼は預流果を得たという。これが法句二一六の因縁話である。
@upasampada
確かに。でもお釈迦様の悟りを理解するのは凡人には難しく、私なぞお釈迦様に呆れられてしまいそうです(笑)
「Sādhu」はぜんざいの語源なのですね!これからぜんざいをいただく時は「お釈迦様が善哉と仰った食べ物だ」と思い出します。
@ruriazami
お釈迦様の教えは我々普通の人には理解しがたいものですからね。
断片だけでも何かしら響くものがあったのであれば幸いです。
ちなみにSadhux3はお唱えごとやお布施などの後の最後の決まり文句というか、そんな感じのものです。
意味としては色々あるのですが、ここでは仰るように善哉、よきかな、というほどの意味ですね。
@upasampada
Sādhu Sādhu Sādhu.は修行者、素晴らしい、の他にどんな意味を持つのでしょう。お唱えの最後ならキリスト教の祝福をと言ったニュアンスになるのでしょうか。
知りたがりなのです😅
大歓迎です。
とは言ったものの、私の知識不足で下手があってはいけませんので pali text society その他の辞書を引用させていただくと、リンクのようになっています。
パーリとサンスクリットでは微妙に意味も違ってきますので。
https://dictionary.sutta.org/browse/s/sādhu/
ミャンマーの僧院や仏教徒の間では、自分や他の人が善い行いをした際に、よいことをしたと喜ぶ、また随喜する際に、日常的に用いていました。
@ruriazami ざっくり言ってしまうと、キリスト教徒のアーメンとほぼ同じ意味合いで用いてよろしいのではないかと。
@upasampada
ありがとうございます😊色んな使い方があって楽しいですねぇ。
善い行いをした時に気軽に言える言葉が日本社会にあればよいのにと思います。
@ruriazami
仰る通りですね。
言われて思い出しましたが、ミャンマーは国別人助けランキングNo.1だったのです。
クーデター後色々あり…それでも上位です。
それに対し、日本は最下位という。
https://www.cafonline.org/about-us/publications/2022-publications/caf-world-giving-index-2022
@upasampada
うう…辛いですね…。我々は見せかけの平和の上で過ごしていると再確認させられます。
私は日本生まれ日本国籍でその点ではマジョリティなのですが、なんという社会にしてしまったのだろうと頭を抱えています😓
お互いを讃える言葉がないことも、謙遜文化はあまり良いものではなかったと思いました。
Sādhu Sādhu Sādhu.
お釈迦様が友達とか、いいよなあ、と。
悲しくてどうしようもなくて床に臥せっていても、お釈迦様が悟らせてくれるなんて最高じゃないすか。