「コメットさん」は英語字幕だとcrippleになってた。ヤクザとともに登場するが、普通の洋服を着て、義足を引きずって仕込み杖で斬ってくる異色キャラ。その後の時代に、電波ちゃんとか宇宙人ちゃんとか呼ばれるのに似た用法。
「このブログ知ってる?」と言われて読んでみたが、けっこう面白い『蛇の道』読解記事だった。
“本作では凄惨さの根拠がどこにも行き着かない。復讐劇が個人の恨みから駆動している訳でもないし、個人ではあらがいがたい組織の論理から駆動している訳でもない。ボスもヘンタイも居ないのに、拷問が繰り広げられているとき、そこでは誰が一番「偉くて強い」のか?誰が仕切ってるのか?この凄惨さを召還させている主体は誰なのか?その正体がもし見つかったら、それに全身の力を込めて抱きつき、すがりたいと香川照之はずーっと感じているかのようだ。自分が一番惨たらしい暴力を行使しているというのに…。
香川照之は一見、復讐の主体であるかのように見えながら、映画の後半ではほとんど目的や自分を見失っており、目の前に転がる死体が、死体なのかそうでないのかも判然とはしていないような状態で、只ひたすら、哀川翔から認知されて認められたいという欲望にのみ突き動かされているかのようで、(…)”
ヤクザが疑似家族性を垣間見せるときに重要なのはジェンダー秩序と日本社会の規範性へのへの踏み込みと思われる。
「実は情けない平凡なヤクザ男」「そこらの20代みたいなヤクザ」を描くだけなら男のナルシシズムの延長でやれてしまう。女のポジションと家長的ボスのポジションをいじる、あとは日本社会の規範性の方をどう見せるか、そっちも壊れているとみなすのか、日本社会規範も健在である一方でヤクザがあるとみなすのか、といったあたりで変容が出る