ついでにいうと、平和な宗教というイメージのある仏教ですが、宗教は古来政治と不可分であり、残念ながらテーラワーダも例えばミャンマーの軍政府により、抑圧の道具として機能している側面は否定できません。
もちろん、これに抗っているお坊さん方もいらっしゃるわけですが。
またミャンマーやスリランカではマジョリティが信仰する宗教でもあり、その点でマイノリティを排斥する道具となってしまっている側面も、とても残念ながら存在します。
以上の著名な例ではロヒンギャ問題です。
とはいえ、これは歴史的な側面、具体的には英国と日本の植民地政策による分断統治も大きな背景としてあるため、一概には言えないのですが。
いずれにせよ、信心の自由は基本的な人権であり、これを理由に迫害されるという事はあってはならない、という立場であることは明確にしておきたいと思います。
まあでもいってみれば
”すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である”
という世界人権宣言も、理想的な概念であり一つのビリーフシステムとも言えるのかなと。
そう捉えると、大きな意味でこのビリーフシステムに賛同し宣教してるとも言えなくもないかなと思いました。
これが完全、とは言えませんが、人類が傷付け傷付けられ学んできた中で、現在においての最適解であることは間違いないのかな、と思ってます。