富士川義之 編『文学と絵画 唯美主義とは何か』(英宝社、2005読んでるけど、年少の女性研究者が起用されているわりにはフェミニズムに対して抑制的な印象をもつ。

加藤千晶のロセッティ論は、ダイクストラ『倒錯の偶像』とかグリゼルダ・ポロック『視線と差異』を引いてフェミニズム解釈による「ロセッティの描く女性は男性視線では」指摘を持ち出した上で、わざわざつっぱねる手続き入れててね。「フェミニズムをにこにこいなすエスタブ保守女性の身振り」が今やきつい。

20年前での論文でもこんなもんかと。

ある時代まで、文化系の論文は男女問わずフェミニズムを「わざわざいなす」身振り入れすぎなんだよな。

近年の本の年配の女性研究者(たとえば廣野由美子の最近の本とか)だと、「いやー、自分はかつてフェミニズムに乗り切れてなかったですね。すまんす」といった表明をまえがきとかあとがきでちょい入れて立ち位置を提示してくる。

加藤論文は、ロセッティの絵は彼岸のイメージあるから男性欲望とか関係ないっすね、むしろレヴィナス的な絶対的他者!と褒めるものなので、ノベゲ批評と変わらんやつ。

「ロセッティの絵なら女も乗っかれたぜ」の報告だなという扱いになった。

たんに「ロセッティの絵は好き」の発動だと思う。1960-70年代生まれまでは男女問わずこういう人は多くて、映画も文学も美術も音楽もそんな。いまでも大学教員層にたくさんいる。男らしさ女らしさっていいですねみたいなことを平然と言う。

キャンセルされたら終わりだと思って守ろうとしているんでしょうかね。。そういうことでもないのになあ。昨年のテートブリテンの展覧会では、クリスティーナとリジー・シダルを同格に置いてTHE ROSSETTISという枠組みだったのですが、ダンテ・ガブリエルひとりを偉大な芸術家だとみなす頭のままでは意義が分からないだろうな…と思いました。

いや、20年前だからキャンセルとかは想像力にない。たんに「フェミニズム言説をいなすのが文化の嗜み」だった時代が長い。シネフィル女性とかも大半がそれだったし、表象第一世代とかもそう。

こういうのは長い目で見ると「どうせテートの近年のカタログや展示で影響で変わるんだろう」とみておけばよく、実際にそんな要因で変わる。

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真屋和子のバーン=ジョーンズとプルーストの関係を扱う論文を読んだが(同書所収)、プルーストのゲイ側面ガン無視して「美女の魅了いいっすね〜」みたいなノリ。だいたいわかったが、セクマイ主題が露骨かつ派手なオスカー・ワイルドを「避けて」、保守趣味や文学美術ごった煮のチョロい趣味の人がラファエロ前派を選ぶのが少し前の英文学でよくあったんだろう。
いったん保守秩序で固定されてるから今更刷新するのがむずく、領域丸ごと今の若い人なら無視するかもね。

ふーむ。そうかも。クリスティーナ・ロセッティの研究者の滝口智子さんは、マイケル・フィールドという詩人(じつは女性詩人2人の共同プロジェクト)の研究もされているのを思い出しました。手垢のついた王道を攻めるより、土壌を豊かにしようという方向性は進んでいそうです。

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