近代的主体性vs現代思想で捉えられやすいから、見失われている論点ってあって、ドゥルーズガタリや後期フーコー、晩年ガタリの主体性の問いの回帰がけっこう脱落しているんだと思う。
ドゥルーズはまず主体とかだるい系の人が好んで振り回したところがあり、その後「フレキシブルな主体」とネオリベの相性の良さについての批判が00年代に起きて、その後気づいたら、一方で、脱政治的に主体の問いが消えていて(日本社会の主体性発露忌避と適合的)、他方で、10年代後半以降はレペゼンと主体化の経路が一気に整備されたあと、フレキシブルな主体化とその環境ごと問う議論が更新されて、情動理論もその一つ、という感じになっているなか、こういう変遷の文脈整備をしている人いなくね?という壁にぶち当たっている。
ドゥルーズガタリ主体化論とガタリ主体性論とかを10年代以後フェミニズム状況と架橋するプレイヤーがいないのが問題なのかもなと思うに至った(英語圏ではそれなりにいそう)。バトラーもそこで蝶番になりそうなのに。
このネタぶち込んで終盤のダレをシャキッとさせよう(しかし46000〜48000字ぐらいになりそうだな・・・)