「世間知で裁く」「『非常識な人』を貶めて制裁する」コンテンツも女性向けスカッとエンタメには実は多い。
男性向け&男性文化にはそもそも「等身大の自分とその記述の下地」がほとんどないので、そういう自治行為のエンタメもあまりない(軍事的なやつなら別)。
「伝統への憧憬」をゲームファンタジージャンクパーツや王朝歴史物フェイクでやるとなろう作品になり、日本習俗や儀礼でやると怪談になる。両者のポテンシャルと反動性はよく似ている。王権秩序への崇敬と、儀礼の道徳性への崇敬。
そこを揺さぶるのがゲーム準拠による変化だが、ゲームに絡みつくミリタリズムや統治シミュレーションがリバタリアン右派的な「リアリズム」イキリを導く隘路もある。
女性作家のなろう作品を読んでると、保守的で「普通の日本人」つまり右翼であるマジョリティのイデオロギーと欲望を目の当たりにする。
ある女性向け作品読んでたけど、髪は女の命でしょ、と異世界の令嬢が言って、主人公は少し引くんだけど、こういう場面全体が昔の「女性性」コードとの戯れの欲望でできてる。ピンクのドレスを着なきゃいけないとか、不慣れなダンスを踊らなきゃいけないとか。
主人公は嫌がるけど、むしろ作品の欲望は主人公の否認によって実現しているのではないか。
男性作家のあるあるテンプレも、この手の欲望の保守性でくくれる。男性向けの「嫌々従う」欲望は、受勲しろ、陞爵しろ、お見合いしろとか縁談の誘いとか、重婚しろがよく起きる。
男性がセルフケア話題で困惑と拒絶のコンボを炸裂しやすいのは、そういう自分と自分の行為を捉えるカルチャーがすごく希薄なため、自分の認識のどこにどう繋げればいいのかの模索から始まってしまうことに由来する。