私は怪異・怪談もののホラーに対して「単に共同体の合意をなぞっているだけでは?といった懐疑が年々深まっているんだけど──生理的拒否ってわけではないのでそれなりに楽しんで見ることはできる──、『蛇の道』には「怪談系ホラーの達成と言えそうな、人間イメージの変容、怪人や怪事件、生と死の境界や日常性の動揺」はあるのだが、そのすべてが怪談のスタイルと隔たったものになっている。賭けるならこっちだなと思った。
リメイク版で消えた要素「コメットさん」だが、これは「ヤクザの女」モチーフからの改造とみられる。
コメットさん呼びすることで(コメットさんというのは60年代の魔法使いドラマが元ネタで、いささか古いポピュラーカルチャー用語)、身体障害者女性に奇妙な効果を付与しているのだが、当時目立っていた北野映画を意識しつつヤクザ映画文法を外したことで、コメットさんを中心とした擬似家族っぽさが強める作戦があったんだろう。
これはリメイク版で消えてはいないが、方向性はちょっと別物になっている。
旧版の90年代後半時点で、ヤクザ&Vシネの延長に擬似家族を見出すルートがすでに見えるのが収穫だった。ソナチネだと「ヤクザ、女、舎弟」だけど、もっと水平感がある。
「このブログ知ってる?」と言われて読んでみたが、けっこう面白い『蛇の道』読解記事だった。
“本作では凄惨さの根拠がどこにも行き着かない。復讐劇が個人の恨みから駆動している訳でもないし、個人ではあらがいがたい組織の論理から駆動している訳でもない。ボスもヘンタイも居ないのに、拷問が繰り広げられているとき、そこでは誰が一番「偉くて強い」のか?誰が仕切ってるのか?この凄惨さを召還させている主体は誰なのか?その正体がもし見つかったら、それに全身の力を込めて抱きつき、すがりたいと香川照之はずーっと感じているかのようだ。自分が一番惨たらしい暴力を行使しているというのに…。
香川照之は一見、復讐の主体であるかのように見えながら、映画の後半ではほとんど目的や自分を見失っており、目の前に転がる死体が、死体なのかそうでないのかも判然とはしていないような状態で、只ひたすら、哀川翔から認知されて認められたいという欲望にのみ突き動かされているかのようで、(…)”
怪談系ホラーは、暴力や政治の次元を隠蔽しがちだが、復讐と私刑は逆になりやすいのがポイント。この時期の黒沢のなかでは恐怖と復讐が連続していて、ダーティーハリーや西部劇などにも見られる復讐と私刑に、不穏さや不気味さを入れて系譜を合流させたのが黒沢の発明だったんだろう。