秋山駿『時代小説礼賛』(1990)は、時代小説ばかり読むジジイという、いまや生態すら把握しづらくなった界隈のクライテリアが、一冊に濃縮されてるので、コスパ良い本だった。桜や花にとって短歌の美があるように、剣は日本的精神の核であるといった頭の悪い断言や、吉川英治の武蔵を読んで木刀を振って稽古に励んだといった、現代的知性ならば書くことも躊躇われるようなくだりが山ほどある。

ジャンプバトル主義とかなろうに関する言説はすでに時代小説で展開されていたことがよくわかる。たとえば「チートばかりで失敗がない、こんなのは人生ではない!」言説、秋山が吉川英治の武蔵に向かって怒っている。あと、「こんなうまい具合に成功が張り巡らせられた作品を描くことで、吉川は円熟をものにしたつもりなのかね」とか書いてるが、無職転生褒めの構造(読者が精神的成長を遂げたような気分になれるから「これが本物」と推す)がほぼこれでは?と思えた。

秋山は私小説論でも知られ、それはもうおっさん丸出しの議論なんだが、この本もザ・おっさん。ただし、この一冊を読めば、プレジデントとか歴史群像といった媒体を細かく掘る手間を省ける。。
 時代小説はジェンダーステレオタイプがおそらくかなりきついんだろう。それで一度、日本で廃れた。世代交代によるジェンダー感覚の変容に耐えられなかったのではないか。そういう意味で見ると、ラノベですら80−90年代秩序に適応して生まれた新ジャンルなんであって、当時の老人窟であった時代小説エリアとは全然違うんだなあと考えさせられた。まあラノベがいま老人窟になっていく過程として、ウェブ小説の中高年向け技法の蓄積が起きているんだが。

ヴァレリーのテスト氏を「悟性の剣客」と呼び、武蔵像を「精神の模範」と並べるくだりもかなり驚かされたが、露伴から三島までは剣のことを考えてたから正当文学、とする判定には、ジャンプバトル主義の行き着く果てのように見えて、これはこれでありなのか…?と揺さぶられる。
私小説のように時代小説を読むよくわからないモードもたまに発揮されている。

秋山の本では、桶谷秀明と中野孝次が時代小説座談会をしていて、もはや老人窟資料の感がある。私も若さがなくなった結果、こういう老人談義を生理的拒否せずに古跡学的な目で見れる。
最近文庫化された北上次郎の『冒険小説論』も実のところ秋山的な隙は露呈してて、全面的にアプデする前提で読まないとまずい。が、80-90年代当時冒険小説と呼ばれた枠組みの充実した目録にはなってるので、「これを全部辿って議論を改変すれば、再編できる」とみなせる。そういう指標。

女性時代小説の博論をみつけた。本文はオンラインでは読めない。 要約を斜め読みした感じだと、宮部みゆきが蝶番で、その後が現代的ジェンダー秩序という構成か。

李 紹楠「女性文学としての時代小説 : 戦後の女性作家の作品を中心に」(2023)

hosei.ecats-library.jp/da/repo

わりと平岩弓枝の登場時点で、その後までのテーマは設定されちゃってたと思います。
長谷川伸門下で、海外文学や映画などを参考に時代小説を書いて、TBSドラマの脚本を求められたら長谷川伸が日常性を描くのが得意だから向いているだろうと賞められたり、と。

これに対して反対に土着的というか、情念を前面に出した世界を宮尾登美子が描いて、というのがわかりやすい構図じゃないでしょうか。

このほかに永井路子や杉本苑子とかがいたというかんじで、論文のテーマ的には、宇江佐真理と高田郁、純文学寄りだと円地文子・有吉佐和子・三枝和子の名前があったほうがパノラマ的にはよかったんでしょうが、彼女たちの名前が挙がってないですね。

あと、時代小説評論の本流は縄田一男先生かと思います。

なるほどねえ。いまは高橋敏夫が00年代によく時代小説ガイドを書いてたのを知ったのであれこれ迂回して手をつけてますが、縄田一男はたしかに大御所プロパーっぽいですね。あれこれ触れてわかりましたが、秋山駿は趣味狭すぎる、極振りキャラですね。歪さが武器。

というか、じつはかれこれ二十年くらいは、時代小説専門の評論家って、縄田先生しかいない状況で。。。
(縄田先生ご自身は、このミスの長年投票してたり、大衆小説全般にお強いのですが)

秋山さんは立派だと思うのですが、独自すぎて。

世間や文学史的には、新聞に大衆小説時評を連載していた吉田健一のほうが存在感があるような(といっても、あれも独自の存在過ぎますが)

作家は世代交代してるし、時代小説は栄えてるっぽいんですよね。00年代には時代小説ブーム衰えずという言い回しが起きてる。

うーーーん、そんなかんじでもないような。

ないような気もしますが、人気の時代小説家って、ほぼ月刊ペースで文庫本を出してる作家ものですが、わりとジャンル外には知られていないというか。

栄えてはいるんですが、話題にはならんのですよね。時代小説メインで書いてる作家と、売れっ子エンタメ小説家が時代小説も手を出して話題にもなる、という系統があって、耳目に触れるのは後者かも。

「歴史小説」と「時代小説」の棲み分け、呼び分けも、いまや謎慣習の響きが生まれていると思いますが、たぶん全体的に暗黙にレガシー化しているんですかね…

暗黙というか、時代小説は明治に流行した講談から生まれた「書き講談」に由来する小説でないかと思います。映画で言えばチャンバラ映画に相当するものというか。

『瞼の母』の長谷川伸自身が書き講談出身なので、そのあたりも含めてカバーされているといいますか。

長谷川伸論 - 岩波書店
iwanami.co.jp/book/b256057.htm

で、長谷川伸のところから、村上元三も山岡荘八も平岩弓枝も西村京太郎も池波正太郎も、みーんな巣立っているので、ここを押さえれば、大まかなところがわかるのです。

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そういえば、全然話は変わるんですが、「冒険小説」についてはどう思います? これも古のジャンル名なのですが…。

世界的な基準と日本の基準だと、なんか違うんじゃないでしょうか。

世界的にはリヴィエールの『冒険小説論』を踏まえると思うのですが、北上さんが娯楽小説を取り扱った際のジャンル小説の意味合いになっているというか…‥要は新宿ゴールデン街で育まれたジャンル小説になっているというか。

よりもっと核心に向かうと、内藤陳さんが好んでそうな小説ジャンルを「冒険小説」と呼んだのではないかというかんじがあるというか。戦後日本においては。

いや、海外と日本で大きな差はなさそうですよ。北上のは80−90年代の歴史的規定が大きいだけで、海洋ロマンとかアクションとかスパイ、ヒーロー/悪漢とかのモチーフが出がちなのは欧米でも同じなようですから。また、伝奇時代小説なら左記の要素が埋まるのでそれら作品をカウントしていることもありますね。
内藤は、海洋ものやスパイ、軍人も含めてハードボイルドや冒険と呼んでいた節がありますが、彼自身翻訳物の宣伝をよくやっていたように、ジャンル意識は海外もののレーベルに対応したと思われる。どういうジャンル名で顕揚するのかは、尾崎秀樹が大衆小説と呼びながら中身がほとんど時代小説だったのと同じで、純文学に対抗するときの何かが総称として選ばれるんじゃないかな。

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