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結婚記念日。流石に10数回遊び続けてたらもはやネタも尽きたと思いきや「無限白玉黒蜜きなこ祭」を思いついたので今年は無限白玉編にします。

うちの子供、電気グルーヴが流れた時だけ突然現れ踊って去っていく

遊園地とかより楽しかった郷土資料館

子供の頃、開拓当時の道具とかが好きすぎてむやみやたらに通っていたものである

あー郷土資料館に行って「開拓時代のくらし」展示が観たい

出汁類をいくつか準備し具材も汎用性の高い根菜類や葉物をいくつか冷蔵庫に入れておけば、気分でタンパク質を選び鍋なりフライパンにぶち込めばなんとかなるってえ寸法よ

「モジュール化された料理」と呼んでおります(なんか旨くなさそう)

野菜もタンパク質も全部鍋に入れて煮込んでしまえばなんとかなる時期がやってまいりました

いま見てる動画でチラチラセガサターンの箱が見えるんだが、いま見てもなんかワクワクする。
むかしゲーム機入ってる箱ってワクワクしたし、OS入ってる箱にもワクワクした。
もう、あの感じってないんだよな。

『ふだんづかいの倫理学』平尾昌宏

私たちは一人で好き勝手に、ではなく社会の中で、さまざまな人々と共にバランスをとりながら生きていく必要がある。

本書では、身近な事柄を出発点に、人生のさまざまな面を取り扱うことで、広い視野でバランスよく人生や物語を解釈できるようになること、自分で自分の人生の生き方をデザインできるようになることを目指す。

私が本書を読んだ理由は「再度ネチケットが必要なのでは?」と思ったからだ。倫理を知る必要があると思った。

大昔は一人の人間が交流できる範囲は狭く、影響が及ぶ範囲も狭かった。しかし、その頃にも倫理学は存在した。力を持ち人々に影響を及ぼす権力者は存在していたからだ。彼らには「義務」として道徳・倫理があり、力の暴走を防ぐための知識「倫理学」があったという。

現在、一般人も気軽に移動ができ、インターネットの普及で多くの人々と交流が可能になった。それは、我々が大昔の権力者のように力を暴走させないための知識として倫理学が必要になったということだ。

日々炎上中傷だのを見かける昨今。いまこそ一人ひとりが、ふだんづかいできる倫理学を身につけ、倫理的判断ができるようになる必要があるだろう。

shobunsha.co.jp/?p=5087

あなたが忘れた数学の公式は、誰かが覚えてくれている。おかげで今日もインフラは正常に動いている。そういうやつ。

世の中のことも政治のことも自分には関係ないどうでもいいと言うのは考えるコストも責任もなく「わかってる風」であり、ムダなくスタイリッシュに見える。
しかし今のところ世の中全員がそうではないから、今日も社会はなんとかなりたっているという視点が無い。そういった諦めている人ムーブはいわゆるフリーライドなのではないかとふと思うなどする。
戦後の経済と暮らし中心の世で生きた故の考え方なのかもしれぬ。

6pt くらいの本は心が折れやすいので、手すりをつけます。(今回は段落に番号を振った)

英語になるとデジタルじゃんけんが突然映画のようになるなぁ(感心)、と思ったが、やはり「米を身体に塗る」のは英語だろうとおかしかったw

youtu.be/TjODXCht7Cc?si=qytxy8

メンタルが強いと言う場合、なにをもってして強者で弱者とするのか。たとえば強者の条件を並べ、それがどうしても自分にはなることができない人間性だった場合、要請される強者への道は閉ざされ、余計に心を傷つける結果にはならないか。

どんな人間にも限界がある。それは自分が思っているよりずっと身近にある。
社会や人によって尺度が変わるような「強さ」を求めるより、自分のメンタルを守る知識をつけるほうがよいのではないか。

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