原始仏教が哲学ではないのか...?を考える時、ニーチェは宗教ではないのか....?を考えないといけないような気がしている......。わからん.....
@tatmius@fedibird.com 宗教は「世界の解答を周りに与える」もので、哲学は「世界の解釈の仮説」を提示するものではないのかな〜となんとなく感じています。宗教は「これが正解!みんなで正解しよう!」と問うノリに対して哲学は「これが正解じゃね?他に正解出せそう?」と問う感じを受けます。めっちゃ感覚的ですが😊
@hidao なるほど。ツァラトゥストラはかく語りきという本自体は結構宗教的だと個人的に感じますが、「それをどうとらえるか」という受け手側の営みが哲学なのであって、原始仏教典も受け手の営みによって宗教になったり哲学になったりするのかもしれません.....!
@tatmius@fedibird.com 私の説では、極端に言うと宗教は「完成したもの」、哲学は「未完成なもの」で、宗教は「疑わず信じ抜くべきもの」、哲学は「疑って問い続けるもの」の印象です。原始仏教をどれに定めるかにもよりますが、疑う余地がなければ「宗教」、疑う余地があれば「哲学」って言う印象を持ちますね。
@hidao 個人的には疑う・信じるの区別は受け手が対象をどう捉えるかで変わるものかなと思います。仏教典や聖書もアカデミックな場ではその内容に批判を受けていますし(イスラームだとそれを大っぴらにすると殺されるみたいですが、その内容を内心批判的に考える自由は(少なくとも)日本人にはあると思います)、逆に宗教と考えられていない本でも「人間はこのように生きるべきだ!」という内容をそのまま信奉すればそれは宗教に近い(宗教的)と感じます....。
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@tatmius@fedibird.com 私の説では、極端に言うと宗教は「完成したもの」、哲学は「未完成なもの」で、宗教は「疑わず信じ抜くべきもの」、哲学は「疑って問い続けるもの」の印象です。
原始仏教をどれに定めるかにもよりますが、疑う余地がなければ「宗教」、疑う余地があれば「哲学」って言う印象を持ちますね。